第2話 疑惑のトラジェディ  第一章

 プロローグ


 岸壁に立つ成宮綾乃の頬に、北西からの霙交じりの雨が冷たく当たっていた。

年季の入ったバーバリーのトレンチコートもじっとりと、雨の重さを感じさせている。綾乃がこの場所に立ってから小一時間は過ぎていただろうか。やっと、辿り着いた津軽半島の北端の町今別であった。男の足跡を失っていたとしても、それが早々とこの地を去る理由にはならなかったのである。

 今別町は、北海道新幹線が本州における最終駅『奥津軽いまべつ』が同じ町内に作られたことで知られるようになった、人口2,800人程の小さな町である。今別駅は、津軽線の止まる駅ではあるが常駐する駅員もいない無人駅であり、駅前もかなり寂れた様相を示している。


 11月にもなると、目の前の三厩湾(みんまやわん)には鉛色の雲が低く垂れこめ

早くも冬の訪れを想起させた。空気の冷たさが身体を通して心の中まで、しみ込んで来るようであった。

「諦めきれないわ…」ため息ともつかない綾乃の言葉が吐き出されると、それは白く染まり風に流されて行った。

「成宮刑事、だいぶ陽も落ちて来ましたから、早めに署の方に戻られてはいかがですか?」声の主は、青森県外ヶ浜警察署捜査一課長佐藤雄二であった。

「あっ、ごめんなさい。念のためもう一度工場の方に行ってもらえますか?」

「無駄だと思いますよ。成宮刑事・・・」渋りながらも、佐藤警部は綾乃を年式の古いパトカーに乗せると、再び『勝野鉄工所』に向かったのである。


 勝野純也の生まれ育った実家は、海沿いの県道脇にひっそりと建っていた。まるで、時代に取り残されたかのような古びた二階建ての木造の建物である。鉄工所と言っても自宅と兼用であることからして、家業といったところであろうか。    父親が約30年ほど前に操業した会社であるが、父親はすでに亡くなっており、今は二人兄弟のうちの長男勝野秀一が後を継ぎ細々と経営を続けてきたようであった。

 佐藤警部の運転する車は、注意深く工場から50m程離れた空き地に隠されるように止まった。車から降りると、暗黙の了解で二手に分かれた。佐藤は裏手にまわり、綾乃は、正面の入り口から再び工場内に入った。


「刑事さん、何度言ったら分かるんですか? 純也はここには帰って来ていませんよ。いい加減にしてください!」工場の奥から、綾乃に向かって強い言葉が浴びせられた。

「あなたを疑っているわけではないけれど、これも仕事なの。奥さんまで巻き込みたくないでしょ。だから、私の質問には正直に答えて欲しい。いいわね。

弟の純也さんには、いま重大な容疑が掛かっています。容疑は、殺人未遂です。  どんな犯罪行為にも、それなりの理由があるのは分かっています。肉親なら、匿ったり、逃がしてあげたいと思う気持ちも分かります。でも、結局その人のためにはならないことを分かって欲しいんです」

「刑事さん、私は純也が犯罪を犯したなんてことは到底信じられないんですよ。

私はまだ覚えていますよ。あいつが地元の高校を卒業した後、東京に就職が決まったという事で、今別駅で両親や親戚一同と旗を振りながら送り出したんです。    弟は、そりゃ、良い顔してましたよ。希望に溢れていたんだ。20年も前のことだけど今でも忘れもしない。

 あいつは都会に出てから、随分と苦労を重ねたのでしょう。長く音信不通が続きましたから。でも、二年前に彼女を連れて不意にこの町に現れたのです。     名前を早百合さんといって、可愛い優しそうな女性でしたよ。二人ともほんとに嬉しそうだった。結婚するんだってね。しかし、そんな喜びも長くは続かなかった。                               今から半年ほど前に、急に早百合さんが病気で亡くなってしまったのですからね。    一時弟は、後追い自殺をしかねないほど落ち込んでしまって・・・。         でも、兄貴からして見れば、その悲しみを乗り越えてくれたと信じたい。たった一人残った肉親ですからね・・・。」秀一は、しみじみと綾乃に語った。


「お気持ちは分かります…、純也さんも良いお兄さんをお持ちなのね…。     私はこれで、横浜に戻りますが、もし弟さんがここに訪ねて来たなら、伝えて欲しいのです。早まる前に絶対私に連絡をするように…。失って良い命なんてないんです。被害者となった方の命はもちろんですが、被疑者にも、それなりの理由があるのだと……」

