女刑事 成宮綾乃

笹岡耕太郎

第1話 女刑事 成宮綾乃誕生

 プロローグ


 午後10時にもなると、昼間の喧騒が嘘のように人通りが途絶え静寂を取り戻している。元町商店街入口にあるアーチ状のモニュメントから放たれた青白い灯りが、

交差点の角にある細い三階建ての建物を浮き上がらせていた。

横を流れる運河に沿って脇道があり、脇道と運河を渡る大きな橋の交差する角に一本の桜の木がある。『シドモア桜』と呼ばれる桜の木も、纏っていたはずのすべての葉を石畳に散らし、赤茶色に染め上げている。


 深夜に加賀町署元町交番を訪れる女の影があった。

「…、すみません…」扉を引き、戸惑い気味に出した声も掠れていた。

交番の中に警官の姿はなかった。「す,すみません……」

女は、机の上に置かれた呼び鈴に気が付くと強く鳴らした。「チリ~ン」と乾いた音が階段を伝い上に上がっていくと、今度は明らかに反応があった。

「・・はい、いま降りて行きます!」と、若い男の声が少し時間を置いて上から聞こえて来た。男は、交番勤務一年目の佐々木健介であった。当番員ではあるが、深夜2時からの勤務に備え休憩中であったのだ。

「どうかされましたか?」一年が過ぎたが、深夜に訪れる者はそう多くない。

「娘が……、娘が帰って来ないんです…」女は、交番から歩いて5分ほどの『パークハイム元町』に住む鮎川恵45歳であった。化粧っ気のない顔には、疲れ切った不安な表情が見て取れた。

「昨日の朝に学校に行ったきり、連絡が取れないんです…」

「どこか、行かれた場所に思い当たるところはありませんか?」

「仲のいいお友達何人かに連絡を取ってみたのですが、学校で別れた後のことは誰も分からないという事でして…」

「家出とかに、何か思い当たることは?」

「ありません。親子喧嘩もなくいたって普通の家庭だと思っていますから…」

「家出に思い当たるようなことは、何も浮かばないという事ですね?」         警官は、念を押した。

「事故に合ったのではと、悪い方ばかりを考えてしまって……」

「ご主人は、いまどちらに?」

「それが、3日ほど前から出張していまして、連絡も取れない状態で…」

「それは、ご心配ですね」

「どうか、早く見つけてもらえませんか、お願いします!」母親の声は、切迫していた。

「お母さん、では、『捜索願い届』を出して下さい。今は、『行方不明者届』って、言うのですけれどね」

行方不明者は、鮎川早紀17歳であり、細かく特徴的な事柄を記入すると加賀町署から全国の警察署に配信されることになる。

「明日からすぐにでも、探してもらえるのでしょうか?」母親としての正直な気持ちである。

「お母さん、残念ながらすぐにという訳には、警察にも色々と都合がありまして・」

「お巡りさん、娘は事故に合ったのかも知れないんですよ。どうしたらすぐに捜索してもらえるのでしょうか?」

「それはですね。自分の意思ではなく拉致されたとか、明らかに事件性が疑われる場合であったり、犯人から何らかのコンタクトがあって人命の危険が推測される場合などでして・・・」佐々木巡査にとっても初めての経験であったが、心が動いた。


巡査は、母親の気持ちを考えながら丁寧に説明をした。

「このことが、『特異行方不明者』か『一般家出人』かを警察が判断する一つの材料になるのです」

「これは、絶対事件です。あの娘の身に何かが起こったのは間違いないです。理由もなく家を空けたことなど一度もないですから。このまま、じっと家で待つなんて出来ません。何とかお願いします。捜査を……。」警察の事情を聞かされたが、母親は引き下がらなかった。

「・・・お母さん、お約束は出来ませんが、本官も出来るだけ捜索が行われるよう本署での朝礼時に頑張ってみます。最後はあの人の心に訴えてみますから・・・。」

「お巡りさん…、あの人って、どなたなんですか?……」


佐々木巡査の脳裏には、成宮綾乃の顔が浮かんでいたのであった。



 * 『シドモア桜』

 アメリカの紀行作家エリザ・シドモアが日本を訪れた際に桜の美しさに心を打たれ、日本政府に働きかけて実現したのが、日米友好の印としてワシントン市のポトマック河畔に植えられた桜並木であった。1928年のことである。

 シドモアの死後、日本政府はその功績をたたえるため、里帰りした桜を植えた場所が、この運河の脇であったのである。シドモア桜と呼ばれるこの桜は、いまも変わらず横浜の街に静かに流れる時を見続けていることだろう。


 

 1 成宮綾乃登場



 翌朝、10時ちょうどに『パークハイム』403号室のインタフォンが前触れもなく鳴った。

「どなた様ですか?」モニターには、ウェーブのかかったセミロングの女が映っている。決して若くはないが、まだ充分な美しさは備えているようだ。スーツを着ていることから化粧品のセールスウーマンのようにも見える。眠れずに朝を迎えることになった鮎川恵は、猜疑心を持って訊ねたのだ。

「わたし、加賀町署の成宮です。早紀さんのことで、お伺いしたいことがあります」

成宮綾乃は、加賀町署捜査一課の所属であり階級は警部補であった。

同課員古畑巡査部長の上司にあたり、職歴は20年を越えていた。


 玄関扉を開けた恵の前には、黒いセルッティのスーツを着こなした女刑事が立っていた。女にしては身長が高く、40歳をわずかに越えたばかりであろうか・・・。

「お話は、佐々木巡査から聞いています。私もお話の内容に違和感を持ったので、もう少し、具体的なお話を聞かせてもらえないかしら・・」

「はい、何からお話すれば?」

「最近娘さんに、何か変わった様子はありませんでした?」

「いいえ、特に気が付きませんでしたけど…。」

「そう、ボーイフレンドがいたとか?」

「ボーイフレンドと言えるかどうかは分かりませんけど…」

「いたのね! 名前は分かるかしら? それと、友達と呼べる人の名前と住所をぜんぶ書き出してもらえませんか?」

母親の恵は、成宮に言われるまま早紀の机の上にあった住所録から6人を選び出すと、名前と住所を書き出し手渡した。

「ご主人は、出張とお聞きしましたが何方まで?」

「そんなことまでお聞きになるのですか?」

「ええ、手がかりは多いほど真実に迫りやすいと言えますのでね…」

「主人は、確か…、香港だと言っておりましたが……」

「お仕事は、どんな?」

「貿易関係と言いますか……」

「社名は?」綾乃は、矢継ぎ早に質問を繰り返していく。わずかな時間も無駄にはしたくなかったのである。

「富士貿易です。確か海外輸送の手配や通関手続きの代行だったと思いますが・・」

「ありがとう。手掛かりにはなると思うわ。署に戻って、いまお聞きしたことを参考に調べたうえで結論を出そうと考えています。また伺うこともあると思いますが、その時は、ご協力を」

「はい。結論というのは、どういう意味なんでしょうか?」

「早紀さんが『特異行方不明者』か、それとも『一般家出人』扱いになるかという判断のことです。『特異行方不明者』ともなれば、警察官が積極的に捜査をすることが署内で許されたことになるの。警察は、探偵とは違ってあくまで組織の論理が優先されるのはお分かりになりますよね。探偵さんなら、『一般家出人』であったら、

喜んで調査をしてくれると思いますけれど……」

「あ、はい。どうかよろしくお願いします」

恵は、目の前にいるスーツを着こなした女性が刑事であるとは、まだよく理解が出来ないでいたのだ。無理もない事である。全警察官に占める女性の比率は依然10%以下であり、刑事となるとその数はかなり限られてしまう。ましてや、部下を持ち

凶悪犯罪の最前線に立つ指揮官であったのだから。


 成宮綾乃は、玄関のデザインが円形で特徴的な建物の加賀町署に戻った。

1926年に建てられた建物も老朽化が進み、1996年になって建て替えられた際にも前庁舎のデザインが受け継がれていた。中華街に隣接し、貿易港も近い事から横浜でも犯罪の扱い件数の多い警察の一つである。

加賀藩の建物があったことに由来する名であるが、現在この名前を冠する建物はこの地域において皆無に等しいらしい。

 綾乃は、古畑巡査部長を呼ぶと応援を頼んだ。失踪に事件性が加わると、無事救出は時間との戦いになることが多かったからである。

「巡査部長、ちょっと、良いかしら? いま手が空いているのなら助けて欲しいのだけれど……。この5人の女の子の親子関係と親の職歴などを詳しく調べて。それと、3日前からのこの管内における事故、事件など17歳の女の子に繋がるものをね。私は、男の子の父親の仕事関連を調べて見る、ちょっと、気になるのよね」

「了解です!ボス!」

「ボスは、やめてくれない。私は、か弱き乙女なんだから」

「はい、綾乃警部補様」

警察は階級社会ではあるが、自分は支配者ではないと言いたかったのだ。


 成宮綾乃は、独身の42歳である。8年間に渡る結婚歴はあるが、10年前に別れ一人娘の親権は男が握ることになった。

家庭裁判所の調停による結論であった。当時綾乃は、難事件に追われ家に帰る時間も惜しみ仕事に没頭した。上司にあたる課長からの配慮にも関わらずこれに従わなかったのであった。当然夫は、家庭か仕事かどちらかを選べと迫ることになった。

結婚生活の破綻は、遅かれ早かれ訪れる運命だったとしか言いようがない。綾乃は、泣く泣く一人娘を手放すことになったのである。

 何が綾乃を捜査に追い込んだのか? それは、心の中にしまい込んだ青春期の暗い過去に隠されていた。

高校時代、地区予選を突破した綾乃の所属するバレー部は、全国大会を控え夜遅くまで練習の続く日々であった。当然帰宅は深夜近くになっていた。そんな中で起こるべきして起きた事件であると言えた。

