第128話 ミウ先生になにがあったのか③

 ミウ先生は、小さなハンドバッグを旅行鞄から取り出して、鏡を見て身だしなみをたしかめた。


「何か温かくて甘い飲み物をいただきたいにゃあ」


 個室の扉が並ぶ通路をひとり歩いてゆく。


「こんばんは」


 見回りに来た車掌に挨拶され、先生も返す。


「食堂車は、まだ開いていますかにゃあ」

「もちろんです。あと二時間は開けていますから、ごゆっくりどうぞ。

 ただ、本日どういうわけか混んでいます。よろしければ、ご注文のものをお部屋へお届けすることもお持ち帰りすることもできますよ」

「そうでしたか。ご親切ありがとうございますにゃあ」


 食堂車に着いた。

 白いテーブルクロスの卓が並び、シャンデリアがキラキラと光っている。珈琲茶碗には金縁があり、スプーンやフォークは銀、湯気のたつスープは透き通った金色だ。

 そしてたしかにこみ合っていた。

 背広の紳士たちが酒を片手に談笑していて、これはどこかの役場か何かの大きな仕事帰りかと伺えた。


「ご注文をどうぞ」


 ミウ先生はカウンターのふくよかな婦人にお品書きを渡され、様々な料理があるのに感心しながら、温めたミルクを注文した。旅先なので、甘く香るルルバの実の酒入りとした。


「温かいにゃ」


 ミルクの入った蓋つきのカップを両手で持ち、個室へ戻る途中、穏やかに談笑する声がどこかの扉の向こうからかすかに聞こえた。よい旅の夜だ。


「失敬。ミウさん。ミウさんでは?」


 食堂車から追いかけて来たらしい紳士の声があった。


 覚えのある顔だ。


「カゲトラさん」


 軍の同期ではないか。見違えたが、身体の縞模様と、聡明そうな風貌に覚えがある。


「こんなところで。お元気そうで。気づかずすみません」

「こちらこそ、こうしてあとで追いかけている始末」


 彼はずいぶん前に退役し、事業をはじめたと聞いていた。

 立派な様子から、よい暮らしぶりが見てとれて、何よりだった。

 しばらく笑いあって、


「少し話しましょうか。談話室が空いていましたので、おさえました」


 わざわざ? と、ミウ先生、いぶかしみながらも、ひとつ勘が働いて、


「ええ」


 食堂車の手前の談話室、と、思えば、食堂車の方向には戻らず、ミウ先生の二等の個室の前も通り過ぎ、カゲトラ氏は一等車へ迷いなく進んでいく。

 これはこれは。

 同期の泣き虫だったカゲトラ氏、ずいぶん出世されたこと、驚きである。


「ふふ」

「〈泣き虫〉のカゲトラが、と、思いましたね?」

「びっくりにゃあ」

「もっと驚かせることがあるのですよ」


 カゲトラ氏は、立派な一等車両の扉を叩く。


「閣下」


(閣下)


 ミウ先生の耳がぴくり、とした。

 自分に引き合わせられる『閣下』と呼ばれる人物は、ひとりよりほかない。

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