綾乃の目から留めなく涙が流れている……、頬を伝わった涙が床を黒く濡らした。

「真実を知りたいのです…、ごめんなさい…、恥ずかしいところをお見せして…」

「刑事さん、あなたは・・、優しい人ですね・・・。弟が現れたら説得してみます」

綾乃は、工場を後にすると、佐藤警部に『奥津軽いまべつ』駅に向かうように頼んだ。被害者となった朝倉耕平の安否が気になっていたのだ。

「成宮刑事、青森に泊まられてはどうですか?私もお供しますから、地元の美味いものでも・・・」

「ありがとうございます。でも、今夜中に戻りますので、勝野純也容疑者の件、よろしくお願いします」

「そうですか・・、しかし残念ですな~。久しぶりに都会の別嬪さんとの食事を

楽しみにしておったのですが・・」佐藤警部も人柄は良いが、田舎町にありがちな古い人間のようである。


 綾乃を乗せた最終の新幹線『はやぶさ48号』は、19時27分に『奥津軽いまべつ』駅を離れた。東京に着くのは、23時頃となる。

車窓から見える点在する灯りは、農家の暖かそうな団欒を思い起させていた。


 


 

 1  朝倉耕平との出会い


 二人の出会いは、約半年前に始まった。

綾乃は非番の日の夕方、月に一回程度地元の小料理屋『順子』で軽い食事を取るのが楽しみであった。この店は、湘南駅前からかつては別荘地と呼ばれた鵠沼を結ぶ

橘通りの中程にあるが、マンション化が進むこの地域の中でも取り残された存在の

区画の中にあった。

「ママ、お腹が空いてるの、何か作ってくれるかな…!」

綾乃は、店に入るなり順子にねだった。気心が知れた店なのだ。

「あら、綾乃さん今日は早いのね」

順子は、綾乃より4,5歳くらい上のいかにも料理上手な家庭的な雰囲気を持つ女であった。結婚歴があるが今は独身であるらしい。

「そう、時間があるうちに食べとかないとね。呼び出しがあったら大変だから…」

綾乃は、ママだけには自分の素性を話していたが、他の見知りの客には伏せていた。


 綾乃は、食事を終えⅠ時間程過ぎた頃である。ママとの他愛無い雑談も終わり席を立とうとした時であった。一人の男が店に入って来たのである。背広の肩が濡れて光っていた。

「いらっしゃいませ! あら雨でした…? タオルをお貸ししましょうか?」

「いえ、大したことはないです・・・」男は、一見の客であった。

脱いだ上着の雫を掃うと、壁にかけた。

「カウンターでいいかしら? 今日はお客さんも少ない事ですし…」

「ええ、・・・」

 男は綾乃に一瞥をくれると、縄網椅子に座り『〆張鶴』を冷酒で頼んだ。

綾乃は、職業柄無意識ではあるが男を観察していた。年齢はママと同じくらいで40歳半ば、日焼けした顔と筋肉質の体を持っていることから、普通のサラリーマンや公務員ではなさそうである。むしろ、綾乃と同じ匂いを感じるのだ。しかし、警察官にはないスマートさを持っている。上着の内側に貼ってあるタグは、有名ブランドであったのだ。良い男である。心が久しぶりに動いていた。