 毎夜、駅から綾乃のあとをつける男の影があった。今でいうストーカーである。

男は、綾乃の帰宅時間を執拗に調べ上げると、作戦を練っていたのであろう。

綾乃にとっては生憎の、その日は小雨の降る煙った夜であった。人影も途絶えた。

綾乃が、駅から続く大通りを抜け路地に入ると、男は以前から繰り返しイメージをしていただろう行動を実行に移した。まだ高校生の女が適う相手ではなかった。抵抗する姿さえ男の欲情を誘った。積年の思いを遂げた男には、弱者に対する憐憫もなく満足した様子でその場を立ち去ったのであった。路地裏の窪地には、濡れ雑巾のように横たわった綾乃の姿があった。不思議に涙は出なかった。涙に見えたのは、頬を濡らした霧雨であったのかも知れない。残されたものは、見知らぬ男に対する復讐心であった。


 綾乃の心の傷口は思ったより深く、治癒することはなかった。男友達は離れ、女友達さえ綾乃に向ける視線は冷たかった。男を欲情させた綾乃に向けた非難である。そんな折に、綾乃の心に寄り添ってくれた唯一の人間が、事件を担当した刑事課強行犯係の女性警官であったのだ。

「綾乃さん、自分の身に起きたことを忘れなさいなんて私は言わない。忘れなくても良いの。でも、このことで自分の未来を捨てることになったら本当に負けたことになる。綾乃さんに代わって、私が法律の力でもって男に罪を償わせるわ。どんなに社会的な地位が高くても、それを隠れ蓑にはさせない」

たった一人の人間の存在に綾乃は、救われたのだ。生きて行く力を取り戻したと言えた。女性警官は、自分の身に降りかかる危険を顧みず、自らが囮になることで世間の事件への興味が薄れた後も捜査を継続させていた。犯人が捕まったのは、約半年後のことであった。

「綾乃さん、犯人には充分罪を償って貰うから、あなたには前を見て自分の夢を実現して欲しいな。でないと、私のやった仕事が無駄になってしまうから……。」

「刑事さん、ありがとうございました。もう、私は大丈夫です。でも、犯人の犯した罪の卑劣さは、一生忘れることが出来ないと思う。きっと、私みたいなこと経験した女の子もいっぱいいるのかな? だとしたら、今度は私が刑事さんみたいに、苦しんでいる女の子を助けてあげられたらいいな」

「それは大歓迎よ。被害にあった女性に寄り添えるのは、やはり女性が適任だと思うの。女性が被害にあう強行犯罪が増え続けている現在、女性警官が足りないのは事実なの。綾乃さん、陰ながら応援するから頑張ってね」



 綾乃の決心は、それ以来一度も揺らぐことはなかった。

努力の甲斐もあって、四年生大学の法学部に入学が決まると、部活に柔道と合気道を選んだ。武道の経験が警察官登用試験では有利に働くとアドバイスを受けていたからであった。特に合気道においては、卒業間近に行われた学生全国大会で上位入賞を果たすまでになっていた。帯の色はもちろん黒である。

卒業を迎えると、綾乃は当然のように地方公務員試験を受けていた。地域密着型の警官像を描いていたからであった。警察学校時代、女子であることを抜きにしても有段者である綾乃の身体能力はずば抜けていた。そして、どうしても警察官になりたいという強い意識が同期の中でも顕著であった。綾乃は首席で卒業を迎えることが出来た。

 山手警察署に配属されると、『交番勤務員』としての生活が始まったのだ。

署管轄の寮から始業の1時間30分前には出勤し、朝礼で課長から業務指示を受けたあと勤務交番に行き、午前10時頃に当直者から業務を引き継ぐことになる。勤務は翌朝の10時頃まで続き、その間の休憩と言えば、深夜の12時を挟んだ4時間でしかないのである。翌朝の10時以降は非番となるが、事件が続くと駆り出されることもある。このような状況の中、綾乃は地道に実績を重ねると上司から刑事試験を受けることを許された。上司は、綾乃の中に刑事として生きる素質を見出していたのである。

「成宮、どうだ? そろそろ『刑事養成講習』を受けてみるか? 署長もお前を推薦しているからな」この日までに、すでに8年の歳月が経っていた。

「ありがとうございます!」

綾乃は、何の問題もなく試験に合格できたのであるが、しばらくの間待機となった。刑事試験に受かったとしても、資格を持ったという意味である。欠員が出なければ、刑事課には補充されないのである。猶予は三年であった。

綾乃が諦めかけていたところ、綾乃にとっては朗報があった。加賀町署に欠員が出たのである。捜査中の女性刑事の殉職であった。これは、加賀町署にとっても衝撃な出来事であり、女性刑事の限界を予想させていた。


「成宮・・、おまえ、生活安全課に希望を変えたらどうだ? まだ子供も小さいと聞いているぞ・・」 実際、一人娘の彩香は5歳の可愛い盛りであったのだ。

「いえ、大丈夫です! 強行犯係でお願いします!」綾乃の心が揺れていたのは事実であった。可愛い盛りの娘の顔と、あの時の女刑事の優しい笑顔が重なっていた。

綾乃は、無意識に唇をかんだ。そして、まだ幼い娘のこころに許しを請うた。

(ゴメンね、さやか……)

そして、この決断は2年後の家庭崩壊へと繋がって行ったのであった・・・。


 2 捜査の進展


 綾乃の携帯に着信があった。先ほど訪れた鮎川恵からである。

「成宮さんですか? わたし鮎川恵です…」

「どうしましたか?」

「たった今、夫の雄介から国際電話がありまして…」

「それで?」

「『早紀は大丈夫か?』って、聞くものですから、いま大変なことになってると伝えたところ、急に電話が切れてしまって…」

「すると、ご主人は早紀さんの身に何か起きることを予想されていたのかも…」

「そうかも、知れません」

「分かりました。恵さん、今度ご主人から連絡が入ったら、私にかけるように言って下さい」「はい、……。」

綾乃は、間髪をいれず側にいた班員に指示を出した。

「鮎川早紀さんの捜索願い、『特異行方不明者』に切り替えて全署に発信して!」


 夫の鮎川雄介の突然の連絡は何を意味するのだろうか? 何者かが雄介に接触し、娘の早紀の安全を担保に何かを要求しているとしたなら、それは何なのか?

それにしても、雄介が海外出張の最中のことである。普通の平凡な家庭に何が?

綾乃は、早急に雄介に関する情報を集めることにした。鮎川雄介、46歳、(株)富士貿易横浜支店支店長の要職にある。妻の恵、そして娘の早紀との関係性も特に問題はなさそうである。仕事の内容は、貿易に関する通関手続きの代行、そして輸送手段の手配などであった。

 綾乃は、シルバーのMAZDA6で中区小港町にある(株)富士貿易に向かった。

社屋は、市道82号線沿いにあり五階建ての中堅商社の佇まいであった。

「支店長の鮎川さんに、お会いしたいのですが…」

「どちら様でしょうか?」若い受付嬢は微笑みながら返した。

「成宮綾乃です」

「成宮様、鮎川はあいにく出張でございまして…、お約束でしょうか?」

「そうなの。忘れちゃったのかしら…」

「申し訳ございません。なにぶん急な出張でございまして…」

「何処に行かれたのかしら?」

「確か、香港の方とか…、確証はございませんが…」

受付嬢の手を煩わせる訳にはいかない。綾乃は、次の手に出た。

「重要なお話なんですけど、どなたか代わりに…」

「そうでございますか、少しお待ちください」何処かに、連絡を取っている。

「支店長代理が、お話をお伺いするそうです」

「助かったわ。ありがとう」


 商談室に現れた男は印象の薄い、いかにも万年支店長代理が似合いそうな人物であった。

「鮎川とお約束でしたか?申し訳ありません。わたくし細野が代わりにお聞きしますが・・・」細野の目線が、綾乃の足元から胸のあたりまで動いた。黒いスーツを着た女の素性を探っているようである。

「お忙しいところ、ごめんなさい。支店長には『暇な時には、いつでも遊びに来い』って、言われていたので…、お留守ならまた来ますわ」

「そうですか・・・」細野は、綾乃が年齢の高いホステスとでも思ったのか、急に興味を失ったようである。

「支店長は、どちらにご出張ですか?」

「それは私にも・・・」

「そうよね。会社の事情っていうものがあるから言えないわよね」

「そう言う訳では・・・」

「お忙しそうですから、私これで失礼します。帰りに支店長室覗かせてもらっていいですか?」

「はぁ~、」綾乃は、細野の頼りない声を背中で聞きながらエレベーターに乗り込むと、5階のボタンを押した。支店長室のある階は、予め受付の際に調べておいたのだ。鍵は掛かっていなかった。無人の部屋に入ると、壁にかかっている白いボードが目に入り、細かく確認すると案の定、出張先の会社名が書かれていた。

『海南貿易有限公司』である。

貴重な情報であると言えた。古畑と共有するため綾乃は、すぐ加賀町署に戻った。


「古畑巡査部長、何か分かったことは?」

「警部補、まだデータからの判断なのですが、気になるのは男の子ですかね。他の5人の女の子は、ごく一般の家庭に育った娘たちで家庭環境からも特に問題となるような要素は何もないように思われるのです。親たちも普通のサラリーマンですし。

でも、小谷祐樹は父親があのハマのフィクサーと呼ばれている小谷の三男なのです。何か、匂うとおもいませんか?」

「小谷って、あの小谷光秀よね…」綾乃の声が心持重くなった。

「そうですよ!」

「やっぱりね。私も男の子の小谷祐樹という名を見た時、いやな感じがしたの…、

あなたと、5年前に退職した元巡査部長の野島耕介と今でもタッグを組んでいるのは知っているけれど、小谷には随分手こずっているようね。今でも元気なの?」

「はい、捜査権のない私立探偵という立場に苦労はされていますが、元気です!」

「そう、警察官としては真っすぐで、惜しい人材だったわね…」

「わたくしもそう思います!」


 * 『小谷光秀』

 小谷光秀とは、違法とも言える手段でもって企業の買収や合併を仕掛け大きな利益を得ていると噂をされている仕手集団『濱新グループ』の総帥と呼ばれている人物である。特に、横浜において複数の政治家や反社との繋がりを持ち、その強い影響力からハマのフィクサーと呼ばれている。戦術は巧妙であり、決して自分の手を汚さない策略家である。しかし、自身はこれを強く否定をしていて、司法も牙城に迫ることは出来ないでいた。



