第141話さるは、宮の御心あかぬところなく(9)斎院と中宮御所の女房の違いについて

斎院わたりの人も、これをおとしめ思ふなるべし。さりとて、わが方の、見所あり、ほかの人は目も見知らじ、ものをも聞きとどめじと、思ひあなづらむぞ、またわりなき。すべて、人をもどくかたはやすく、わが心を用ゐむことはかたかべいわざを、さは思はで、まづわれさかしに、人をなきになし、世をそしるほどに、心のきはのみこそ見えあらはるめれ。

 いと御覧ぜさせまほしうはべりし文書きかな。人の隠しおきたりけるを盗みてみそかに見せて、取り返しはべりにしかば、ねたうこそ。


斎院の人も、このような状態を知り、批判なされるのでしょう。

ただ、それが事実としても、自分たちの所だけが素晴らしく、他の所は興趣を理解する能力もなく、聴く耳すらも持たない、と貶めることも、理屈が通りません。

全てにおいて、他人を批判するのは簡単なことでありますし、自分自身について神経を張り巡らすことは難しいことなのです。そういうことを忘れて、自分だけは賢いとして、他人を貶め、世間を小馬鹿にする、そのようなことに、その人の品格の程度が、見えてきてしまうのです。

本当に、お目に掛けたい、と思われたお手紙でした。

誰かが隠してあったものを、また別の誰かが、内緒で見せてくれたのですが、すぐに持ち去ってしまったので、お見せできなくて、実に残念に思います。


そもそも、斎院の中将の君の、他人に送った私信を、こっそり見た(盗み見た)内容が、「斎院至上で他はダメ」だったことによる、紫式部が「それは言い過ぎ」「斎院と中宮御所は仕事も性格も異なる」「もちろん中宮御所にも、どうにもならない恥ずかしい面があるけれど」と、様々に書いた文である。


ただ、紫式部自身が、理解しているように中宮御所は、「中宮定子と清少納言」の時と比較され、「中宮彰子と紫式部」の時は、多くの殿上人に「面白くない」「しっかりとした仕事、風情ある対応できる女房がいない」と、マイナス評価されていることは事実。


中宮彰子のご性格からの、おっとり感、事なかれ主義の蔓延しすぎと思うけれど、紫式部は、才女として、中宮彰子の女房としてスカウトされた以上、藤原道長からは「清少納言のような才気煥発、当意即妙の受け答え」も期待されてたのでないか、と思う。

しかし、現実には、紫式部自身の「引っ込み思案の性格」から、その対応ができなかった。(紫式部自身はプライドが高いから、認めづらいとは思うけれど)

多くの学者は、これらのことを考慮せず、清少納言と紫式部の優劣論を戦わせるけれど、これも疑問が生じる現象である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る