【ちょっぴり切ない文学短編集】ピアノと心象風景

蓮太郎

第1話 ピアノと心象風景

 ふとした日常生活の中で、


 「なぜだろう。この風景、どこかで見たことがあるはずだ」


 と、思うことはないだろうか。


 はじめて訪れたはずの古い街並みであったり、真夏の田園風景を眺めて、そう感じることがあるかもしれない。


 それは、とても不思議な感覚で、懐かしいような、少し気恥ずかしいような、それでいてなんだか空恐ろしいような、なんとも言えない感覚ではないか。


 

 先日、僕は、出張で訪れた地方都市で、何の気はなしに、小さな音楽堂に立ち寄った。


 メインホールにはスタインウェイがどっかと置かれており、天井のステンドグラスから淡い陽光が差し込んでいた。一方で、入り口付近には、忘れ去られたように、灰埃を被った木製のアップライトピアノが置かれている。

 

 僕は突然、この場所で、この位置にひっそりと佇む、この古びたアップライトピアノを、いつか僕は夢の中で見たことがあるのだ、と思った。


 初めて、ここを訪れたはずなのに。


 懐かしいような、切ない感覚が一気に全身を支配し、一瞬、僕はまどろんだような気がした。


 冷たい椅子の脚から陰が伸びて、ひとりの髪の長い女性を象った。

 あぁ、僕は、このひとを知っている。

 白くてすらりと長い指先が銀盤に触れる。

 あぁ、この綺麗な指先も、僕は、よく知っている。

 

 ピアノの脚から伸びた短い陰は、幼い子どもを象った。

 栗色にきらめく柔らかい質感は、それは僕。きっと僕自身に違いがなかった。


 きっと、それらは原初的な心象風景で、夢だか現実だか判然としない不確かなものではあったが、確かに僕の中に存在している風景のように思えた。



 その日の晩。


 夢の中で、ピアノと童謡のメロディが聴こえた気がして、苦しくなって目を醒ました。

 頬が涙で濡れていた。

 たまに、このようなことがある。


 なぜ泣くのだろう。理由なんて何もないはずなのに。

週末、僕は久しぶりに実家に帰省した。


 母親に、「ピアノはどこか」と尋ねると、離れの倉庫だと言う。


 十数年ぶりに離れの倉庫に向かうと、入り口付近に、ひっそりと埃を被った木製のアップライトピアノが置いてある。


 見覚えがある。

 懐かしい。僕のピアノだ。

 僕の大好きだったカワイのアップライトピアノ。

 木目調のフレームには温もりがある。


 僕は、小学校3年生までこのピアノを弾いていたのを思い出した。

 なんだ、僕はあの場所で、これを見たんじゃないか。

 間違いがなかった。


 僕のピアノと、音楽堂のピアノを錯覚したのだ。


 なんだ、そういうことじゃないか。

 合点がいって、そして何だか興醒めしてしまった。


 倉庫を後にして、リビングに戻ると、母が紅茶を入れていた。

 そう言えば、ピアノの練習が終わると、母は必ず紅茶を入れてくれた。


 「あのさ、ピアノのことなんだけど」


 「ピアノなんて、懐かしいわね」


 「いつから倉庫に」


 「あぁ、あなたが出ていってからだから、もう十年くらいになるかしら」


 「そう」


 「あなた、まだピアノは弾くの」


 「いや、最近は全然」


 「もったいないわね、だいぶお金、かけたのよ」


 そう言うと、母は少し困ったように微笑した。


 甘ったるい紅茶を啜りながら、配置の変わないソファやダイニングテーブルや時計を眺めると、この家を後にした高校生の時分から、僕も、母も、なにも変わっていないように思える。


 ふと、思い出したように、母が口を開いた。


 「そういえば、白鳥先生って覚えてる?」


 「白鳥先生?」


 「そう。あなたの幼稚園の先生よ」


 「いや、あんまり」


 「ほんとうに覚えていないの?あなたの大好きだった先生じゃない」


 「その先生がどうかしたの?」


 「亡くなったのよ」


 「え」

 

 「だから、なくなったのよ。暮れに」


 「旦那さんの転勤の関係でしばらく海外に行かれていたらしいんだけど、2、3年前かしら。日本に戻ってきてから、近くの幼稚園にお勤めでね」


 「そう」


 「あなた本当に覚えていないの?」


 「うん」


 「あなたね、もともとピアノだって、あなたが幼稚園に入学してすぐに、先生と一緒に弾きたいって習いはじめたんじゃない」


 「嘘だよ。覚えてないよ」


 「まったく薄情ねぇ。あなた、白鳥先生がお辞めになったとき、それこそ毎晩泣いていたのに」


 母が、また困ったような、泣き出しそうな顔で微笑した。


 「そんなこと、なかったよ」

 

