まかない
長かったような、振り返ってみると短かったようなアルバイト初日。
すでに、時刻は二十時を回っている。二十時に閉店したので、店内にお客さんはいない。
アルバイト初日から、随分とハードなスケジュールで仕事を組まされたものだ。
なんだかんだ。5、6時間は働いていたんじゃないだろうか。途中、休憩はあったけれど、アルバイト経験がない俺には、骨が折れる仕事量だった。覚えることも多かったし。
ちなみに、現在の俺はといえば、ちょうど店内の掃除をやり終えたところだった。
「マスター、掃除終わりました」
「そうかご苦労。まぁ、仕事はできるようだな」
「ありがとうございます」
「ふんっ、そのくらい出来て当然だ。調子に乗るな」
褒めてくれたかと思えば、一転してツンケンした態度を取ってくるマスター。俺は苦笑いで応えるしかなかった。
マスターはチラリと腕時計に視線をやると、顎に手を置きボソボソと呟く。
「二十時十九分か。……まぁ、二十時半でいいか」
「? なにがですか?」
「ん、あぁ……これまで従業員を雇ったことがないのからな、タイムカードのような代物がない。だから、井之丸くんのバイト時間を私自らが記録しているのだ」
「じゃあ二十時半ってのは」
「ある程度大まかな方が後で計算が楽だからな。別に、サービスでバイト時間を増やしたわけじゃない。あくまで私が計算を楽に行うためだ。勘違いするなよ?」
皆まで言う前に、つらつらと矢継ぎ早に切り返してくるマスター。
わざとらしく鼻を鳴らし俺から視線を外すと、手帳にペンを走らせる。俺のバイト時間をメモしているのだろう。
その様子に、俺は思わずクスリと笑みをこぼした。
「なにを笑っている。そんな暇があったらさっさと着替えてこい」
「あ、はい、了解です」
マスターに促され俺は掃除用具を片付けると、着替えるために控え室へと向かった。
控え室に入ると、タイミング良くはす向かいにある扉が開いた。胡桃色の髪が虚空に揺れる。更衣室から出てきたのは、メイド服から高校の制服に着替え終えた
「あ、
「玲奈」
玲奈は俺を見つけると、パッと笑みを咲かせる。
今日一日を経て、俺たちは自然と名前で呼び合えるようになっていた。
もはや、胡桃沢と呼んでいたことに違和感を覚えるくらいに成長している。
「ごめんなさい。浩人くんに掃除の仕事、任せてしまって」
「いや全然大丈夫だよ」
「お父さん、何か迷惑掛けたりしませんでしたか?」
「うん、心配しなくても平気だって」
「ならいいのですが、もし何かあったらすぐ言ってくださいね。なんとかしますから」
「ありがと。頼りにしてる」
そう言うと、玲奈は恥ずかしそうに視線を落とす。
俯き加減のまま、小さく消え入りそうな声で俺の名前を呼んできた。
「浩人くん」
「ん?」
「その、私……私、実は……えっと……すみません。やっぱりなんでもないです」
「そう? じゃ、俺も着替えてくるわ」
「はい」
俺は玲奈の横を通り過ぎると、入れ替わる形で更衣室に入る。
喫茶店の制服から、高校の制服へと着替えを済ませてから、再びマスターのいるところへと戻った。
控え室を出た後、俺はカウンターの一席に腰を下ろしていた。
カウンター周辺の照明だけが機能しているため、店内でも明暗がハッキリしている。この、妙な特別感にそわそわしていると、マスターはおもむろに俺の目の前にお皿を置いた。
「まかないだ。……一応遅くまで働かせてしまったからな。サービスにしておく」
「え、ありがとうございますっ」
卵で閉じたオムライス。湯気が立ちのぼり、空腹のお腹を刺激してくる。
目で見ただけで、美味しいのが伝わってくる出来栄えだった。
脊髄反射でよだれがこぼれそうになるのを堪えながら、俺はキラキラと子供みたいに目を輝かせる。
「ふんっ、今回だけだ。せいぜい味わうがいい」
