第二章

 1  被疑者の割り出し


 綾乃は、ママと交代すると家族待機所で朝まで不安な気持ちで見守った。だが、今だ朝倉は昏睡状態から目覚めることはなかった。ERセンター長、川島悟朗に警察官として事情を話すと、変化があれば、連絡をくれるように頼んだ。

綾乃は一旦自宅に戻り、血の匂いを洗い流すかのようにシャワーを浴び、着替えを済ませたが、何も食べる気が起きなかった。身体の疲れだけではない、理解の出来ない不可解な事実が綾乃の心を押しつぶしていたのである。             綾乃は、無理やり野菜ジュースを流し込むと、レンジローバーに乗り込み、所轄の湘南署に向かった。 


「成宮警部補、どうだ少しは眠れたのか? 朝倉さんの容態は?」

「藤澤一課長、昨日はありがとうございました。まだ昏睡状態が続いていて…」

「そうか・・、焦りは禁物だ。ゆっくり見守ってやったらどうだ」

「はい、・・・。」

「ところで、これが朝倉さんの内ポケットに入っていた免許証だ。だが、よく見てごらん。彼の写真であることには、間違いないと思われるのだが・・・」

綾乃は、朝倉の免許証を手にし細かく確認をしたところ、『氏名 倉田圭吾 昭和50年11月11日 住所 東京都江東区冬木6-*-*』 と、書かれてあったのだ。


「成宮警部補、何か匂うと思わないか?」

「じゃあ、朝倉耕平は偽名だと、課長はいうのですか? そんなこと、信じられないわ…。」

「成宮は、朝倉耕平なる人物の何を知っていると言うんだ。付き合いもそう長くはなさそうだしな。どうせ、身体の一部しか記憶にないんだろう・・・」

「そんな言い方、ひどいですよ課長。たまたま親族の免許証を預かっていたとか」

「苦しい言い訳だな。 成宮刑事さん。俺も、そういう可能性もあるかも知れないと、一応深川警察に問い合わせたのさ。だが、秘匿扱いで該当者なしという事だ」


わずかな期間だとはいえ、肌を合わせた愛しいと思える男である。彼の容態さえ、単なる被害者を越えた身内としての心労の中にあったのだ。綾乃は、実態の分からない男の何を愛したのか、自問は続いていた。

「成宮、お前も一人の女として、愛した男を信じたい気持ちはよく分かる。    しかしな、普通に暮らしている素人が偽名を使ってまで、女を口説かと、いう事だ。                                まあ、それは別として、お前を狙ったはずの弾が運悪く当たってしまった単なる被害者である線も捨てきれない。この真実を暴くのは、当事者の女刑事 成宮綾乃しかいないぞ。やってみろ! 綾乃!」


 綾乃は、上司である加賀町署刑事課長の許可を取ると、湘南署捜査一課と成宮綾乃の合同捜査体制を取ることとなり、署内に本部が置かれたのである。

「成宮警部補、ちょうどいい昨夜の駅周辺の画像の分析中だ。お前も協力してくれ」

藤澤課長に促され、会議室に入ると5人の課員がモニターを前に分析中であった。

しばらく様子を見ていた綾乃だったが、自分の推理を課員に話した。


「私たちが店を出たのが21時5分前だから、とりあえず20時30分以前のものは後回しで良いと思います。それと橘通りから駅に繋がる明るい繁華街を抜けるルートは、あまりにも目立ちすぎるので無理があると思うわ。すると、比較的闇に紛れやすい住宅街に繋がるルートを重点的に調べるのはどうかしら?             そうすると、このルートの入り口に置かれている監視カメラは、コンビニと胃腸科医院の前の二台という事になるのね。

弾が私から見て、二発とも右側に集まっていることから、経験から言うと右利きの男の可能性が高いわ。21時前後に右手に何かを持って走っている人物に特定してチェックをお願いします」

