第69話 トビハコガメ、夜空へ

 本日の〈救い手〉についての報告書を読み、ひとり胸中をざわつかせていたベルリオーカは、表に向かって誰かが叫んでいるのを聞いた。


 露台へ出てみれば、眼前には。ベルリオーカも一瞬たじろいだ。


 トビハコガメが飛んでいる。霧を通して見る姿だが、たしかにトビハコガメだ。


「ベルリオーカさま!」


 叫び声の主はスウバル氏と、御者のスピイカ氏であった。〈奥の間〉からは少し離れた、来賓室の窓だ。

 ベルリオーカ、めったに使わない飛行術を用い、両氏の元へ向かった。


「どうしました?」

「ニヤさんに、トビハコガメの中をご案内したところ、何を勘違いしたのかトトが飛び立ったのでございます」


 スウバル氏が。

 スピイカ氏も続いて、


「トトのやつは、王子の夜の習慣を覚えていたのです。仮にこちらの部屋をお借りしている今夜も例外ではない、と、実はずっと待機していたのでしょう。

 私はすっかり控え室で寝ぼけてしまい、出遅れ申し訳ありません」

「習慣?」


 衛兵たちも集まってくる。


「ご心配なく!」


 トビハコガメの乗り口から声がした。

 王子だ。

 ベルリオーカは、そちらへ向かって飛ぶ。神官の装束がふわりと広がり、蝶のようだ。


「ニヤもいるの?」


 ニヤも、乗り口から少し顔を出して、おっかなびっくり、下を見ている。ベルリオーカが来たのを見て、少し安心したようだ。


「私も大丈夫です!」


 大丈夫、とは言うが、トビハコガメはその間も悠々と夜空をゆく。紫の霧をかきわけて。


「ベルリオーカさま!」


 王子が言った。


「おそらく、トトは我々のもとの屋敷に向かっているんです」

「なぜ?」

「友達になったニヤに屋敷を見せたくなったのと、それから……」


 少し言いよどみ、


「僕が兄さまと姉さまに会いたい、と思っているのが伝わってしまったのかもしれません」

「……」


 ベルリオーカは、ひとつ思い当たった。


「王子。スピイカさんがあなたの〈習慣〉とおっしゃっていたのは、そのことかしら?」


 王子は小さくうなずいた。

 毎晩〈通路〉で、元の世界の兄弟と言葉を交わしていたのだろう。王族とはいえ、ニヤと年のころは同じなのだ。


「失礼」


 ベルリオーカ、トビハコガメの中へ乗り込んだ。


「王子。トトは、お屋敷に行って、あなたがご兄弟と挨拶をしたら、また神殿へ戻ってくれるかしら?」

「はい。おそらく。今みたいなトトの態度はめずらしくて。いつもは僕の言うことを聞いてくれますから」

「ちょうどいいわね」

「え?」


 ベルリオーカは、トトのすぐ下まで追ってきた衛兵に告げた。


「このまま私が二人を保護し、今夜中に必ず戻ります。

 行き先はルールウ公国通路の屋敷。あちらにも人員は揃っております、心配は無用。

 霧が深いので、神殿の者はこのまま待機してください」

「はいっ!」


 神殿に住まい、この地においての最高の位である〈白の巫女〉の右腕。さらに人々に乞われて長年大神官をつとめ、すべてのまとめ役であるエルフ様である。その判断に誰が異を挟もうか。


「私もご一緒します、王子。

 それなら、誰からも叱られないわ」

「たしかに」

「ニヤ。高いところはこわくない?」


 座椅子のひとつに小さい身体が沈んでいる。

 その手がベルリオーカの装束の裾をつかんでいる。


「ちょっと、びっくりしてしまって」

「ニヤ、悪いことをしたね。まさかこんなことに」

「いいえ。お屋敷に行けるのは嬉しいです。でも、」


 ニヤは少し考えて、


「異世界から来たお家、誰かが呼ばれて来るところなんでしょう? これからはち合わせになってもいいから早く来てくれないかな……少し思って……」


〈さだめに導かれる者〉。


「その人が早く来てくれたらあの不思議な家は消えて、マルウスもお家で落ち着けるんだよね? 毎日、お兄さんやお姉さんに会えるよね?」

「ありがとう、ニヤ」


 ふたりを見ながらベルリオーカ、優しく微笑む。ほとんど不老不死の身にも、わずか七歳の子供が見せる七歳にしかない心は貴い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る