「何もなかったとしても、あたるだけの価値はありそうね。古畑巡査部長、祐樹君の通っている学校と、住んでる家至急調べてくれない?」

「了解です。警部補は、いつもの通りですが相変わらず身が軽いですね」

「当たり前よ。刑事の第一条件は、腰の軽い事。今回の失踪事案もスピードがすべてなの。発見が遅れるほど、失踪者の生死に掛かってくる。だから私は一人で行動する。これが私のポリシーなのよ」

 小谷祐樹は、聖高学園の二学年であり、住居は山手町一番地にある『コルティオーレ一番館』であった。まだ、昼前である。綾乃は再びMAZDA6に乗ると聖高学園に向かった。聖高学園は、同じ中区の滝之上にあり正午前には着くことが出来た。

綾乃は、守衛室を訪れると学校長に面会を求めた。学校というのは、ある意味聖域であり刑事としても慎重な行動が求められるのである。

綾乃は、警察手帳を見せると、学校長に事情説明をした。

「分かりました。では、担任の同席でよろしいですね?まだ学生ですから、質問はその辺を考慮しながらお願いします」

「そのことは、承知していますので、ご心配なく…」

昼の休憩時間を知らせるチャイムが鳴ると、担任に付き添われた小谷祐樹が会議室に入って来た。

「祐樹君、お昼休みのところごめんなさいね。すぐ終わると思うから…。

私は、加賀町署から来た成宮綾乃です。あなたが鮎川早紀さんとお友達だと、お母さまからお聞きして…。早紀さんが昨夜から行方不明になっていることを、雄介君は知っているのかな? そのことで何か思い当たることはないかと聞きたいのね、どんなことでもいいのよ」

「やっぱり、そうだったのですね」

「それはどういうことなの?」

「昨日の夜から、早紀にメールを打っても既読にならないし・・、電話を掛けてもつながらない、何か電源が入っていないみたいで・・」

「まず、あなたと早紀さんは何処で知り合ったのかしら?早紀さんは、フェリシア女学院よね」最初に確認したいことであった。

「早紀とは、この学校の中等部で一緒でした。早紀の家からは少し遠いのと、女性徒としては、やっぱりお嬢様学校のフェリシア女学院の方が憧れみたいで・・・、

それで、高校からは、別々の学校に通うようになったのです。でも、時々ですが、

メールのやり取りはしていました。他愛ない内容ですが・・・。」

「そのことは、分かったわ。でも、他に話したいことがあるみたいね」

「はい、実は早紀に話したいことがあって、昨日会っていました」

「それは、何時ぐらいのことかしら?」

「学校が終わってだから、4時ぐらいかな~」

「場所は、何処で?」

「二人の都合のいい場所という事で、いつもの『ENOKITEI』です」

『enokitei』は、『エリスマン邸』に程近く、山手地区でも人気の高い洋館風の喫茶店である。

「ふ~ん、随分と高いお店に行くにね」

「カードがありますから、別に・・・」祐樹にとって、他意のない言葉であった。

「そうなんだ。私にとっては羨ましい限りだわ。ところで、早紀さんに話したかった事って何かしら?」 綾乃の心に引っかかっていた核心であった。

「偶然なんですけど、おとといの夜風呂から出て親父の部屋の前を通った時に、かすかに開いていたドアの隙間から『鮎川の娘をなんとか・・』という声が聞こえて来たのです。後ははっきりとは聞こえませんでしたけれど・・」

「娘って、早紀さんのことだと思ったのね?」

「ええ、他に鮎川って名字知らないし、僕には早紀のことしか浮かばなくて・・・」

「あなたが、早紀さんの身に何かが起きるのでは考えた根拠は何かしら?」

「それは、前日の早紀のメールに父親が何かのクレームで急に香港に行ってしまったと、書いてあったからです。早紀の親父さんが貿易会社に勤めていることは知っていたし、父も最近は貿易関係の仕事が増えているようで香港の会社の名前があがっていたからです。名前は、よく憶えていませんが・・・。

「ありがとう、祐樹君。事件を解明する糸口になるかも知れない。お父さんを疑う訳ではないけれど、一度話を聞いてみる必要はありそうね。潔白を証明するためにも、お父さんの携帯の番号教えてもらえるかしら?」

「親父は出ないかも知れませんが・・・、どうぞ!この番号です」祐樹は、番号が表示された画面を綾乃に見せた。


 小谷祐樹は、親の光秀の風貌からは想像が出来ないスマートさを持った好青年であった。綾乃の目を見て話す表情には、誠実さが見て取れた。

「最後に聞くけど、お父さんてあなたにとってどういう存在なの?」

「・・・正直、尊敬をしています。ここまで会社を大きくして、家族には何不自由のない生活をさせてくれているからです。家の中では、いたって普通の親父ですよ。

色々と噂もありますが、逆に利用されているのではと考える時もあるくらいです」

「ありがとう祐樹君、お昼時間に伺ってごめんなさいね」

「いえ・・、刑事さん、早紀はどうなるんですか?」

「大丈夫、私を信じて! 絶対捜し出してあげるから!」



 3 小谷光秀との対面


 加賀町署に戻った綾乃は、昼食を取る時間も惜しむように古畑巡査部長とこれからの捜査方針を話し合った。

「私は、これから小谷光秀にあたってくるつもりだけど…」

「私は、香港の海南貿易がどんな会社なのか調べておきます」

「じゃ、お願いね」

 綾乃は早速、教えられた小谷の番号にかけてみた。出ない可能性は高かった。

表示された番号は、小谷にとっても覚えのないもののはずである。ごく限られた人間でしか知り得ない番号であるかも知れないのだ。

「はい・・、」男の声である。

「…わたくし、加賀町署の成宮綾乃です。小谷さんに少しお話をお聞きしたいと思っているのですが、どちらに伺えばよろしいですか?」

「・・その前に、どちらでこの番号を?」

「三男の祐樹君からです」

「・・そうですか、何か事情がおありのようで・・」

「祐樹君個人の問題ではありませんので、ご心配にはおよびません」

「私は、またあいつが何かやらかしたのかと思いましたよ」

「いえ、そういうことでは…」

「分かりました。何のことだかわかりませんが、捜査には協力しますよ。それが一般市民としての務めですからね」小谷はいたって協力的である。真意は分からない。

「では、どちらに伺えばよろしいですか?」

「いまは、渋谷の神山町にいるのですが、こちらで良ろしければ・・。私も色々と忙しいものでなかなか動けないのですよ。モンゴル大使館を目印に来てもらえばすぐわかると思いますが・・」

「分かりました。では、一時間後にという事でよろしくお願いします」


 小谷には、刑事が話を聞きたいという真意を十分に理解していると考えていいのではないか。綾乃にとっては、途轍もなく大きな存在である。綾乃の身分を保証するものは、一冊の警察手帳でしかない。警察官としての職を辞すれば、何ら一般の市民と変わるものでもない。組織を動かすほどの財力もなく、権力を握った人物から見れば蟻の一匹にも等しい存在であろう。

しかし、今は自分で勝ち取った警察官という身分である。今出来ることをやる、 これが、成宮綾乃の信条であった。

「古畑巡査部長、これから渋谷にいる小谷に会ってくるわ」

「小谷がどうして渋谷に?」

「理由は分からないわ。夕方までには戻れると思う。それまでに、『海南貿易』に関すること調べておいてね」

「了解です!ボッ、でなくて警部補!」

「それでいいわ!」

綾乃は、用心のために拳銃を携帯することにした。S&W360J SAKURAである。

ホルスターは、背中の下あたりに携帯するバックショルダー型を選んだ。上着を羽織ると外から目立ちにくいという利点があった。特殊警棒と手錠は黒い革の『セリーヌ』のトートバックに入れた。すでに午後1時は過ぎていた。車の中で『ランチパック』でも食べるつもりである。

 綾乃は、首都湾岸線に乗り大井JCTで首都中央環状線に入ると初台南で山手通りに出た。ここからは、わずかな距離のはずである。

小谷邸は、目印のモンゴル大使館のはす向かいにあった。近隣の住宅と比べると

はるかに大きな敷地であることが推測された。建物自体は歴史を感じさせるものであるが、たぶん室内はリノベーションが施されているのだろう。

躊躇なく車庫の横にあるインタフォンを押し来訪を告げると、アルミ製パイプで出来ているらしいシャッターが上がって行った。難なく駐車スペースに車を入れると、石畳みが続く玄関口に小谷らしい人物が待っていた。


「成宮刑事、すぐお分かりになりましたか?思ったよりは近いと思いますよ。私も

週に2,3回は往復しますのでね。この距離は助かりますよ」

綾乃が初めて目にした小谷は、50代半ばに見えた。背丈は高い方ではないが、恰幅が良いだけに威圧感を感じる人物であった。

「わざわざ時間を作って頂いて、申し訳ありません」

「いやいや、女性の捜査員の方という事で、私も少し興味が湧きましてね。警察官にはもったいないくらいの美人さんですね」セクハラという言葉には、興味がなさそうである。腹の探り合いがしばらく続いた。

綾乃は、応接室に通されると時間を惜しむように名刺を差し出しながら質問をした。

「小谷さんは、横浜とは別にこちらにもご住まいがあるということですか?」

「横浜は、生活の場所と言いますか、家族も居りますのでね。ここはある意味仕事場ですかね。『濱新グループ』がこれだけ大きくなりますとね、決済が欲しい場合にはここに来てもらう方が助かるのです。全体で30社にもなってしまったのですから、

回れる訳はありませんのでね」

「でも、大部分の会社が買収や合併だとお聞きしましたが……」

「買収や合併が悪いように聞こえましたが、私は、従業員の生活を助けたのだと思っていますよ。みんないずれ潰れそうな会社ばかりでしたから・・・。成宮さん、こんな話を聞きに来たのですか?」

