第9話二十六日、御薫物合せ果てて、

(原文)

二十六日、御薫物合せ果てて、人びとにも配らせたまふ。

まろがしゐたる人びと、あまた集ひゐたり。

 上より下るる道に、弁の宰相の君の戸口をさし覗きたれば、昼寝したまへるほどなりけり。

萩、紫苑、色々の衣に、濃きが打ち目、心ことなるを上に着て、顏は引き入れて、硯の筥に枕して臥したまへる額つき、いとらうたげになまめかし。

絵に描きたるものの姫君の心地すれば、口おほひを引きやりて、

 「物語の女の心地もしたまへるかな」

といふに、見上げて、

 「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なく驚かすものか」

とて、すこし起き上がりたまへる顏の、うち赤みたまへるなど、こまかにをかしうこそはべりしか。

 大方もよき人の、折からに、又こよくなくまさるわざなりけり。


※二十六日:8月26日。

※御薫物合せ:各種の香木を粉にひき密をつなぎとして丸め、しばらく土の中で寝かせて作る。「あはせ」はその調合のこと。

※まろがしゐたる人びと:香を丸める作業に従事した女房達。

※弁の宰相:宰相の君。道長の異母兄道綱の娘豊子。紫式部と親しい中宮の女房。年も若く、これから生まれる中宮の子の乳母になる。


(舞夢訳)

26日、薫物の調合を終えられ、中宮様は女房達にも、お配りになられます。

練香を丸めていた女房達は、それをいただこうと、大勢集まりました。

中宮様の御前から、局に下る途中に、宰相の君の戸口を覗いてみると、どうやらお昼寝をなさっておりました。

萩や紫苑など、色とりどりの衣を中に着て、濃い紅で光沢が素晴らしい小袿を上に羽織り、顔は衣の中にすっかり隠し、硯の箱を枕としておやすみになっておられます。

少しだけ見えている額のあたりが、実に可愛らしくて、若々しいのです。

絵に描かれるような、素敵なお姫様のような雰囲気なので、彼女がかぶっていた衣を引きのけて、

「まるで物語の女君のような感じですね」

と語りかけると、

宰相の君は目を開けて私を見て、

「あきれたなさり方です、眠っている人を無理やり起こすなど」

と言って、少し起こされたお顔が、赤く染まっておられる様子など、実に上品で素敵でした。

ふだんから美しい人が、その時によっては、また一段と美しさを増す、ということなのでした。



ご出産を控えた時、中宮彰子や、女房たちも、まだ余裕があったのか、薫物合わせをしている。

おそらく紫式部も、それに参加している。

宰相の君は、それには参加せず、昼寝をしていた。

中宮の子の乳母に内定していたので、特別扱いなのかもしれない。

紫式部は、その宰相の君が気になって覗き、かぶっていた衣を引きのけて、起こしてしまう。

確かに、可愛らしい女性だったかもしれないけれど、起こされた身になれば、やはり気に入らない。

紫式部は、文句を言われてしまう。

しかし、その文句を言う顔も、褒めているのが面白い。

やはり天皇の皇子の乳母となれば、宮中でも、相当に一目置かれる立場になる。

紫式部としては、「自らの今後の立場」を考えて、宰相の君を特別に褒めたのかもしれない。





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