その時、一人の捜査員から明らかな反応があった。

「課長! 見て下さい。こいつ、何か右手に黒いものを握って走っている!」

「手元を、ズームして見せろ」 すると、拳銃であることが、明らかにされた。

「次は、顔だ!」 顔が次第に鮮明になって行く。

「良し、顔認識にかけろ!」データバンクに接続されると、捜査員全員がモニターの周りに集まって来た。数分もかからず、結果が出た。

「フィット、しました! 被疑者は勝野純也、38歳、今は分かりませんが、元稲庭会組員のようですね」

「成宮警部補、やっとお前らしくなったな。ここは素直に感謝するよ」

「藤澤一課長、私は一旦報告のため横浜に戻りますので、情報が入り次第お知らせください」

「分かった」


勝野が全国に指名手配されると、早くも二日後に出生地である青森県警から被疑者の目撃情報が寄せられたのだ。これが綾乃が今別に向かうことになった経緯である。

最初の目撃情報は、今別駐在所に勤務する二年目の交番員我妻巡査から、外ヶ浜警察に寄せられたため、綾乃は、佐藤警部と共に『勝野鉄工所』を訪れたのだが、純也の足跡を見つけられず、結局無駄足に終わっていたのであった。



 2  ICUの朝倉耕平


 今別町から戻った数日後、翌日は非番であったため、夕方1週間ぶりに『順子』を訪れた。

「ママ、あの時は随分迷惑を掛けてしまって…」

「何言ってるの、朝倉さんはうちのお客さんでもあったのだし…、でも、内心あなたでなくてよかったと思ってるのよ」

「ターゲットは、私であった可能性もあるということね」

「いえ、例え話で言っているだけだから…」

「ママ、私、朝倉さんを知っているようで、実は何も知らなかったの…。名前も

違うようだし…」綾乃の初めての告白であった。

「あなたと、朝倉さんが良い仲だとは知っていたわ…。綾乃さんは恋に落ちたのよ。

相手を好きになるのに、理由はいらないと思うの。恋をするという事は、二人で見つめ合うことね。それだけで十分なの。だから、あなたが朝倉さんの素性を知らなかったとしても、恋をしたことに後悔はいらないと思うわ」

「そうね、昔見たDVDの中に『恋とは、決して後悔しないこと』と、言う言葉があったのを思い出したわ」

「綾乃さん、それは『愛とは…』だったと、思うけど…」

「今の私には、『恋…』の方があっているかも知れないわ」

「あなたにも経験があると思うけど、普通の男と女が愛し続けることは、時間が経つほど難しくなっていくみたいね。。二人で同じ方向を見て行かなければいけないんですもの。でも、夫婦以上に、子供の方が血が繋がっている分より難しさがあって、簡単には割り切れない心の重さを背負ってしまうのかも知れないわ…」

ママにも、ママなりの人生があったに違いない。


「ママ、お腹すいちゃった。きょうは何食べようかな?」

その時、綾乃の携帯に着信があった。『ERセンター』の看護師からである。

「わたくし、『ICU』の天野と申します。なるみや警部でしょうか?」

「はい、成宮ですが…。」

「ICUに入室中の朝倉様の意識が戻っております。まだ安静が必要な状態には変わりありませんが、5分程度であれば面会は可能だと思います……」

「分かりました! すぐに伺います。あっ、ありがとうございます」

綾乃は、変化があり次第すぐ連絡をくれるよう、警察官として病院に申し入れをしていたのであった。奇跡的な回復であると言わざるを得ない。恋人の生還を単純に喜ぶ気持ちと、未知の朝倉の素性が明らかにされるかも知れない恐怖の狭間に綾乃はいたのは事実であった。

