第3話 テン・イヤーズ・レイター
トンネルの暗闇で、目を閉じたかのような錯覚をし、少し朦朧としながら、だんだんと目が慣れてきて、対面の窓枠に写る自らの顔をぼうっと眺めている。
月日が流れるのは本当に早い。
目の前には、ネクタイを緩め、脂ぎった顔を苦しそうに上下させ、叫び声とも、泣き声とも取れる呻きを搾り出しながら、缶チューハイ片手に1日を終えようとする中年男性が座っている。
暗闇に、車内の電球が閃光状に淡く伸びながら反射して、火照った頬の熱を感じながら、僕は瞼が重くなるのを感じた。
10年前なら言えた。そう思う。
将来に対する不安は漠然と頭を過ることはあっても、それは10代の感性にはあまりにもマッチしない。
世間知らずで能天気な明るさは、まるで風船のように、「好き」って言葉を空気のように吐き出させた。
ずっと、好きだった。
これは嘘だ。
ふと、六本木のクラブで徹夜して、なんともなしに一緒になった中年のLGBT男性と、未明にふたりで牛丼を食べたことを思い出した。
「女は一瞬で色褪せる。だから私は食べるだけ。」
彼(彼女)はそう言った。
僕は、それを真理だと思う。
仕事先で、ひょんなことから、彼女と同郷だという男と会った。
「彼女、〝すごく〟綺麗なひとでしょう。すらっとして、モデルみたいで、そして遊び人。僕も何回か一緒に出掛けたけれど、気まぐれな人でした。きっとその頃のことなんて、もう、すっかり忘れてしまっているでしょうけれど。」
「そうですね。〝なかなか〟綺麗なひとですね。しかし、旦那がひどいんです。外資系コンサル勤務のハイスペなんですが、家庭を省みない。外で飲み歩いてばかりいますよ。奥さんと子どもに手を挙げることもあるようです。でもね、奥さん全然怒らないんです。献身的に旦那に尽くしてますよ。」
僕は、〝なかなか〟、いうコトバが気に入らなかった。
「すいません。つっかかるつもりはないのですが。彼女は〝すごく〟綺麗なひとですよ。みんな彼女が好きだったけど、誰か一人に振り向くことは決してなかった。」
男は口元をきゅっと結び、少しイライラしたように早口になった。
「本当に、献身的で、誠実な女性みたいですよ。失礼に当たらなければ申し上げると、どちらかというと地味なひとです。一度お会いしてみてはどうですか。今は千葉にいます。海辺に近い、新築の真っ白な家に住んでいますよ。」
金曜日の夜7時。
池袋駅は、たくさんのひとを次から次に吐き出して、ネオンやら、タクシーのクラクションやら、女子高生の笑い声やらが、次から次に交錯している。
全身から、真っ赤な感情が足元から頭のてっぺんを突き抜けて、目眩がした。
7時半。
8時。
ここ数日で、東京はめっきり寒くなった。吐く息が白い。
空を見上げても、星はよく見えなかった。
8時半。
新着メールあり。
・・・・・・・・・
旦那が、急に早く帰ってくることになってしまいました。
ごめんなさい。今日は行けません。
ふと、予備校生のとき、一緒にふたりで海に出かけたのを思い出しました。
ずっと、あなた好きでした。
今度、ゆっくり。ね。
・・・・・・・・・・
受信時刻は午後5時。
僕のスマホは今日に限って特に電波が悪い。
午後5時が18歳で、
午後7時が28歳。
そして、午後9時には38歳。
決して時計の針は戻らない。
彼女はすっかりもう、僕の知らないひとだ。
なんだか、泣きたいような気持ちになって、胸がぐっと締め付けられて、吐きそうだった。
確かに自分の中にあった大切な感情は綺麗さっぱり消え失せて、今はすっかりなくなってしまったことに気づく。そして、それの感情をすんなり受け入れて、途方にくれている自分に、少し驚いた。
僕自身はなにも変わっていないようで、大事なものは確かに失っている。
失った代償に、何か得たものはあったのだろうか。
とりあえずスマホは機種変更しよう。
そう思いながら、僕は埼京線のホームへ早足に歩いた。
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