名前

「ありがとうございました」


 アルバイト初日、俺は胡桃沢の指導の元、会計の仕事を行っていた。

 今は、会計を終えたお客様を見送っている最中だ。拙いながらも、一人で仕事をやり切り、感嘆の息を漏らす。


 隣で俺の様子を見守っていた胡桃沢は、パンッと両手を合わせると柔らかい笑みをこぼした。


「完璧です井之丸くんっ。物覚えが良いんですね」


「そうかな……ありがと。でも、胡桃沢の教え方が上手いからだよ」


「そんなことないです。じゃ、次は接客の方を覚えましょうか」


「了解。胡桃沢先輩」


「せ、先輩って……からかわないでくださいよ。同い年なんですから!」


 胡桃沢は照れ臭そうに、慌てふためく。小さく頬を膨らませて、上目遣いで俺を睨んできた。

 俺は首を横に傾げて、切り返す。


「同い年だけど、ここでは胡桃沢の方が先輩だろ。だから、そうした方がいいかなって思ったんだけど」


「だ、だったら…………名前……とか」


「名前……ああ、そうだよな。マスターがいる手前、名字じゃややこしいか」


「……井之丸くん、ホントに耳が良いんですね」


 胡桃沢は頬を赤く染めると、ぶつくさと呟く。

 なぜか、不満そうだった。


 俺はコホンッと、咳払いをすると、気持ちを整えて胡桃沢に身体ごと向ける。普段より、声量を落として。


「……れ、玲奈れな……」


「ひゃ、ひゃい」


 俺が下の名前を呼ぶと、胡桃沢の頬に朱が注がれる。電流が走ったみたいに、身体をびくんと上下している。


 俺は俺で、女子の名前を呼ぶ小っ恥ずかしさから、身体が熱くなっていた。


 互いに何も言わない沈黙の時間が流れる。

 と、胡桃沢がチラチラと俺に視線を送りながら、小さく、口を開いた。


「ひ、浩人ひろとくん」


「お、おう」


「……」


「……」


 な、なんだこれ。

 名前で呼ぶのって、こんな難易度高いことだっけ……。


 得も言われぬ気まずい空気が、ひしひしと肌に伝わる中、俺たちは無言のまま視線をそっぽに逸らす。

 そうして、時間にしては十秒弱、居た堪れない沈黙の時間を過ごした時だった。


 俺と胡桃沢の間に割り込むように、その怒気を含んだ低い声は飛んできた。


「──仕事中に、随分と楽しそうじゃないか。なぁ? 井之丸くん」


「ま、マスター……」


 マスターは、メガネのブリッジに中指をかけ、額に血管を浮かび上げていた。

 途端、俺の心臓がピクリと嫌な躍ね方をする。


「たった今決めたことなのだが、従業員同士の呼び方は、名字で固定することにした」


「……え?」


「どうした、文句でもあるのか?」


「いや、文句というか、胡桃沢とマスターは同じ名字なわけですし、ややこしいかなって思ったんですけど……」


「ふんっ、ややこしくなどない。余計なことを気に──」


 マスターは、わざとらしく鼻を鳴らす。

 すると、マスターの声を遮るように、胡桃沢が口を開いた。


「……余計な口を挟まないでください」


 暗く虚ろな瞳で、ギロッと下から覗き込むようにマスターを睨む。

 視線を向けられていない俺ですら、悪寒の走るような冷たい瞳だった。


 マスターが、年甲斐もなく挙動不審な態度を取る。


「ち、違うんだ玲奈……私は、玲奈のためを思って……だな。だから、そんな目で見ないでもらえると……」


「あれ、従業員同士は名字で呼び合うじゃないんですか? あ、なのでこれからはお父さんのことをマスターって呼びますね。家でも」


「家でもっ!? ま、待ってくれ……玲奈はそんなこと気にしなくていいんだ。今まで通りお父さんって呼んでくれれば……」


「マスター、無駄口叩いてないで早く仕事してください」


 胡桃沢は、朗らかな笑みをこぼす。


 マスターは、雷に打たれたような衝撃を受け、ポカンと口を開けていた。

 ズレた眼鏡の位置を調整しながら、上擦った声で。


「て、撤回する……呼び方は自由でいいから……だから、元に戻してくれないか玲奈……」


「仕方ないですね。分かりました」


「玲奈……ッ」


「早く持ち場に戻ってください、お父さん」


「あ、あぁ」


 再び、呼び方が元に戻り、マスターの表情が明るく彩られる。

 しかし、目に涙を浮かべたのも束の間、胡桃沢の無慈悲な一言を受け、覚束ない足取りで厨房の方へと戻っていった。


 マスターが居なくなった後で、胡桃沢は俺に焦点を合わせてくる。


「お父さんから許可が下りたので、その……」


 さっきまで、マスターに見せていた表情とは一変して、照れ臭そうな表情を浮かべる胡桃沢。頬を指で掻きながら、頬を赤らめる。

 彼女の言葉はだんだん尻すぼみになっていき、最後の方は言語化されていなかったが、意図はくみ取れる。俺は、小さく微笑むと、視線を泳がせながら恥じらいを忍びつつ切り返した。


「あぁ。これからは、玲奈先輩って呼ぶことにするよ」


「先輩は別になくても……」


「じゃあ、……玲奈?」


「は、はい。ひ……浩人くん」


「──すみません会計お願いしたいんですけど」


 高校生にもなって、呼び方一つで照れくささを覚えているときだった。

 伝票を持ったお客さんが、俺たちの会話の中に割って入ってきた。


 甘酸っぱい空気が霧散して、ピシッと背筋を伸ばす。


「は、はい。ただちに」


 俺はすぐに、レジの前に着くと、熱くなった顔を冷ましながら応対するのだった。

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