第3話 ピーターパンシンドローム

 大人になんてなりたくない。ずっとそう思ってここまで来た。小さい頃は大人が何でも持っているように思えて、早く大人になりたいと思った事もあるけれど、その為になくさなければならない物がたくさんあると知って、それならこのままでいたいと思うようになった。ピーターパンシンドローム。いつまでも大人になり切れない人たちをそんなふうに呼ぶそうだ。

 実際、世の中ままならない事ばかりで嫌になる。この世に生を受けて三十年以上が経つけれど、その中で思い通りになった事がいったい幾つあるだろう。ごくごく普通の家に生まれ、父は地方公務員。母は外に生きがいを求めて働く兼業主婦。世間は、地方公務員というとワイシャツにスーツのお堅いイメージで『お役所にお勤めですか?』なんて聞いたりする。けれど父は作業服に身を包み、額に汗して働く現場サイドの人間だ。短大の面接試験の折などは、同じ質問をなげかけられた試験官に、『それも立派なお仕事ですよ』と慰められた事もある。

 言われるまでもない。私は父の仕事を恥ずかしいと思った事などないし、同様にお役所勤めの公務員をことさらにご立派だとも思わない。どんな仕事をしていても真面目に一生懸命働いている人は偉いのだと思っている。けれど哀しいかな、世の中真面目な人ほど報われない。一生懸命やればやるほど損をする。そして上手に立ち回る人だけが得をするようにできている。その事に気がついた時、私は大人になるのをやめる事にした。立派な大人にならないように、私は私であり続けようと決めたのだ。

 楽をして上手に生きている人は何処にでもいる。誰かにうまく取り入って、欲しい物だけを手に入れる。彼らの素晴らしい点は相手に利用されていると思わせない所にある。周囲の忠告も耳に入らないほど、すっかり騙されてしまう。まあ、騙されているうちはまだ救われるのかも知れないが、その手が通用する限り、彼らは自分の考えを変えないだろうから、やっぱり世の中真面目な人だけが損をする世界という事になってしまうのだろう。

 力のある者だけが物を言い、そうでない者の言葉は捨て去られる。『長いものには巻かれろ』と言葉に従って、白いものまで黒と言う。自分の意見を言う権利まで奪われて、それを裏で嘆く事しかしない大人たち。相手が誰であろうと、違うものは違うと声を大にして言えば良いのだ。自分の意見を持って何が悪い。ところが近頃は、学校でも地域の集まりでも、自分の意見を持つ人を煙たがる傾向にあるらしい。結果、意見を求められても答えられない人ばかりが増えている。何か言って反感を買う事を恐れているのだ。本当は、意見はそれぞれ違うからこそ意味がある筈なのに。

 そんな事を考えつつも、私もとりあえず今のところは目立たず騒がすを心掛けている。出る杭は打たれると言うから、変な所で反感を買ってもつまらない。それくらいの考えは私にもある。でも時々どうにも我慢が効かなくなって、つい怪物が顔を出しそうになる、出る杭は打たれるけれど、出過ぎた杭は打たれない。それなら、いっそ出過ぎた杭でありたいとさえ思えて来る。世間の荒波をすいすいと渡っていく器用な人たちを横目に見ながら、私はあちこちにぶつかって傷だらけの自分を少しだけ愛おしいと思う。不器用で、自分でさえ好きになれない私でも、本当の気持ちをごまかして上手に生きていく私より、自分に正直でありたいと、それだけはどうしても譲れない。もう少し大人になって、周りに足並みを揃えることも大切だと心配してくれる人もあるけれど、これがなかなかうまくいかない。決心した途端に何かそれをひっくり返すような事が起きて、私はやはり私のままここまで来てしまった。

 それでも時折振り返ると、こんな私にもきらきらと輝いた瞬間があったのだと胸が熱くなる事がある。そして今も、その瞬間は私の胸の奥に大切にしまってある。時々そっと出して眺めると、気持ちが温もりで満たされていくのがわかる。多分、人生で一番輝ける時。そして誰もが、そんな思いを胸に大人になっていくのだろう。だけど、ふと思う。大人になるって何だろう。人は皆、大人になる為に生きているのだろうか。大人でもなく、子どもでもなく、ただ自分が自分である為に、そうして生きていられたあの時に、なぜ人は留まっていられないのだろう。私はただ私でいたいだけなのに。

             2017年 記

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わたくし日記 @okaeri333

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