綾乃は、ママに勘定を頼むと店を出た。この時が、朝倉耕平との初めての出会いであり、運命を変えた日でもあったのだ。


 二回目の出会いは、思いがけず一か月後にやって来た。綾乃が店に入ると朝倉はすでにカウンター前に座っており、ママと話が盛り上がっている様子であった。

仕事場が、この近くであるという事からすでに4回目の来店であり、一見客ではなくなっていた。他に客は、ママ目当てのすでに老人と言える男達二人のみであった。

「あら、ママ、随分盛り上がっているじゃない?」朝倉がいたことから、綾乃の声に華やかさが加わっている。

「綾乃さん、ちょうどあなたの噂をしてたところなの。何ていうタイミングかしら」

「私を肴にしてたんですか?お代を頂きますよ!」

笑い声が店に広がり、照明が明るさを増したようである。

「綾乃さん、紹介するから横に座って…。」

「はい、分かりました」

「こちら、朝倉耕平さん。建設のお仕事でこちらにいらしているんですって!」

「こちらの美人さんは、成宮綾乃さんです。もっか独身です」

二人は、お互いに自己紹介をし合うと楽しい食事となった。綾乃は心が弾んだ。

一時でも、仕事や一人娘の彩香との葛藤が忘れられる貴重な時間であった。

朝倉は、音楽や映画に造詣が深く綾乃は興味が尽きなかった。

「成宮さん、最新作の『No Time To Die』観られましたか?」

「確かスパイものね。私アクション物にはあまり興味がなくて…。」

「そうなんですか!成宮さんて、合気道とかやっていそうですけど・・・」

「とんでもないわ。学生時代にテニスをやってたくらいで……」

ママと、目が合うと「女の子ぶるのもいい加減にしたら…」と、言っているようであった。

朝倉に勧められるままに飲んだ『〆張鶴』が効いてきたようであった。立ち上がると、足元が乱れ朝倉の肩に寄りかかる形になった。

「ママ、私もう失礼しないと…。」

「綾乃さん、大丈夫かしら?珍しくふらついているみたいだけど…」

「外の風にあたれば、すぐ覚めるから心配しないで…、」

「僕も、もう帰りますから近くまで送って行きましょう・・」

「そうですか…、じゃ~綾乃さんを家の近くまで送ってやってくれますか?」


 店を出ると、朝倉に肩を抱かれた綾乃は、身を任せた。

時折『DUNE』の金木犀にも似た香りが綾乃の鼻腔に届くと、女としての本能が目覚め、胸板の厚さが、抱かれたいという衝動を駆り立てていた。。このスマートさと建設業という誤差に違和感を持った綾乃であったが、今はどうでもよい事のように感じていたのである。

「成宮さん、家までお送りしましょう?」

「いえ、大丈夫です。もう近くまで来ていますので…、」

人通りは、途絶えていた。一瞬の沈黙のあと、強い力で暗がりに引きこまれると、 綾乃は唇を激しく塞がれた。久しぶりの甘い感触に、腰が砕けていく・・・。形だけの抵抗のあと綾乃の足は宙を舞っていた。


 成熟した男と女が一つになるのに、理屈などいらなかった。ただ二人の隙間を埋めるように愛し合うだけで良かったのだ。朝倉の愛撫は執拗であった。綾乃がなんどとなく高みに登り詰めても容赦はなかった。

今度は、綾乃が奉仕する番である。朝倉のものを頬張ると、それは綾乃の口の中で激しく踊った。まるで別の生き物のようであった。

「もう我慢できない…、あなたのが欲しい…!。お願いだから…!」

綾乃の懇願が合図であるかのように、熱い塊が綾乃の中に差し込まれ激しく抜き差しが繰り返されると、歓喜の叫びと共に気が遠のいていった。現実と夢の境目が無くなって行くかのようである。限界に達した朝倉の咆哮を合図に、二人は同時に頂点を迎えていた。そこには、まさに長年肌を合わせ続けて来た恋人同士のように、労りと優しさあった。享楽を甘受することに罪悪感がなかったと言えば嘘になる。

良く知らない男との無防備な快楽の享受である。刑事として経験を積んだ大人の女であれば、とるべき行動ではないのだ。しかし、綾乃は先のことなど考えられない程

一時の快楽にのめり込んで行った。


綾乃にとっては、仕事一筋の10年間であったと言える。

幾度となく挫折を感じ、正直人知れず泣きながら、今度こそ立ち上がることが出来ないと悲嘆にくれた夜もあった。そんな時に目の前に浮かぶのは、強行行為にあって苦悩する被害者たちの顔であったり、別離の際の可愛い娘の泣き叫ぶ姿なのだ。