「お父さん……どうしてそういうこと言うんですか」
俺と同じく、オムライスを配膳された玲奈が、ムスッとした表情を浮かべる。
「いや……そ、そんな目で見ないでくれ玲奈。わかった、訂正する。バイト時間次第では今後もまかないを振る舞ってやろう……」
「やった。ありがとうございます」
「玲奈に嫌われたくないだけだ。井之丸くんのためではない」
「それでも嬉しいです」
「……く、そういう好青年な感じはやめろ。ったく、目に毒だ。……私は控え室の方に居るからな。何かあったら呼……いや、ここで玲奈と二人きりにするのはよくないか……よし、食え。食い終わるまでここに居てやる」
マスターはぶつぶつ独り言をぼやくと、どっしりと構えて俺を上から見下ろしてくる。なんだこの、看守に見張られているような居心地の悪さは……。
つい苦笑いを溢していると、玲奈が胡乱な眼差しをマスターにぶつけた。
「お父さん。仕事してください。じゃないと帰るのが遅くなるだけです」
「むっ……だが……」
無言のままマスターを見つめ続ける玲奈。
玲奈の眼圧に耐えかねたのか、マスターは「じゃあ、ごゆっくり」と控え室の方に向かって行った。
重度の親バカな分、娘には驚くほど弱いらしい。
マスターの後ろ姿を目で見送ると、玲奈に視線を向けた。
「仕事って、まだ何かやることがあるの?」
「ありますよ。今日何人来店したとか、売り上げがいくらだったとか、閉店した後にそういった情報を事細かにまとめる仕事です。データ化することで、お店の経営状況を可視化できますからね。そのデータを元に、メニューをいじったり、客層に合わせたBGMを探したりと色々やってるんです」
「へぇ、なるほど……すごいな。だから、個人経営でちゃんと繁盛してるんだ」
「はい、自慢のお父さんです」
玲奈は嬉しそうにはにかむ。
それに釣られて、俺まで頬を緩めると。
「それ、マスターに直接言ってあげなよ。滅茶苦茶喜ぶと思うけど」
「言いません。すぐ調子に乗るので」
「あー、確かに調子に乗りそうかも」
「それより、早く食べましょうか。冷めてしまいます」
玲奈は、放置状態にあるオムライスに目を向ける。
温かいうちに食べないと勿体ないからな。首を縦に振ると、スプーンを手に取る。
早速、食べ始めようとしたところで、玲奈が声を上げた。
「あ、ケチャップかけ忘れてますね。ちょっと待っててください」
「え? いやなくても大丈夫だけど」
「あった方が美味しいですよ」
玲奈はそう言って、すぐに席を立ち上がると冷蔵庫からケチャップを取り出す。
と、俺の元にやってきて、ケチャップの蓋を開けた。器用にケチャップで、文字を描いてくれる。
ものの十秒ほどで、黄色のキャンパスの上に、赤く『おつかれさま』の文字ができあがった。
「ありがと玲奈。玲奈の分は俺がやっていい?」
「は、はい。ぜひっ」
ケチャップを受け取り、玲奈のオムライスに文字を描いていく。
描く文字は、玲奈と同じく『おつかれさま』だ。が、しかし、経験がないからか、想定以上に上手くいかない。
「あ、あれ、むずっ。見てるときは、簡単そうだったのに」
「ふふっ、初めは誰でもそうなりますよ」
かろうじて、読める程度のケッチャプ文字が完成する。
玲奈がやったやつと見比べると、ひどいものだ。小学生と大学生の画力くらい違う。
「なんかごめん。そっち俺が食べるよ」
「えっ、い、嫌です。私がこっち食べますっ」
「え、でも……」
「いいんです。ほら、食べましょう浩人くん」
玲奈は、大切そうにオムライスを自分側に寄せると、スプーンを手に持つ。
まぁ、本人が良いならいいか。俺は俺で、スプーンを持つと、マスターの作ったオムライスをごちそうになるのだった。
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