第2話 蓄音機とか青春の輝きとか初恋とか
田舎の城下町に出張の用事があって、電車の待ち時間に少し余裕があったため、とある文学館に立ち寄った。
明治・大正の古き良き時代の、西洋の香りを色濃く残した木造の外観。
中に入ると、客は僕一人。
中央ホールには、奥に黒い暖炉が置いてあり、茶色い5つの丸テーブルと椅子が並べられていた。
窓際には古いヤマハのグランドピアノ。
なんだか窮屈そうに端に寄せられているので、気の毒に思って近づいてみると、柔らかな埃がシーツにちらちらと被っていて、案の定暫くは使用されていない様子である。
ピアノ越しに古い桜の巨木が見えた。
手持ちぶさただったのか学芸員がつかつかと近づいて来た。
「ピアノは暫く壊れたままになってしまっていて…」
「そうですか」
とだけ言い、僕は、柔らかな緑色を覗かせる桜の巨木を見つめ続けた。
「あの、古い蓄音機があるのですが、よろしかったらお聴きになりますか。」
蓄音機はホールには見当たらなかった。
「お願いします」
と僕が頷くと、彼女は隣室に引っ込んでいった。
暫くすると、ツーとレコードの擦れる音がして、控えめにな柔らかい音色が響きはじめた。
カーペンターズの「青春の輝き」
のサビの部分を少々。
「あ、すいません。これは私が昨日勝手に…」
カチャカチャ、ストンと慌ただしい音がして、再びツーと擦れる音がすると、今度はシューマンの「トロイメライ」がゆっくりと流れはじめた。
「よろしかったら、腰掛けてください」
僕は、桜の木が見えるように、一番窓際の椅子に腰掛けた。
学芸員も私の向かいの椅子にストンと腰掛けて、黒いストッキングと、ベージュのスカートの間から白い足を覗かせた。
見た目、20代前半位だろうか。僕は、カーペンターズが好き、というその学芸員に好感を持った。
曲間に入り、音がゆっくり小さくなってくる。
「竹の針を使用しているんです。針がしなやかで、切ない音がします」
「切ない」
といった彼女の言葉が引っかかる。
ゆったりと時が流れる。
「イタリア水夫の歌」が流れて、あぁいつ聴いたか、記憶にないほど小さいころに聴いたな、と思った。
途端、ぶわっと強風が吹き、桜の花びらが、無数に舞い上がった。
「隣に、小高い城跡があって、昔は徳川の殿様を出したお城だったそうなんですが、そこに大きな山桜がありまして」
「あぁ、山桜が」
ひょっこりと新緑を覗かせる桜の巨木を眺めながら、僕は桜の花びらが、ひらひらと落ち行く様を眺めていた。
「桜の花びらが散って、そうすると、掃除が大変なんです。ピンク色がすっかりなくなると、あぁ、いよいよ蒸し暑くなってくるな。夏が来るんだなと、そう思います」
「そうか、そうですね。これだけたくさんだと」
桜の巨木が真っ白に霞んで見える。
僕は学生の時分を思い出していた。
初夏の暑い休日だった。僕は、彼女と一緒に、古い城下町を歩いた。
城跡に、彼女の出身校である女子高があって、その前の自動販売機で、ドクターペッパーと、アクエリアスを買った。(なぜだか、こういうことだけは、鮮明に覚えているものだ)
彼女が、暑いので、中に入ろうと言い、手を引かれるまま、僕は女子高の正門をくぐり、玄関口を突きぬけ、職員室の前まで来た。
「大丈夫大丈夫、待っててね。」
彼女がそういうので、僕は職員室で待った。
しばらくして、彼女が〝関係者〟と書かれたプラスチックの札を持ってきて、僕はそれを胸につけ、彼女についていった。
向かったのは美術室だった。
白髪の初老の女性が椅子に腰掛けている。
「こんにちは。ご無沙汰しています」
彼女は、顧問の先生なの、と言った。
彼女と、初老の先生が昔話をはじめたので、僕はなんとなく気不味くなって、美術室のまわりをぐるぐると回った。
木原美奈
と書かれた絵が飾ってある。彼女の描いた絵のようだ。
巨大な眼を、角張った荒々しい指ががっしりと掴んでいる。なんとも抽象的で、グロテスクな絵だ。
「彼女、感性が独特なのよ」
先生が、そう言った。
僕は何も答えず、絵を眺め続けた。
「お茶を入れましょう」
と、先生は出ていき、彼女も後を着いていった。
古い、今にも脚が折れそうな椅子が窓際に置かれてあって、僕はそれに腰掛けた。
椅子がきぃと黄ばんだ音をたてて軋んだ。
少し離れたところから、カーンという金属音や、わあっと甲高い歓声が聞こえてくる。外を眺めると、ソフトボールの試合だ。小柄な女性が、あっという間にダイヤモンドを回って、風のようにホームベースを突っ切った。
美術室のすぐ近くには芝生があって、真っ白なソフトボールがポツンと転がり、黒々としたセミが静かに腹這いになっていた。
それは、なんとも涼しげで、ガラス窓に屈折して差し込む柔らかな陽光に目が霞んで、僕はただただ、一面、真っ白く見えて、あぁ、気持ちがいいな、と一瞬まどろんだ。
白、真っ白。
薄目を開けると、音を立てずに、スッとセミが羽ばたいた。
限りなく真っ白に近い、だが微かにピンク色を残した桜の花びらか一枚。
それは、柔らかに光を跳ね返すソフトボールと同化していた。
季節外れの桜の花びら。
僕は、それをとても美しいと思った。
その後の記憶は曖昧だが、僕たちはキスをした。
彼女の在籍した、3ーBの教室で。
彼女が、僕の肖像画を描き、それはやはりグロテスクな代物だったのを覚えている。
ショートカットの似合う、色の真っ白な明るい女の子。
会社に戻るための、列車の時刻が迫ってた。
僕はホームに立ち、単線列車を待った。
線路が熱を帯びて、霞んでゆらゆら揺らいで見える。
彼女は、海外にボランティアに出掛けて、そこで知り合った年配のイギリス人と結婚した。 子どもは、男の子がふたり。
年配のイギリス人とは離婚して、日本に戻って来て、都内のとある病院で感染症に罹って呆気なく亡くなった。
ある人から、このように聞いた。
真実は定かではないし、特段感想はなかった。その話を聞いた瞬間は。
ひと夏しか一緒に過ごさなかったのだ。
彼女と僕が交錯したのは、あの真っ白な夏の日のただ一点しかない。
列車がカタカタと、ホームに入線して来る。
そういえば、城跡の堀には純白のクルメツヅジが植えてあった。
ツツジは今が一番美しい。
仕事が落ち着いたら、大事な人と見に行こう。
そう、僕は思いながら、列車に乗り込んだ。
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