「いえ、では、話題を変えますが、小谷さんは最近貿易関係までお仕事を広げていらしゃるとかお聞きしましたけれど……」

「良くご存じですね。貿易も面白いですよ。違った文化を知る事が出来ますから」

「海南貿易有限公司という会社をご存じですか?」

「もちろん、知ってますよ。濱新が香港に作った会社ですからね」

「では、当然富士貿易の鮎川雄介さんを、ご存じですね?」

「いえ、知りません。私がすべてを把握しているわけではないので・・、その鮎川さんというのは、どういう方なんですか?」

「詳しくは言えませんが、鮎川さんの娘さんが現在行方不明になっていまして、それにあなたの会社の海南が関わっていると、情報を得ているものですから…」

「誰がそんなこと・・・。ばかばかしいにも程がある」

相手の感情を高ぶらせ、思いがけない言葉尻から真実に迫るのも捜査手法の一つであった。

「成宮さん、あなたの今日の目的は何ですか?私は、まどろっこしい事は嫌いなんだ。はっきり言ったらどうですか?」

「あなたは、鮎川さんを知っているはずです。娘さんの失踪にあなたが関わっているのでは、違いますか?」

「成宮さん、いくら刑事でも証拠もなしに犯人扱いはやめて欲しいものです。そんな口利きで、よく其の歳まで警察官を続けられたものですね」

「歳の話は、止して下さい。これは忠告ですけれど……」綾乃は、一歩も引かない。

「成宮さん、せっかくお会いしたのに不愉快です。お帰り下さい!」

小谷が目くばせをすると、二人の若い男が動いた。

綾乃は小谷に会釈をすると、二人のあとに続いた。振り返ると、小谷が受話器を握っている姿が見えた。


 綾乃は、駒沢通りを抜けると、第三京浜に入った。杞憂に過ぎないと思いながらも周囲に気を配ったが、特に怪しいと思える車の出現もなく加賀町署に戻ることが出来た。


 4 綾乃を襲う反社の存在   

   

「いま戻ったわ。小谷に聞いて海南が『濱新G』の一企業であることが分かったの、これだけでも収穫と言えるわね。このほかに何か分かった事はある?」

「警部補、面白いことが分かったのですが、海南は日本からの輸入に特化した会社らしいですね。濱新Gの現地法人だとする話が本当だとすれば、辻褄が合います。

内密な話ですが、噂では、警視庁公安部外事二課が動いているようです・・・」

「外事と言えば、戦略物資の不正輸出を捜査の対象としてる……。これに富士貿易が絡んでくるとしたら、濱新を中心にした大きな不正の構造が見えてくる気がするわ」

「だとしたら、鮎川早紀の失踪は・・・、一体何を意味するのですかね?」

「今日の捜査で、とりあえず糸口みたいなものは見つけられたと判断してもよさそうね。明日のためにも体力温存と行きましょうか? 巡査部長、今日はこれで上がりましょう」

「異議なしですね」


  綾乃は、拳銃を保管庫に戻さず、再び貸与する許可を得た。これも長年自分の命を守ってきた勘というものである。車を愛車のレンジローバーに乗り換えると自宅のある湘南市に向かった。車の種類に拘るのも身の安全を図るための投資であると言えた。SUVは車高が高い分相手の車を見下ろす形となり、見切りが良いという利点があった。案の定、湘南バイパスに乗ったあたりから50m程後ろを付かず離れず付いてくる車の存在に気が付いた。綾乃は、相手の真意を探るべく何回か車線変更を試みたが相手は綾乃の車を追い越そうともせず距離を保ったままであった。

住居を知られるわけにはいかないのだ。家が近くに迫ったため綾乃は勝負に出た。

バイパスを降りると、細い脇道に入った。相手に、この辺の土地勘がないことを祈った。まだ刈り取られていない黄色く実った稲穂の揺れる畦道に導いていく。綾乃のレンジローバーは、車高がある分ストレスなく段差のある道を進んで行ける。

ついに後ろの車が段差で腹を打った様子で動きを止めた。綾乃は、レンジローバーを安全な場所に止めると車から降りた。

相手のヘッドライトの上向きにされたビームが綾乃の全身を浮き上がらせている。 逆光の中、綾乃は車に近づいた。それに呼応し、二つの黒い塊が大型セダンから降りて来るのが見て取れた。

「何か用かしら?」

「男日照りの年増の女がいるって聞いたもんで、俺たちで良かったら喜ばしてあげようと思ってね」背の高い方の男が口を開いた。

「男日照りはあってるけど、私にも好みっていうものがあるの。恥をかかないうちに帰ってくれないかしら? いまなら、許してあげるけど……」

「それが、そうはいかないんだよ。俺たちにも結果報告義務というのがあってね。

これ以上、嗅ぎまわりませんと泣いて謝ってもらうまでは帰れないんですよ」

男達の目的が明らかになった。しかし、依頼主を聞いても口を割らないであろう。

「あなた達、あたしが警察官であることを知っての上でしょうね?」

「あんたの素性は良く知らないが、警官だって人の子さ。暴力の前には警察手帳なんて何の役もたちゃしないぜ。特に女の警官の時には楽しみが増えるってもんだよ」  背の高い男が嘯いた。

 逆光の光りの中から、小さいほうの男が躍り出ると、背後から近づき油断した綾乃を羽交い絞めにした。もがこうとするがびくともしない。所詮男の本気を出した力には適うはずもない。

背の高い方の男が、綾乃の左の頬を平手で打った。口の中に鉄くさい匂いが広がっていく。

「どんなに偉そうな口をきいても女が男に敵うはずもないさ。随分高そうな服着てるじゃないか、泥だらけになったら困るだろうに・・・。自分で脱ぐか、それとも脱がして欲しいのか、どっちでもいいぜ」

「分かった。自分で脱ぐわ。あんた達に触ってもらうと洗濯代が高くなるから…」

「何だと!」男の手が、綾乃の上着に伸びる・・・、一瞬気の緩んだ男の顎を、綾乃の長い脚が捕らえていた。

「ガボッ‼~ン」と響くと、鈍く湿った音を伴いながら後ろに飛んで行った。

不意を突かれた背後の男の力が緩んだその時、「グハッ‼」という呻きとともに男は黄色い液体を霧状に吹いた。男の腹に綾乃の肘がめり込んでいたのであった。

振り向きざま、男の股間を狙って右足を蹴り上げると悲鳴とともに悶絶した。

素人相手の技掛けは禁じられているが、果たしてやくざが素人と言えるであろうか。

綾乃は、上着の下に隠されたバックホルスターのホックを素早く外すと、S&W sakuraを引き抜き小さい方の男のこめかみに突きつけた。

「いずれにせよ、高いクリーニング代は払ってもらうわよ。最近は、威嚇射撃がいらないって知ってる?相手の動きを止めるには、一発で相手の頭をぶち抜いても良い事になったの。物騒な世の中ですものね。私なんか最近は、5mの至近距離からの射撃練習ばっかりなの。目をつむっても外す訳ないわ。吹き飛ばされたくなかったら、誰に頼まれたのか言いなさい!」


「・・刑事さん、それは正直俺たちも聞きたいくらいなんです・・・。若頭から脅かして来い、と言われただけで、実際刑事さんがどんな人間なのかも分かっていなかったんだ。もう少し詳しく教えてもらってれば、女相手にこんなへまは俺たちだってする訳ない。もしかしたら、中身が男かもって、ヒントぐらいくれてもよかったんだ」

「何だって!もう一発蹴られたいの?」

「いや、もう勘弁してください・・」

「二人とも、財布をだして!」

男達は、渋りながらも綾乃に財布を渡した。綾乃は、免許証と名刺を取り出すと返した。

「あなた達は、『岡田組』ね。稲庭会系の……」

小谷の『濱新G』と『稲庭会』との繋がりは、もはや否定のしようもない事実である。稲庭会が横浜を本拠地にする二次団体岡田組を手足のように使ったとしても何の不思議もないのである。

「女を襲ったことであなた達には、しっかりと罪を償ってもらうから…」

「でも、刑事さん被害者は俺たちなんですけど・・・」綾乃は、ニヤリと笑った。

「残念でした。たとえ未遂でも同じこと。私は、強行犯罪が最も許せないの。

たまたま私だったから未遂で終わったんだと思わなければ、いずれ泣きを見るわよ。仕事に貴賤はないけれど、あなた達が行動を起こす前に、これが家族に誇れる仕事なのかよく考えて見るといいわ。子供たちは、親の背中を見て育つものよ。将来、子供たちがあなた達と同じ道を辿るとしたら、親の責任は大きいわね」

綾乃は、地元警察の強行犯罪対策課に連絡を入れると、二人の現行犯逮捕を依頼した。二人の連行を見届けると、やっと仕事からの解放であった。


 5 鮎川雄介の証言


 翌朝、綾乃が加賀町署に着くと同時に、恵から夫の雄介が戻ったという連絡が入った。綾乃は、夫の雄介に事情を聞くためマンションに留まるよう促した。                     昨夜携帯したS&Wを保管庫に戻すと、古畑巡査部長に指示を出す。

「これが、昨夜私を襲った連中の免許証。岡田組の組員だけど、どこで小谷と繋がるか調べておいて…」

「警部補、襲われたんですか?怪我は?」

「大丈夫よ。少し口の中を切ったくらいだから…。湘南署から問い合わせがあったら、お願いね。鮎川雄介が戻ったらしいから聴取してくるわ」

「了解です!」


 『クレスト石川』は、加賀町署から車で5分と掛からない距離である。1Fにある管理組合の会議室で話を聞くことにした。鮎川雄介は、40代後半のいかにも営業たたき上げといった印象の人物である。