「ママ、朝倉さんが回復したって!」

「ほんと!信じられないわ!」

「ママ、絶対帰って来るから、お店開けといてね」

「分かったわ。待ってるから…。」



 『救急ICU』は、西館の2階にあり、天野看護師から面会にあたっての注意事項の説明を受けると、綾乃は感染症に配慮した服を着ることで入室を許可された。

生命維持装置が付いたベッドが10台ほど並ぶ中、朝倉は、一番奥で眠っているようだ。面会は、看護師の付き添いを除くと、綾乃一人で行った。

「耕平…、耕平…、綾乃よ…」 綾乃は、声掛けと同時に耕平の手を握っていた。

看護師は、刑事が被害者の手を握っている様子に戸惑っていたが、注意はなかった。

弱い力であったが、綾乃の手を握りかえして来た。その手は、温かかった。

「・・・、ごめん・な…」かすかな声は、綾乃の耳には届いて来ない。

「耕平! 何て言ったの?…」綾乃の目から、熱く零(こぼ)れるものがあった。

それは、結ばれた二人の手の甲に落ちると、何事もなかったように消えて行った。

「・・、オレが・まきこんで・・・」声はさらに小さく、掠れている。

「いま、何て・・・、」

朝倉は、綾乃に伝えたことで安心をしたのか、力なく目を閉じると、再び眠った。


「刑事さん、きょうはこのくらいで…、お願いします…」

「…、耕平頑張ってね…。待ってるから…」綾乃が小さく手を振りながら、部屋を出ると、看護師は、不思議そうに綾乃の後ろ姿を見送っていた。今の綾乃には無理だったのだ。刑事としての決心は、朝倉の顔を見たとたんに脆くも崩れていた。一度でも肌を合わせた男と女だけに分かる濃密な時間がそこにはあったのである。



 3  純也の手紙と朝倉の人物像


食事も取れないまま、19時を迎えていた。

綾乃が、『ERセンター』から出て、レンジローバーに乗り込もうとした時である。外ヶ浜警察捜査一課長佐藤雄二からの着信であった。

「佐藤課長、その節はお世話になりました。何か変わったことが…」

「それがですね・・、先ほど例の『勝野鉄工所』の社長勝野秀一が今別駐在所に手紙を持って来ましてね。加賀町署の成宮刑事に渡してくれと言って帰ったらしいのです。

裏書を見たら、なんと勝野純也だったんですよ。いつ預かったのかと聞いてもはっきりとしたことは、言わなかったらしいのです。ことによっては、犯人隠匿にあたるかも知れないと、伝えたらしいのですが・・・」

「ほんとですか? 課長、大至急ビニール袋に入れて送ってくれませんか?」

「もちろんですよ。私が直接持って行っても構いませんが・・・」

「いえいえ、それには及びませんので…」

「そうですか・・、残念ですな~、では、またの機会という事で・・・」


 綾乃は、佐藤からの電話を切ると、即時に勝野秀一に電話をした。

「勝野さん、加賀町署の成宮です。弟の純也さんから手紙を託されたみたいですね」

「はい、駐在所に届けておきましたが・・・」

「純也さんに、会ったという事ですか?」

「・・・、はい」

「いつ、です?」

「・・・、・・」

「言ってください。このままだと、お兄さんが罪に問われる可能性もありますよ! 言って下さい!」

「・・昨日の晩のことです・・」

「お兄さん、私がお話した通りに説得してくれたのですか?」

「それは、強く言いましたよ。でも、あいつの気持ちは固まっているようでした」

「どういうこと?」

「生きて行くのに、疲れたと・・」

「勝手すぎるわ。人の命を狙っておきながら、そんな身勝手な事許されるわけない」

「刑事さん、あいつは、ほんとにあなたには感謝していましたよ・・」

「被疑者に感謝される筋合いはないわ!」

「お怒りは、もっともだと思いますが、私は、勝也の気持ちも分かるのです。このことで、私が罪に問われるのだとしたら甘んじてお受けするつもりでいるのです」


 深夜兄弟二人で、腹を割って話し合ったことで、兄として弟がたとえ犯罪者であったとしても、許せる気持ちになったのであろうか。綾乃は、刑事として真実を知りたかった。手紙とは別に、純也自らの口から聞きたいのであった。

