アルバイト

「覚悟はいいな? 井之丸くん」


 俺に対する憎悪を胸中に膨らませながら、マスターは額に青筋を立てる。店内のローテンポのBGMとは対照的に、荒々しい空気が流れていた。


 あ、殺される。

 瞬間、俺は死を悟っていた。


 反射的に目を瞑り、受け身の姿勢を取る。


 そうして、三秒ほどたっぷりと目を瞑った後で、俺は殴られる──ことはなかった。


 恐る恐るまぶたを開く。


「……ぜ、絶対……玲奈れなは渡さないから。渡さないんだからな。うぐっ」


 見れば、さっきまで殴りかからんとした拳は消えていた。眼鏡を外して、目頭を右手でつまんでいる。

 渋い声が若干上擦っていて、初対面の時に感じた厳格な空気は瓦解していた。


 殴られると思ったが、その前にマスターの精神が不安定になっていた。ひとまず、殴られなかったことに安堵しつつ、俺は腫れ物に触るかのように慎重に切り出した。


「え、えっと再三になりますけど、俺と胡桃沢は付き合ってないですから」


「信じられるか」


「事実なんですけど……胡桃沢からもなんとか言ってあげてよ」


 俺は困ったように首筋を指で掻きながら、胡桃沢に援護射撃を求める。

 さっきマスターに聞かれた時は、素直に答えることに難色を示していた胡桃沢だったが、今度はしっかりと答えてくれる。


「お父さん……井之丸くんとは何もありません。付き合ってないです」


「私の時は、ツンケンしていたのに……井之丸くんに言われるとちゃんと答える、だと……これは一体どういうことだ? なぁ!?」


 年甲斐もなく、ガン垂れてくるマスター。

 俺の頬に冷や汗が伝う。この人、面倒くせぇ……!


「お、俺に言われても……なんと言ったらいいか……」


 助け舟を求めるように、胡桃沢へと視線を向ける。

 と、元から胡桃沢も俺のことを見ていたのか、パチリと目が合った。


 途端、胡桃沢の頬に朱が差し込んで、彼女はすぐにあさってに首を背けた。さっきは援護射撃してくれたのに、今度は何も言ってくれない。


 若干の沈黙が支配して、マスターの額に血管が浮かんでいく。


「……井之丸くん」


「は、はいっ」


 起伏の少ない平坦な低い声で、俺の名字を呼ばれる。

 身体に緊張が走り、肩を上下した。


「これから時間あるか?」


「ありま──な、ないです。ごめんなさいこの後急用が」


「あるようだな。では、ちょっとコッチに来てもらおうか」


「い、いやですから急用が……」


 あ、今度こそ殺されるわ俺。



 ★



「えっとこれは……」


 現在、従業員専用の部屋に連れてこられた俺は、オリジナルのロゴが刻まれた白シャツに、黒ズボン。腰から下を覆ったウエスト用のエプロン姿に着替えさせられていた。


 一言で言えば、喫茶店の制服姿といった感じだ。


 マスターは、俺の全身を一瞥すると、眼鏡のブリッジをわずかに持ち上げた。


「意外と様になってるな」


「あ、どうも。ありがとうございます」


「褒めてるわけじゃない。図に乗るな」


「す、すみません」


 この人との会話、難易度高くないかな……。

 マスターは椅子から立ち上がると、ギロリと俺に眼光を光らせた。


「玲奈と、本当に何もないか私の目で見極めさせてもらう。したがって、これから井之丸くんには私の店で働いてもらう。拒否権はないからな」


「え」


 元から、そのつもりではあったが、意表を突かれる展開だった。

 すでに、マスターから最悪の印象を抱かれている以上、ここでバイトをするという考えは霧散していた。


「嫌か?」


「ま、まぁ正直……」


 胡桃沢への溺愛っぷりを考えると、この人と一緒に働くのは骨が折れそうだ。


「ふんっ、なら好都合だ。玲奈をたぶらかすいけ好かない野郎に、嫌がらせができるのだからな」


「あの、ですから俺と胡桃沢は本当に何もなくて」


「キミにとってはそうかもな」


「は?」


「いいか? 私は玲奈に彼氏など認めない。必ず、井之丸くんの好感度を下げて、玲奈に幻滅させてやるからな。せいぜい覚悟しておけよ」


 ハハハハ、と魔王を彷彿とさせる軽快な笑い声を上げて、踵を返すマスター。


 どうやら、厄介な人に目を付けられたらしい……。




 従業員専用の部屋を後にして、再び店内に戻る。

 と、胡桃沢がとてとてと俺の元に駆け寄ってきた。


「わっ、凄い似合ってます井之丸くん」


「ほんと? ありがと」


「無事、井之丸くんと一緒にお仕事できるみたいでホッとしました」


「無事ではない気がするけど」


 頬を指で掻く。

 胡桃沢は俺の服装をまじまじと見つめると。


「あ、井之丸くんちょっとそのままでいてもらっていいですか?」


「え、ああ」


 俺の服装を見て何かに気に掛かる箇所があったのか、おもむろに両手を伸ばしてくる。

 首元につけてある蝶ネクタイに触れて、位置の調整を始めた。


「これで大丈夫です。ちょっとズレてました」


「急いで着たからかな……ありがと胡桃沢」


「い、いえ……このくらいならいつでも」


「さ、早速やりやがったな……井之丸くん……ッ」


 女子にネクタイを整えてもらう状況に、照れを覚えていた時だった。

 背後から、存分に怒気を含んだ声が飛んできた。


 慎重に振り返る。そこに居たのは、言うまでもないだろう。

 ポンと俺の肩に手を置き、一切笑ってない目で微笑を湛えている。


「ま、マスター……い、今のは、ご覧の通り胡桃沢にネクタイの位置を調整してもらってただけで」


「あぁそうみたいだな。だが、私は今、はらわたが煮えくりかえっている。新人だからって簡単な仕事をさせてもらえると思うなよ。死ぬほどコキ使ってやるからな……!」


 爪が食い込むくらい強く手を握って、決意を固めるマスター。理不尽にも程がある。


 俺が困り果てていると、胡桃沢が擁護してくれた。


「お父さん。井之丸くんに優しくしてあげてください。でないと、私、もう二度とお父さんと口聞かないですからね」


「……ッ、そ、そんな玲奈! それは困る!」


「なら、井之丸くんに対する態度を改めてください」


「くっ……それは……」


「では二度とお父さんとは口を聞きませんから」


「ま、待ってくれ! 分かった。井之丸くんに優しくするから!」


「はい、そうしてくださいお父さん」


 胡桃沢は柔和な笑みを浮かべると、「私も着替えてきますね」と一言残して、踵を返した。

 胡桃沢がフロアからいなくなると、マスターは下唇を噛みしめながら、俺を睨み付けてきた。


「玲奈……私の玲奈がこんな男に……だから共学は反対だったのだ……」


 この人、ホントに胡桃沢のことが好きなんだな。

 将来、胡桃沢と付き合う人は大変そうだ。もし結婚なんて話になったら、テコでも許しを出さなそうである。


 娘を溺愛しすぎるのも考えものだと、そう思う俺だった。

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