「刑事さん、早紀はまだ・・見つかりませんか?」

鮎川の憔悴しきった姿から、最初に出た言葉であった。

「鮎川さん、加賀町署としても懸命に捜査をしておりますが、分からないことが多いのです。早紀さんが『特異行方不明者』として、捜索が全国展開になったのはあくまで我々の判断なのです。早紀さんの失踪が自分の意思なのか、それとも何者かによる拉致なのか、だとしたら犯人の目的は何なのか、我々にはそれすら知らされていないのが現状なのです。雄介さん、正直言いますとあなたは脅迫されているのではありませんか?そして、その人質として早紀さんが拉致されたと考えれば、辻褄が合うのです。

早紀さんの早期発見はあなたの証言に掛かっていると言っても、過言ではありませんよ。我々は、あなたの仕事上のトラブルが早紀さんの拉致を生んでしまったと考えていますが……、どうか本当のことを話してもらえませんか?」

綾乃は、子を思う親の心に訴えた。


「私の会社は、もう成宮刑事はご存じだと思いますが、日本で生産した製品を海外に輸出する際の代行手続きと、輸送する船舶の手配などがメインとなる仕事をしています。輸出をする品目ごとに経済産業省の貿易管理部に書類を提出し、許可を得なければならないのです。近年は、テロ対策や北朝鮮、中国の軍事的脅威から特に審査が厳しくなっていて・・・。中でも安全保障審査課が最も厳しく、これは兵器開発などに転用可能な製品や技術の流出を未然に防ぐためだと説明されています。

これがいわゆる外国為替及び外国貿易法というもので、違反をすると、外為法違反という事になるのです。

 依頼主は、秋葉原に本社があるという(株)神田無線という会社で今回が初めての取引でした。輸出手続きを進めていく中で、どう考えても輸出規制に当てはまりそうな製品を発見したのです。それには、レーダー探知システムに使われている部品の可能性がありました。それは、日本の通信部品メーカー『(株)テルシステム』が開発したもので、以前にも他社が摘発された経緯もあったので、お断りしようと。

私が神田無線さんにこの旨を電話で話したところ、支社長という方から会社に呼び出されひどく怒られたのです。我が社も違反を犯した会社として摘発されれば、会社の存続にかかわると説明しても無駄でした。

『これは、漁船の魚群探知機用なんです。どこが違法なんですか?まったく理解が出来ない。もう金も受け取っていて、その金も支払いに回してしまっているんですよ。

一度受けた仕事なんだから、あなたが先方に行って対処してもらわなければ困る』

と、一方的なものだったのです」

「ここまでは分かったわ。でも、このことがどうして早紀さんの失踪に繋がっていくのかしら?」綾乃は、早く真相に近づきたかった。


「会社に戻ると同時に、海南貿易の佐々木と名乗る人物から電話があり、神田無線さんから話しは聞いたが、納得が出来ないので香港に来て詳しく説明をして欲しいと

依頼をされたのです。私は早く解決をはかりたいとの思いもあったので、出張という形で急遽香港に向かうことにしたのです。しかし、ヴィクトリア・ハーバーにあった『海南貿易有限公司』は、会社とは名ばかりの雑居ビル街の一室に机が三つあるだけの、いわばダミー会社のようでした。

 私は、身の危険を感じてすぐその場を離れようとしたのですが、三人の目つきの悪い男達に囲まれて、いわば軟禁状態にされたのです。私の解放の条件は、製品の強行輸出でしたが、私はもちろん最初は断りましたよ」

「鮎川さん、すると次にあなたに無理やり輸出を承諾させるために、早紀さんを拉致すると脅かしたのが真相ね」

「そうです・・・」

「そして何日が後、犯人側は実際に早紀さんの拉致が日本側の反社組織によって実行されたのを確認すると、今度は早紀さんの解放を条件に強行に承諾を迫った……」

「はい、・・・」

「あなたが、無事にこうやって解放されたのはなぜかしら?」

「それは、私が輸出品目の内容を偽ってでも、無理やり船に乗せることを約束させられたからです。娘の命には代えられませんから・・・」

「早紀さんが解放されるとしたら、船が確実に横浜港を出たことが確認できた後になるということね」

「そうだと、思います」

「一つ確認をしますけど、あなたが私に会って最初に言った言葉覚えてますか?

あなたは、『早紀はまだ見つかりませんか?』って、言いましたね。

あなたは、早紀さんが解放される条件を知りながら嘘をついたことになりますよ。

その真意を話して下さい」 綾乃は、違和感を口に出した。

「すみませんでした。それは、警察には何も話すなと言われていましたので・・。

でも、今は成宮さんを信じています。私に出来ることは何でもやりますので、どうか

早紀を無事に・・・、お願いします!」


 6 県警警備部外事課第一班との合同捜査


 綾乃は昼前に加賀町署に戻ると、早速古畑巡査部長はじめ強行犯係全員を会議室に集めた。まず、古畑が発言した。

「警部補を襲った岡田組は、野毛の商店街の中に拠点を構え、約20名ほどの組員が確認されています。六本木に本部を構える稲庭会の下部組織であることは明らかでありますので、何者かの命令を受けた稲庭会の幹部が岡田組の若頭に指示を出し、同じく若頭から指示を受けた岡田組の下部組員が良く事情も知らずに犯行に及んだところ、運悪く返り討ちに合ってしまったというのが事件のあらましだと思われます」

「巡査部長、運悪くって何よ。犯行自体があってはならない事なんだから、口を慎みなさい。確かに、いま湘南署にいる連中はそう思っているかも知れないけど……」

「はい、以後気を付けます・・・」


「鮎川早紀さんの失踪は、やはり何者かによる拉致が濃厚です。父親である鮎川雄介の証言によりこのことが明らかになったのです。犯人は、早紀さんの解放を条件に、本来なら外為法に違反する疑いのある製品の強制輸出を、貿易会社の支店長である鮎川さんに迫ったという事実が分かりました。。まず、早紀さんの無事解放に繋げることが我々が最優先しなければならない事案です。私は、これから県警の外事に行って策を練って来ますので、また集まってもらうことになります。 以上!」

綾乃は、署内食堂で簡単な食事を取ると、午後から中区海岸通りにある県警本部に向かい、警備部外事第一課長稲垣順平を訪ねた。

「どうした綾乃、随分久しぶりじゃないか?」

「ご無沙汰しております。10年ほど前にご相談に乗って頂いたきりで申し訳ありません」

「そうだよ。綾乃は、自分が困ったときにしか来ないからな」

綾乃の初めての配属先が神奈川県警であり、稲垣は綾乃が巡査として勤め始めた時の上司であったのだ。綾乃の刑事としての才能を見出したのも稲垣であった。

「お前の活躍は噂で聞いているが、あまり無理をするな。女だからという意味ではないぞ、命を粗末にするなという事だ」

「はい、ありがとうございます」

「ところで今日なんだ? 頼みごとがあると顔に書いてあるぞ」

「課長、分かりました?」

「ああ、お前のことならわかるさ。綾乃も良い女になった。しかし、色気が出たという意味ではないんだ。人間として成熟して来たという意味だからな」

「それって、誉めてるってことですか? 少し気持ちは複雑ですけれど……」

他愛ない会話が続いた後、綾乃は切り出した。 

輸出請負会社である富士貿易の支店長鮎川雄介が、外為法違反の疑いがある製品を香港の会社海南貿易に輸出することを断った結果、娘である早紀が拉致されその解放の条件は輸出の強行策であること等を説明した。


「綾乃の考えを聞かせてもらおうか?」

「探知レーダーシステムの部品が、輸出禁止品目であるリスト規制に引っかかるのは事実だと思うのですが、経済産業省の貿易管理部には今回に限り目をつぶって頂いて

輸出許可をお願いしたいのです。犯人側は、船が横浜港を出た時点で早紀さんを解放すると言っているのですから、今はこれを信用するしかありません」

「しかしだ、不安定要素が強くないか? 船が領海外に出ても解放されない可能性が残されている。いわば、国際的な犯罪を犯そうといている組織がそんな甘い想定でいるとは思えない。解放された時点で船が港に戻ってしまう可能性もあるからね。

仮に犯人側が船員として潜入していた場合だが、いくら登録国に『無害通航権』があるとしてもだよ、船がヴィクトリア・ハーバーに入ってしまえば、船長の警察権は消滅してしまう。後は、香港警察に委ねるとしてもだ、手続きが複雑でね。こんなことも、組織は織り込み済みだろうがね・・・」稲垣は慎重論を崩さなかった。

「課長のおっしゃることは良く分かります。でも、時間がありません。私の考えに任せてもらえませんか?」

「・・・、分かった。経産省の方は俺に任せろ。それと、港に一班と、船に船員としてアンダーカバー数名を乗せることにする。女の子の無事解放が確認された場合、コンテナは強制没収扱いとなり横浜に戻されることになる。これが作戦だ!」   

「ありがとうございます」

「船の出航は、準備の都合上明日の午後3時以降、船籍は日本、これで段取りを取ってくれ」

「了解です!」


 綾乃は、県警を離れると鮎川と連絡を取った。

「鮎川さん、いま何方ですか? すぐ会社に向かって下さい。詳しい事は、そちらでお話しますから……」

「はい、分かりました」

綾乃が小港町の富士貿易に着いた時には、午後2時を回っていた。支店長の鮎川は、支店長代理の細野と打ち合わせ中であった。

「あっ、細野君、こちらは加賀町署の成宮警部補だ」

細野は驚いた表情を顔に浮かべ、綾乃の顔を覗き込んだ。

「年増のホステスとでも、思っていたのかしら?」

「いいえ、とんでもない・・・」

「二人は、顔見知りなんですか?・・・」鮎川が二人の顔を交互に見た。

「ええ、ちょっとしたね。ねえ、細野さん!」

「あっ、はい!・・・」


 綾乃は、本題に入った。

「まず、鮎川さん、早紀さんの解放の条件が、コンテナを積んだ船の出航だと言っているのですから、我々はこれを飲むことにしたのです。。安全保障審査課からは、特別措置として今日中に輸出許可が下りることになっています。そこで、県警の外事課の指示通り、明日の午後3時以降に出航する船にコンテナを乗せる手配をお願いしたいの。条件は、旗国の法律が効く日本籍であることね」