 僕は、本当に思い出せなかった。

 それこそ、白鳥先生の名前はおろか、幼稚園時代のその時期の記憶も。


 「なんで、死んだの」


 僕は、小さく呟いた。


 「なんでも、すい臓ガンだったらしいわよ。まだ50にもならないからね、進行がよほど早かったみたい」


 「そう」


 僕は、相変わらず甘ったるく口内にドロリと溶ける紅茶をゆっくりと啜ると、ふ、と息を吹き出した。


 

 「あのさ、ピアノ、調律に出してもいいかな」

 

 「いいけど、でも、あなた以外誰もピアノなんて弾かないわよ」


 「いや、僕も暫くは弾かない」


 「じゃあ、なんで」

 

 「ピアノに申し訳ないから」


 おかしなこというわねぇ、と母は小首をかしげたけれど、特に反対する理由もないようにみえて、僕は早速調律師に電話をかけた。


翌週、僕は再び実家を訪れた。

 

 調律師の先生に、お願いします、と言うと、2階の部屋に上がった。

 

 本棚を眺め、何とはなしに昔のアルバムをぱらぱらとめくる。

 高校生、中学生、小学生。どの写真も、懐かしい僕の記憶を呼び起こしてくれる。


 小学校の卒業アルバムに、1枚の写真が挟まっていた。

 おそらく幼稚園の入学式のものだろう。

 少し大きい紺色のブレザーをはおり、満面の笑みをたたえている僕。母。

 そして、髪の長い、若い女性。


 僕は、別れの日の記憶を(なぜかその日の記憶しか蘇らなかったのだが)鮮明に、思い出していた。


 僕は、泣いた。先生が突然いなくなって。

 確かに僕は、白鳥先生が大好きだった。


 先生がいなくなったのは、恐らく、僕が小学校2年生のときだ。

 幼稚園を卒業してから、大きくなった背丈を、覚えたての漢字を、そして弾けるようになったピアノの曲を、僕は先生に自慢しにいっていたはずだ。


 なぜ、綺麗さっぱり忘れていたのだろう。

 泣いた日。先生は僕に一言もなく、突然いなくなった。


 そう、本当に突然。

 幼い僕は、突然の別れが理解できなかったのだ。

 でも、先生が、たまにしかこない卒園生に気をとめる必要があるのか。

 ただ、転勤か、辞めただけ。それだけ。


 大人になると、そんなことなんでもないことなのに。


 ふと、あることが気になって、僕は1階の母に尋ねた。



 「ねぇ、実家宛にきた年賀状、どこに仕舞ってある?」



 なによ、突然。それなら、あなたの部屋の机の引き出しの中よ。

 僕は急いで再び2階に上がると、懐かしい勉強机の引き出しを開けた。


 たくさんの年賀状の束。


 その中から、シマムラチエという名の年賀状を漁った。


 8通。

 それは、8年分の記憶。



 初めの年賀状には、


 『先生、おげんきですか。先生のおかげで、うたがだいすきになりました。学校がたのしいです。』


 と、書かれている。


 最後の8通目。


 『先生、お元気ですか。嫌なこともありますが、元気に高校で頑張っています。』


 と、書かれている。


 シマムラチエは、僕が教育実習で受け持った児童だ。

 当時小学校3年生。


 声を出すことが苦手で、友達とのコミュニケーションが上手くいかず、合唱でも口を真一文字に結んで絶対に開くことがなかった。


 そんな、シマムラチエに、僕は学級担任から頼まれて、合唱指導をしたのだ。

 若い先生のほうが、きっと話がしやすいから、と。


 シマムラチエは、僕にはとてもおしゃべりだった。

 普段抑えていた感情を、部外者の僕には吐き出しやすかったのかもしれない。



 僕がピアノを弾くと、彼女は嬉しそうで、放課後、僕は音楽室でピアノを弾き、彼女はひたすらしゃべり続けた。家族のこと、友達のこと、大好きなテレビ番組のこと。


 シマムラチエは、結局クラス全員の前では歌うことはなかったが、僕の前では、1フレーズ、2フレーズ口ずさむようなことがあった。


 実習から、1ヶ月後、僕はクラスに挨拶をし、教室を後にした。

 その日、シマムラチエは欠席だった。


 

 年賀状を何度も何度もめくり、それらが幾重に重なっては霞むので、僕は自分が泣いているのを認識した。


 しばらく傍らのベッドに横になって気持ちを落ち着けたあと、机の引き出しの奥に、忘れ去られたように押し込まれた、古びたレターセットを取り出すと、ぱりぱりと封を切った。



 『年賀状の時期ではなくなってしまったので、お手紙を書きます。

 お返事、ごめんなさい。先生ではないし、嫌なことはたくさんあるけれど、僕は元気です。いつまでも、シマムラらしく、優しいあなたでいてください。』



 僕は続けて、ありがとう、お元気で。と書き添えた。



 調律が終わった、との連絡があって、僕は離れの倉庫に向かった。


 中指で『ラ』の音を押さえると、ポーンと白い象牙の鍵盤が弾み、それは、軽く、美しい残音を響かせて、冬の空に染み入った。

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