しかし、朝になって目を覚ました時には、前日の迷いも消えていた。自分が必要とされている限り、この仕事を続けて行こうと新たな決意が綾乃を奮い立たせていた。

綾乃にとって、今回の朝倉との出会いは、無欲で走り続けて来た自分への天からの恵みであるかのように思えたのであった。




 2  tragedy


 月に一度の朝倉との逢瀬が、三回ほど続いた夜のことであった。

『順子』での楽しい食事も終わり、綾乃と朝倉が肩を抱き合いながら店を出ようとした時のことである。

「二人とも、気を付けて帰ってね」ママのいつも通りのさりげない声掛けである。

ママとしても、常套句であったに違いなかった。しかし、綾乃の心に妙に不安なざわめきを残していたのだ。

「耕平さん、きょうはこのまま帰らない?」

「綾乃さんなぜだよ? このまま帰れる訳はないよ。一カ月間も君をこの腕の中に抱きしめることだけを考えて来たんだから、今日こそきみを家まで送って行くよ」

朝倉の甘い言葉も、綾乃の耳には届いていなかった。闇に蠢く狂気を、綾乃は刑事らしい動物的な勘で感じ取っていたとしか言いようもない。

朝倉の唇が、綾乃の唇を求めようとした時、明らかに空気が変わった。


 ビルの谷間に拳銃音が二回響くと、二発目が綾乃の耳もと近くで空気を切り裂いていくのが分かった。38口径、9mm弾であるに違いない。綾乃は腰を落とすと、背中に手をまわしたが、非番であることに気が付いた。ホルスターはなかったのだ。 足跡の遠ざかる方向に目を凝らしたが、朝倉が気になり足元に視線を向けた。

朝倉は、首から黒い液体を吹き出しながら地面に横たわっていた。水たまりのように見えた輪が広がっていく…。

「耕平さん、大丈夫? 耕平、しっかりして!」気の利いた言葉など出てはこない。

綾乃は、脱いだパーカーを耕介の頭の下に敷くと、『順子』に戻り、ママに指示を出していた。その表情は、普段ママに見せている綾乃ではなく、女刑事 成宮綾乃そのものであった。

「順子さん!救急車をすぐ手配して! 怪我の状況は、首の銃創、大量の出血。

5分ぐらいで来ると思うから、住所は正確にお願いします」

「綾乃さん、何があったというの?」

「被害者は、耕平さんなの。ママ、悪いけど病院まで付いて行ってあげて!」

「分かったわ…、」

「私は、警察に電話するから…、」 

綾乃は、間髪を入れず110番通報をした。

「はい、こちら110番、事件ですか?事故ですか?・・・」

「銃による殺傷事件の発生です。…3分前です。場所は、湘南市橘通り中程『順子』という店の前、…そうです。詳しくは、私のGPSで確認してください。

被害者は、男性一人。犯人は、銃を所持したまま湘南駅方面に逃走中です。現時間からだと、発生は5分前に訂正してください。駅周辺に緊急配備をお願いします。被疑者の特徴は確認出来ておりません。…はい、……私ですか?……加賀町署強行犯係成宮綾乃です……。」


 サイレンの音がかすかに聞こえ始めている・・・

彼方から、数人の人間の駆け付ける靴音が響いて来た・・・。

「耕平、もう大丈夫よ。きっと、助かるから……」

朝倉は、力のない目で綾乃を見つめている・・・。何かを告げたそうに、時折唇が歪んだ。綾乃を優しく愛してくれた唇も、遠い想い出のように色を失っていく……。

綾乃は、恋するただの女に戻っていた。涙が零れると、朝倉の上着を熱く濡らした。しかし、いつの間にか身体にしみ込んで行ったかのように見えなくなった。

ママが、救急車に同乗してくれることを確認すると、綾乃は後ろ髪を引かれる思いで捜査に協力することにした。


 約一時間後、所轄署捜査一課長藤澤修二を指揮官とする捜査班の臨場があった。

「成宮が第一発見者なのか? それはまた、偶然なことだな」

「ええ、たまたまそこの『順子』と、いう店から二人で出て来たところで発砲音が聞こえ、弾を首に受けた朝倉さんが倒れたのです」

「成宮は、朝倉なる害者の素性を知っているんだな?」

「まあ、ある程度ですが・・・。」

「まず、現住所と電話番号を教えてくれ。家族がいるだろうからな・・」

「……、分からない…。携帯の番号しか…」綾乃にとって、これが真実であった。

「何? 単なる顔見知りって、ことか?」

「違うわ…、今になって大切な人だと気付いたの…」

綾乃は、覚悟を決めて藤澤にこれまでの経緯を話した。

「待ってくれ、それじゃ行きずりの男とやったのと同じじゃないか!」

「…、……。」この感情は、言葉では説明できなかったのである。

「成宮、明日朝一番に、署まで来てくれ。俺は今夜中に周辺の映像を集めておく」

「分かりました。すみません、後はよろしくお願いします」


 綾乃を乗せたタクシーは旧国道一号線に入ると、『ERセンター』を目指した。

きょうは、長い夜になりそうである。




  第二章に続く 



 * 一話を一挙に公開するのではなく、あまり文字数が多くならないうちに連続ものとして、実験的に公開してみることにしました。やはり紙に乗せるのが一番読みやすいと思いますが・・・。今は、色々な環境で読まれているのでしょうね。

 ご意見があれば、よろしくお願いします。


 笹岡耕太郎





 




 




































































 













 





 









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