「分かりました。でも、犯人側はどうやって出航確認をするのでしょうか?」

「それがまだ分からないの…。でも、最大の警備体制を取るつもりだから心配しないで。それと、秘密裏に数人の警察官を乗り込ませるつもりなの。県警から話が行くと思うけど、船長の了解をあらかじめ取っておいて欲しいの。あくまでも情報が漏れないように秘匿でね」


 7 船の出航


 翌日午前8時に綾乃の携帯に着信があった。鮎川からである。

「成宮さん、遅くなってすみません。やっと船が決まりました」

「良かったわ。教えて!」

「はい、船は『ONE』の『オーシャンブリーズ号』になりました。本牧埠頭のD突堤4号岸壁から午後4時出航予定で、香港経由最終寄港地がシンガポールの予定です。

段取りに支障のないよう、私も乗ることで協力したいと思います。例の件は船長に話してありますので・・・」

「ありがとう。助かったわ」

綾乃は、古畑に班内告知を徹底するように指示をすると、間髪を入れず稲垣に連絡を入れた。

「分かった。すぐ三人送り込むことにする。配置は後で知らせる」

「了解しました!」


 * 『ONE』とは、「Ocean Network Express」の略語であり、商船三井、

日本郵船、川崎汽船の三社が定期コンテナ事業のために、2018年に統合された事業形態である。これによって、扱い高が世界第6位となったのである。


 

 まもなく午後4時を迎えることで、港にそそぐ陽の光も力を失っているようである。D突堤は空気が張り詰めているように静まりかえり、釣り人の姿もない。

D突堤のゲイトが封鎖され、普段コンテナを運ぶトラックや陸送会社の車の往来が皆無であったためである。県警警備部外事1課長稲垣順平は、埠頭の先頭にある白い円柱状のシンボルタワーを最前基地とし、数人の部下とともに不審者の警戒に当っていた。港内には、釣り船やレジャーボートに乗り込んだ捜査員が十数名いるはずであるが、犯人側に知られるのを恐れたために気配すら消していた。

『オーシャンブリーズ号』は、長い汽笛を三回鳴らすと、定刻通りに岸壁を離れ始めた。しかし、十数台設置した監視カメラにも組員らしき人物の動きが映らない。

「おかしいわね。彼らの動きが全く見られないじゃない。早紀さんを本気で解放するつもりがあるのかしら?」

綾乃は、いら立ちを隠せなかった。怪しい組員風の人物を確保し、早紀が匿われているであろう場所を特定することで解決に繋げようとした目論見が早くも崩れそうであった。今の季節5時過ぎには日没を迎えてしまう。目に見えていたすべての存在が闇の中に隠され、その存在さえ消えてしまうのだ。

綾乃は、稲垣に連絡を取った。

「稲垣警部、綾乃です。状況は?」

「埠頭は全く収穫無し。空振りだな。それより、船内にいるはずの三人の捜査官に全く連絡がつかないのだよ」

「何ですって! 電波が届かないってことですか?」

「いや、海上の場合、灯台などを利用して中継基地をつくることで、約50kmは届くはずなんだが・・・」

綾乃は念のため、鮎川に電話をした。

「鮎川さん、三人の捜査官が乗ってるはずだけど、あなた見たかしら?」

「いえ、最初から見ては・・・」

「そう、分かったわ。早紀さんに動きがあったら知らせるわね」

綾乃の目的は、あくまで早紀の救出であった。無事救出の限界時間が迫っていた。

後は、稲垣に任せることにした。

「部長、この場はお任せして良いですか? 私、小谷に会って来ますから…」

「了解した。一人で行動するな。誰か連れていけ!」

「いえ、大丈夫ですから……」


 8 仲介役としてのの小谷光秀


 綾乃は、禁断の手に出た。再び小谷光秀への個人的な電話であった。

小谷は綾乃の電話に出た。

「成宮警部補、慌てた様子でどうしましたか?」

「どうしても早紀さんを解放して欲しいの! お願いします」

「いつもの強気な成宮さんが、どうしたことですか?」

「まだ、17年しか生きていない少女を、大人の都合で利用するなんて許されるはずもないと思わないの?」

「成宮さん、私は一介の実業家に過ぎない人間ですよ。少女をどうこうしたと言われてもお門違いとしか言いようのない事です。それでも、私にどうしろと?」

「分かりました。私の負けを認めます。でも、あなたに頼むしかないんです。あなたに、早紀さんの解放の仲介をお願いしたくて……」焦りから綾乃の頬に思いがけなく涙が流れ、港の灯りを映していた。

「成宮さん、私も子を持つ親の一人ですよ。子を思う親の気持ちはよく分かります。

でも、あなたをそこまで追い詰めるものは何なのですか、私には、理解できない」

「実は私にも、別れた同じ歳の子供がいるのです。もう十年も会っていない。随分薄情な母親だと小谷さんは思うでしょうね。でも、私は傷ついた人の心の苦しみに添ってあげたいと、私生活を犠牲にしてでも頑張って来たんです。それが、私を支えてくれた原動力であったと言ってもいいわ。いずれ成長すれば世の中の不条理を知り、家庭を顧みず働いていた私を娘は許してくれると勝手に思いこんでいたのです。結局は、許してはくれなかった。十年もの間、私に会うことを拒んで来たのですから。 子供の心を傷つけるのは、大人の勝手な思い込みや事情が原因なんです。私は、あらためて娘に謝りたい。今回でも何の罪もない早紀さんが大人の都合で事件に巻き込まれてしまった。大人達は、早くそのことに気が付かなければならないんです…」


「随分と、泣かせる話をしてくれるじゃないですか・・・。私も今回の件は人づてに聞いてはいましてね、心を痛めていたのです。確かに子供を大人の事情に巻き込んではいけないと思いますよ。この点では、私とあなたは同じ考えかたらしいですな。私も出来るだけの協力をしましょう、ある人物を介してですが・・・。でも、代償は大きいと思いますよ」

「ある人物って、誰なんですか?」綾香の問いには答えず、小谷の電話は、唐突に切れた。

 すでに午後8時を回っている。人影はなく、目の前の水面に映った港の灯りだけが揺れ続けていた。30分ほどたった頃、突然綾乃の携帯が明るく光ると、激しく振動した。何者かからの着信である。

「成宮さんだね?」

「…わたしです…」

「一回しか言いませんよ。私の要件を聞いた後、携帯をすぐ目の前の海に投げ込むこと。そして今から五分後までに、山下公園の『赤い靴の女の子』の前に来ること。これだけです。良いですね?」

「待って、無理よ!行けるわけない…」綾乃の叫びが、突堤の暗闇の中で響いた。

「無理なら、諦めるしかない。女刑事さん・・・、スタートだ!」

綾乃は携帯を海に向かって投げ入れると、それは、弧を描きながら海の中に消えて行った。

 MAZDA6が黒い塊となって、闇の中で急発進した。綾乃にはライトをつける余裕すらなかったのだ。50m程離れた場所にいた古畑が気付いた時には、遠ざかるエンジン音だけが残されていた。古畑が、覆面パトカーの車載通信機に飛びついた。

「こちら002,001応答願います。何がありました? どうぞ!」        古畑の複数回の呼びかけにも、綾乃は、時間を惜しむように応答することはなかった。しかし、公園通りに入り、県民ホール前まで来ると車を乗り捨てると同時に口紅で『メモ書き』を残した。

すでに4分は過ぎている。赤信号に構わず、通りを突っ切った。

走って公園内に入った時には、すでに息が上がっていた。吐き気が襲ってくる。

もつれる脚で『赤い靴の女の子』にたどり着いた時には、1分を過ぎていた。

綾乃は、スカートにも関わらずその場にへたり込んだ。


 突然視界が塞がれると、男の生暖かい息が首筋に掛かった。

「まぁ、1分の超過ぐらいは許してやってもいいですよ。あんたの努力は認めるよ。

若そうには見えるが、走らせれば体力が分かってしまう。歳相応ってところだな」

「つべこべ言わずに、早く早紀さんを解放しなさい!」綾乃の必死の抵抗である。

「刑事さんは、自分のことを心配した方が良いですよ。娘の命は保証しますよ。

そう言われているのでね。依頼主も勝手なもんだ。最初は娘を拉致しろ、今度は

娘を解放する代わりに女刑事を捕まえろだからね。自分たちは手を汚さず、汚い仕事を俺たちに押し付けやがる」

「それが嫌だったら、依頼主を教えることね。犯罪教唆容疑で捕まえてあげるから」

「そうもいかないのが、世の中っていうことでね。あんたの口車に乗るわけにはいかないのさ。刑事さん、あんたにはこの前俺たちの仲間が酷い暴力を受けて、まだ檻の中にいる。このままじゃ、ヤクザとしての面子がつぶれっぱなしでね。少し、付き合ってもらいますよ」

綾乃は、腹に強い衝撃を受けると意識が遠のいた。


 9 早紀の解放


 綾乃が気が付くと、マンションの一室のようであった。20畳近くはありそうだが、窓が極端に小さい。声が漏れるのを防ぐためであろうか。

胃が痛んだ。体を動かそうとするが、自由にならなかった。後ろ手に拘束され床に転がされていたのだ。

「お目覚めのようですね」公園で聞いた男の声である。

「早紀さんは?」

男が目くばせをすると、男の後ろにいた3人の影が動き、まだ幼さを残した若い女が部屋に連れ込まれて来た。

「早紀さんね? もう大丈夫だから、安心して……、」

早紀はまだ状況が呑み込めない様子である。

「私は成宮綾乃、警察官なの。あなたを助けに来た…の」

「助けようたって、こんなカッコじゃ無理だろうが・・・、」男は嘯いた。

早紀の服が、不自然に乱れている。

綾乃は、あえて早紀に問かけなかった。早紀の頬を流れる涙がその意味を語っていたのだ。綾乃の憎しみを持った目が、男達にそそがれた。

「あなたたちを、絶対許さない!!」

男達の暴力の前に、また一人の犠牲者を出してしまったことを綾乃は嘆いた。

青春期に起きた濡れた地面に横たわった惨めな自分の姿が重なる。自分があの時の警官のように、傷ついた心に寄り添うことが出来なければ、この20年もの警察官としての人生が無駄になってしまうとの思いであった。