「お兄さん、純也さんに伝えて欲しいの。弟さんは、殺人犯ではないってことを。

どんな理由があるにしろ、罪を償えば、まだ十分に社会の中で生きて行ける時間は残されていることを…」

「刑事さん、やっぱりあなたは、弟の言う通りそういう人なんですね。分かりました。もう遅いかも知れませんが、会ったなら出頭するよう話してみるつもりです」

「ありがとう…、お兄さん」

綾乃は、電話を切ると深く息を吸った。

絡んでいた糸が、少しずつであるが解けていくような感触があった。


 綾乃は自宅に帰り、レンジローバーをマンションの地下駐車場に止めると、再びママの待つ『順子』に戻った。

「綾乃さん、朝倉さんどうだったの?」

「ええ、少しずつ良くなっているわ。もう大丈夫みたい」

「そう、良かったわね。朝倉さんもとんだ災難だったわ。ご家族がいたとしたら連絡が取れなくなっていて、さぞかし心配しているのじゃないかしら?」

「そうね…、そうかも知れないわ…」綾乃は、ママの言葉に寂しく頷くしかなかったのだ。真実を知りたい気持ちと、このまま何も知りたくないと思う気持ちが交差している。

「朝倉さんが、私に謝っているような気がしたんだけど、どういうことかしら…?」

「綾乃さんに、謝っていたの? 何をかしら?…」

「もしもよ、朝倉さんが自分に責任が有ると分かっていたなら、恨みを買っていた人からの犯行だと分かっているはず。それも、命を狙われるほどの恨みだわ」

綾乃は、刑事としての本能の目覚めに気づき始めていた。すべてを明らかに…。


「ママは、朝倉さんの仕事が何だったのかは、聞いていたの?」

「この先の蓮池公園の側に、建設中の邸宅風のデザインのマンションがあるでしょ、確かそこの設計管理者さんだとか言ってたけれど…」

「設計管理さんが、なぜ偽名を使わなければいけないのかしら?」

「朝倉さんは、仕事のことに話を振っても、あまり話したがらなかったわね。今なら不思議なことのように思えるけど…」


 翌日、綾乃は、非番ではあったが商売道具と言えるセルッティの黒のスーツに着がえると、警察官として建設現場まで歩いて行った。マンションが次第に近づくにつれて、顔つきが変わっていく。現場の前まで来た時には、間違いなく女刑事 成宮綾乃であった。。マンション名は、『仮レジデンス鵠沼』である。

 綾乃は、現場事務所に入ると中にいた数人の職人に向けて声を掛けた。                「私、加賀町署強行犯係の成宮ですが、責任者の方おいでですか?」

「警察? おばさん、冗談言っちゃいけないよ。新手の保険の勧誘か何かかい?」

だぼだぼの「ゴト着」を穿いた職人が、からかい半分に応対した。

「手帳見せてよ、手帳!」

綾乃が顔色も変えずに上着から取り出すと、目の前に突きだした。

「これは本物の女刑事だよ。おい、監督呼んで来てやんな!」職人の一人にいう。

職人は、風体に似合わず優しいのである。綾乃は無言で頭を下げた。


「監督の葛西ですが、何か?」葛西は、監督らしく強面の体格の良い男であった。

目線が足元からせり上がると、胸の位置で止まった。

綾乃は、改めて手帳を見せながら葛西に聞いた。

「発注者は、本社が江東区にある(株)レオ・エンタープライズ、そして建設業者が横浜に本社がある(株)奥田組なのね」

「そうだけど、おたく何が聞きたいの?」

「率直で、結構ね!」

「・・・、」

「じゃあ、はっきり聞くけど、『朝倉耕平』または、『倉田圭吾』この両名の名前に

に覚えはないかしら?」

「・・・、倉田はともかく、朝倉先生は知っているがな・・・」

「知っている?」

「それが不思議なんだよ」「何がですか?」                    「レオの設計管理者との触れ込みなんだが、週一回ぐらい夕方に来ては、見回った後にはすぐ帰ってしまうのさ。まるで時間つぶしのようにね。その後、近くの『順子』って店の前で見かけたって、誰かが言っていたな。ママに惚れているって噂もあったし。そういえば、最近みてないな」強面の割には良くしゃべった。


「それ、間違いはないわね。いつも高そうなスーツを着ていて、おまけにいい男」

「そうだけど・・、刑事さん、あんた朝倉さんを捜しているわけ?それなら、レオに行って聞いた方が早いだろうに・・・」

「分かったわ。ありがとう。良いマンション建ててね。遺産が入ったら私も買うかも知れないから…」


 調べるほどに、朝倉の実態がぼやけてくるのだ。この町に来た目的は何であったのか? 純也が朝倉を殺害しようとした意味とは?


そろそろ、加賀町署に勝野純也の綾乃あての『手紙』が着いている頃であろうか。

すべての謎を解く鍵はこの中にあるのか?                   それを信じたい綾乃であった。初冬の太陽は、正午を過ぎると、早々とその持てる力を失いつつある。


綾乃は家に戻ると、レンジローバーに飛び乗り横浜を目指した。進行する雲間からかすかな光が差し始めていた。




 第三章に続く






 





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