「私を残して、早く早紀さんを母親のもとに返してあげて…、あなた達の目的は、

船が港を出たことですでに終わっているはずでしょ?」


「ああ、たった今上から指示があった。娘の解放だ。船が、領海(陸地から22km)を出たのが確認できたそうだ。おい、ノブ、娘を駅まで送ってやってくれ」

早紀は再び目隠しをされると、男とともに部屋を出て行った。これで早紀が無事に親もとに帰ることが現実となれば、綾乃の当初の事案も一段階を迎えられたことになる。部屋には男4人と綾乃である。

「あなたの名前を教えて!」綾乃は、床に転ばされながらも聞いた。

「名前ぐらいいいか・・・、池田だ」

「池田さん、一つ聞きたいことがあるんだけど…、」

「何だ?」

「何処から、解放の指示が来たの?」

「そんな事か・・、岡田組の連中が来る前に教えてやってもいい。あんたの命は、

岡田が握っているからな。せいぜい命乞いをするがいい。

それは、船に乗っている俺たち今川の組員さ。『オーシャンブリーズ』が領海を出たことで、警察権を船長が握ることになり、もう横浜に引き返す可能性も無くなったからだ。

「船には、三人の捜査員が船長の許可のもと乗船していたはずだけど、何か聞いてないかしら」

「連中のことか? そんな事は、乗船する前から分かっていたことだ。始末のためにに海に投げ込まれたかも知れないな」

「嘘よ!分かるはずもないわ」

「安心してくれ、俺たちはそこまでのことはしない。主義に反するのでね。これも、依頼主からのきついお達しなんだ。知っていたのは、事実だがね」

「良かったわ…、でも一体誰があなた達に……」

「富士貿易の中に、内通者がいたとすれば分かるだろう」

「可能性があるとしたら、鮎川支店長か、細野支店長代理の二人しかいないはず。鮎川さんが自分の娘を犠牲にしてまで実行するわけがないから、残りは細野という事になるけれど…」綾乃は、推理した。

「そうだよ。細野が我々と違って、船の位置を知る事は簡単な事だ。娘の解放は最初の約束通り、船が領海外に出てそれの確認が出来た時と決まっていたのさ。我々も、いつまでも娘を人質にしておくわけにはいかないからな。人の命の重さは充分知っているつもりだよ」

「だったら、どうして早紀さんに、あんな野蛮なことをしたの?私は許せない!」

「そのことは、子を持つ親として正直に謝るしかないな。俺の留守中のことだった。

きつく叱っておいたがね。それも限度って言うのがあってね。やくざが皆神父さんのようだと、極道という商売は成り立たないのさ。たまには、その逆もいるようだが・・・」

「鮎川さんは、どうなるのかしら?」

「コンテナの中身は、本物だと聞いている。無事に海南に荷物が届けば、帰って来れるだろう。いい歳のオッサンなんだからな」

「警察は、安保審査課の計らいも生かせず、捜査ミスを犯してしまったのね」

「あんたは、外事が専門ではないだろう? 諦めが肝心さ」

「ヤクザに慰められるなんて、私も焼きが回ったもんだわ」

まだ、綾乃は諦めてはいなかった。目的は、強行犯の一斉摘発であったのである。


 10 綾乃の絶体絶命


 池田との話が終わらないうちに、5人の男たちが乱暴に部屋に入って来た。同じ稲庭会の二次団体岡田組の若頭を先頭にした集団であった。

「この女が、成宮って刑事ですか?」若頭の山室哲也が池田に聞いた。

「そうです。我々が受け持っていたコンテナの輸出と娘さんの解放は無事終わりましたのでね、後は、気のすむよう部屋を使って下さい。我々は隣で一杯やってますんでね」

「それは、お疲れさんでした。とりあえず、拘束を解いてやって下さい。こんな格好じゃ勝負にもならない」綾乃はあえて、膝をきつく合わせた。

綾乃は、拘束を解かれると、椅子の上に座らされた。

「刑事さん、あんたにはうちの組員が随分お世話になったそうで・・・、お陰様で

まだ帰ってこれんのです。この落とし前をどうつけてくれますかね?」

岡田組は、稲庭会のなかでも武闘派と知られていた。若い組員二人が、綾乃に返り討ちを食らったことで、その地位も揺らぎかけていたのである。

「彼らが、ドジを踏んだってことでしょう? 私は、降りかかった災難を振り払っただけだから…」

「何を生意気な!」山室がいきり立った。

「あなた達の今日の目的は、わたしへの復讐ってこと? 女一人に5人の人相の悪い男達…、これがあなた達の家族に胸張って言える仕事なのかしら? 私は、一人で少女を救い出すためにやって来た。きょう一日、食事と言えるものは何もとってないわ。でも、私は与えられた使命感を支えに何とかここまでたどり着くことが出来たの。そのことで、あなた達に恨まれたり、ましてや非難される筋合いもないわ」


「バシッ!」山室の平手が、またもや綾乃の左頬を捕らえ甲高い音が部屋に響いた。

「この女、生意気言うんじゃないぜ! 女だからって手加減してもらえると思ったら

大間違いだぜ。少しは、口を慎めってもんだ。俺たちには、俺たちの論理ってものが有るんだよ。仲間がやられたら、やり返す。これは、考え方によっちゃお前たちも同じだろう。違いがあるのは、お前たちが権力側から『逮捕権』なるものを与えられているという事だ。手帳を持たなければ、迷える子羊以下の弱い存在に過ぎない」


「でも、考えてもみて、むやみに『逮捕権』を乱用しようと思ってる警察官なんているわけがない。善良な市民に頼られようとして、真面目に『交番』勤務をしている巡査たちを見ればわかることよ。あなた達の家族が助けを必要とした時、やくざの家族だからって差別されるとでも思っているのかしら…」


「あんたは、変わった警官だな。ある意味羨ましいと思うぜ。でもな、あんたに説

教されて尻尾を巻くほど、若くもないのさ。俺にも守るべき組織や、しいて言えば家族もある。今更生業(なりわい)を変えるほどの大儀もない。やくざには、やくざの掟があるんだ。やられたら、やり返すだ。これは、さっき言ったとおりだぜ!」


「はっきり、言ったらどうなの?」


「言ってやろうか・・、男なら半殺し、女の場合は素っ裸にするってことだよ。その後のことは、女次第だがね」

「こんなおばさんの裸、見たくないでしょう?」

「ご謙遜でしょ、なかなか良いからだしてるよ。服の上からでもわかるさ」

「分かったわ…」追い詰められた綾乃は、覚悟を決めた。


 綾乃は椅子から立ち上がり、セルッティの黒の上着に手を掛けると躊躇せず床の上に投げ捨てた。白いシャツの下に隠されていた隆起の存在が露わになった。

男達の間から、思わずため息が漏れた。

「次は、そのシャツを脱ぐんだ」男の一人が吠えた。

綾乃がシャツのボタンを外そうとするが、震える指がそれを拒んでいるようだ。


「誰か、外してくれないかしら?」綾乃には珍しく、声に媚が乗っている。


「真也、お前が外してやれ」山室に促された男が、にやけた顔で綾乃の前に立つとシャツのボタンに手を掛けた。すべてのボタンが全て外されると、当然のようにギラツイた男達の目が豊かな胸にそそがれている。集中力が切れているのが見て取れた。


「さきに、スカートを脱がせて……、」


男がスカートを好色な手つきで引き下ろそうとした時に、事態は急変した。

「バグッ!」鈍い顎の砕ける音とともに、男が仰向けに飛んで行った。

綾乃の膝が狂いもなく男の顎を捕らえていたのだ。必殺技である。

綾乃は、素早くタイトスカートをめくり上げると、露わになった太腿に張り付いた ガーターホルスターから拳銃を引き抜き、山室の眉間に照準を合わせた。

「動かないで!」

「刑事さん、なんだその玩具のような代物はよ~!」

「私は、威嚇はしないの。発砲する時は仕留める時なの。最近は、5mの至近距離からの練習ばっかりだわ」

「何お~!」山室が、鬼の形相で綾乃に迫った。

『パーン』と、乾いた音が響くと同時に、山室が綾乃の足元に岩のように崩れ喘いだ。22口径の鉛玉が至近距離で山室の太腿を打ち抜いていたのである。銃は、『レミントン・モデル95 ダブルデリンジャー』であった。ウエイト、210g・装填2発のあくまで護身用のサブ拳銃である。上着の下に隠されていたS&Wsakuraは、拘束時に発見され奪われてしまっていたのである。男がズボンの中に隠し持っていたとしたら、発見される可能性は高かった。女性ゆえの幸運な結果であったとしか言えない。


「あなた達、あと三発残ってるわ。私は威嚇はやらないって言ったわよね。今度は三人とも心臓を狙ってあげる。それとも、そこで大人しくしているか、どっちか選びなさい!」 三人の男たちは、綾乃のはったりに負け、完全に戦意を喪失していた。

「うつ伏せになるのよ、三人とも!」


 発砲音を聞いた複数の男たちの駆け寄る音が、大きく廊下に響いている。

その中に、紛れもなく古畑巡査部長の大きな声が混ざって来た。

「警察だ! その場を動くな!」捜査一課強行犯係6名による駆け付けであった。池田を含めた4人の男達も激しい抵抗は見せず、逮捕となった。

池田らに対しては、『未成年者略取』の現行犯、山室らに対しては、『公務執行妨害』及び、『暴行罪』での現行犯逮捕であった。余罪については、取り調べの過程でいずれ明らかにされるであろう。

「警部補、怪我は?」古畑の一声であった。

「大丈夫よ、でも、危ないところだったわ。ありがとう。こんなおばさんでも、 まだ通用するんだ~。私、少し自信を持ったわ。願い下げの相手だったけどね」

綾乃の話す意味が良く理解できない古畑であったが、綾乃の白いシャツからのぞく豊かな隆起に気が付くと軽い咳をした。

「ゴホンッ!」

「あら、ごめんなさい。感度はどうだった?」

「えッ、・・・」

綾乃は後ろを向き、ブラジャーの中に手を差し込むとGPS発信機を取り出した。

「あっ、感度は良好でした。はいッ!」

「でも、これもう少し小さくならないかしら? カップがワンサイズ上がっちゃうし、走る度に当って痛いから…。改良の必要はありね」

男の古畑にとって、良く理解できない感想であった。


「巡査部長、ここは、何処なの?」

「ご存じありませんでしたか・・、坂東橋の『メゾン・ドゥ・バァロン』という個人マンションです」

「ヴァロンってフランス語で、たしか小さな谷という意味じゃなかったかしら?」

「そういえば・・・」

「という事は、まさに小谷の所有物だということね」綾乃の推測通りであった。

綾乃が車から降りる際に、フロントガラスに口紅で残した文字は、まさに『小谷のマンション』であったのである。綾乃の使用した発信機の電波到達距離は2km四方以内であり、綾乃のヒントが残されていなければ不可能な救出劇であったのだ。


「早紀さんの様子はどうかしら?」

「いま母親とマンションにいるそうです。話は、早紀さんが少し落ち着いたところでと・・・」

「そうね、それがいいわね。慌てることはないもの。後は、牙城に迫るだけだから……。反社の連中の取り調べも明日にしましょう。今夜はゆっくり眠りたい!」


「同感です!」


 11 対決


 目覚めると、久しぶりの熟睡であった。気は張ってはいても、40を過ぎた女の身体は正直である。しかし、気分は悪くない。

反社の取り調べは班員に任せ、綾乃は富士貿易に向かった。

「細野さん、支店長から何か連絡が入りました?」

「いえ、何もなくて心配しているのですが・・・」

「嘘を言わなくても良いのよ。あなたは、支店長が脅迫されて香港までコンテナを届けることになったことを知っていた。早紀さんが唐突に解放された理由が分かったわ。支店長が身代わりになったのよ。違うかしら?」

「私には、刑事さんの言っている意味がよく分かりませんが・・・」

綾乃は、細野の目を見て確信を持った。

「あなたは、支店長の娘である早紀さんに関する情報を何者かに流し、拉致がしやすいように手助けをした。そして、昨夜『オーシャンブリーズ号』が領海外に出たことを見届けると報告をし、それがもはや拉致しておく必要がなくなった早紀さんの解放に繋がったという訳ね」

「何を根拠に?」否定する細野の声に強さはない。

「もう一つ良いかしら。誰一人反社の人間が本牧埠頭に姿を見せなかったのは、事前に多くの捜査員が港内に張り込んでいることを知っていたから。その情報を流したのはあなたね。そして、5分以内に私を『赤い靴』まで来るように命令したのも、私が埠頭にいたことを知っていたから出来たことだわ」 

「・・、ムムゥ~」

「間違っていたなら、ごめんなさい。あなたにどういう事情があったのか私は知らない。でも、これが真実なら、遅かれ早かれ口封じのために港に浮かぶことになるわ。死にたくなかったら、いまからでも交番に出頭するべきね!」


 富士貿易の社屋を出ると、綾乃は小谷に電話をした。

「小谷さん、成宮です。鮎川さんの娘さんが無事に解放されました。骨を折って頂いてありがとうございました」

「成宮さん、私は何もしていませんよ。でも、良かったですな」

「小谷さん、直接会ってお礼を申し上げたいのですが、いま何方に?」

「いや、それには及びませんよ。でも、どうしてもとおっしゃるなら、渋谷ですが」

「ありがとうございます。これからすぐ伺いますので…」

綾乃は再び神山町の小谷邸をMAZDA6で目指した。


 時間は、12時5分前であった。

「ちょうどよかった。いま寂しい食事を一人でしようと思っていたところでした。ご一緒にたべませんか?美人となら余計美味しく感じられる」


「食事時に申し訳ありません。よろしければ、ご一緒させて頂きます」

通常、聴取する相手との食事はあり得ない話しであるが、相手は小谷である。

綾乃は、断るのも大人げないと判断したのであった。

 昼食は、軽い『フレンチ』であるが、フルコースであった。食事中は軽い雑談に終始した。

「お気に召しましたかな?」


「ええ、久しぶりにこんなに美味しいものを頂きましたわ…」


「それは良かったです。私もあなたと同じで、一層美味しく感じられた。

ところで、御用というのは? お礼のことなら、もう結構ですよ」


「私が小谷さんに鮎川さんの娘さんの解放をお願いした後、すぐ解放された理由というのが分かりましたわ」


「ほう、それは是非お聞きしたいですな」


「あなたは、ある人物を介してとおっしゃっていましたが、ある人物とはいったい誰なのですか? 実は、鮎川さんが船に乗り込んだ時点で、早紀さんは早期に解放される予定だった。人質が父親に入れ替わったことで、もはや早紀さんには拉致の理由がなくなっていたからです。早紀さんは、ある意味ダミーにされていたのかも知れないわ。小さな国内問題に目を向けさせることで、国際的な犯罪である外為法違反行為を秘密裏に実行する計画だったのですから…。しかし、この計画に気づいた私が県警外事課と手を組んだことで、私が実行の障害となってしまった。私の抹殺を図った犯人が、早紀さんを人質に私をおびき寄せることにしたというのが真相ではないのですか?」


「よくそんな作り話が、出来たもんですな」


「小谷さんは、香港の『海南』は『濱新G』のグループ企業だとおっしゃっていましたが、実際は実態のないこの計画のために作られた幽霊会社だったのです。あなたがこの事実を知らないわけがありません。ある人物とは、小谷光秀さん、あなた本人であるとしか私には考えられないのですが……」


「成宮綾乃さん、あなたは私を誤解している。残念ですよ。確かに海南はうちのグループ企業です。でも、これだけの大きいグループです。私一人で、全てに目を届かせるわけにはいかないのです。人に任せねばならない時もある。でも、法律を冒してまで、利潤を上げようと考えたことなど一度もない。あくまで、法律の順守ですよ」


「あなたは、確かに法律を守る企業人でしょう。でも、稲庭会との深い結びつきは何を語っているのかしら? 汚れ仕事や法律に抵触しそうな犯罪行為はすべて彼らにやらせている。実業家の仮面を被った本当の巨悪とは誰のことかしら?」


「成宮刑事、私はあなたが大好きなんです。その物言いもね。しかし、今日はもうそのくらいにして置いたらどうですか。今の日本に正体を隠した悪なんて星の数ほどいますよ。組織というものは、そういう存在です。会社を守るためには、人殺しでも平気でやる。でもね、私に限って人の命を粗末にしたことなど一度もありませんよ。現に、あなたもこうして私の前にいる・・・」


「人の命を奪わなければ、何をしても良い訳じゃないわ。強行行為によってどれほどの人が傷つき、生きる希望さえ失われてしまうかも知れない現実があるの。

あなたは、それに気づくべきだわ。あなたは、言ったの。自分も人の親だってね。

でも、実際あなたの家族が強行犯の犠牲になったことがないから、そんな悠長なことが言える。あなたは、今まで仕掛ける方だったからだわ。あなたの下で、よくあんなに立派な息子さんが育ったと思う。これだけは、評価されてもいいわね」


「成宮さん、私の息子を褒めてくれてありがとう。あなたみたいな志を持った警察官が増えれば、もう少し社会も良くなるのかも知れませんね。あなたの将来を思って、忠告するとしましょう。あとは、警備部に任せたらどうですか。あなたを一番必要としているのは、市井に生きる社会全体から見れば、小さな存在と言われている人たちでしょう。鮎川の娘さんのようなね・・・。」


 一刑事としての綾乃にとって、これが限界であったのだ。一言でも、小谷の親としての心に響くものを残せたとしたなら、一歩でも、先に進めたと考えよう。

「成宮刑事、また美味い飯をご一緒しましょう」

「今度は、私がご馳走しますわ…」



 12 エピローグ 綾乃と早紀


 小谷の人間的な面を垣間見ることが出来たのが、唯一の成果と言えるものだった。秋の夕暮れは、早くもそこまで迫っていた。綾乃は、逆光の中第三京浜を早紀の住む横浜に向かって走った。


 翌日、綾乃は早紀を自宅に訪ねていた。

「ごめんなさいね、早紀さん……」

綾乃は、あえて言葉にしなかった。手を握ってあげたことで、充分理解してくれたようである。

「私の方こそ、ありがとうございました。私も、もう大人だから成宮さんの優しさは充分心に染みています。私のために、身体まで張ってくれて……。感謝しかありません。もう、大丈夫ですから……」 

「そう、良かったわ。私もまだまだ頑張るから、早紀さん私を厳しく見ててね」

「そんな~、私の方こそ成宮さんを見習って、人の心に寄り添える人間になりたい」

微笑んだ二人の顔を、窓から注いだ光が明るく照らしている。

早紀は心から、綾乃を同性でありながら素敵な女性だと思ったのである。


 綾乃は、横浜横須賀道路を日野インターで降りると、自分の娘彩香が通う鎌倉女子大に向かって車を走らせた。一目でも成長した娘の姿を目に焼き付けたかったのだ。母親としては失格であったけれども、決して無駄ではなかった10年の刑事生活あったと言えた。少しは弱者に寄り添えているという自負も生まれ始めている。その思いが綾乃を前に進めさせたのであろうか・・・。

MAZDA6が校舎に近ずくと、構内から若い娘たちの華やぐ声が聞こえて来た。

思わず成宮綾乃は、声のする方向へ視線を向けた・・・・・・




 *



 

 今夜も変わらず、加賀町署元町交番の灯りは消えることがない。

ここは、市井の小さな人たちの拠り所なのである。 

10時を過ぎた頃、遠慮がちに訪ねる一つの人影があった。

当番員佐々木健介は、きょうも二階で仮眠中であった・・・。





おわり
















 



 
















 



 















 






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