これから

従う郷に入ればいい

「帰り方は分かりません」


 彼女の昏く深い瞳がこちらをじっと見つめた。あたしは、この子が何を考えているのか、よく分からないことが多々ある。あたしへの態度だけじゃなくて…。


「最初はみんなでいろいろ探したんですけどね。

 結局…何の成果も!!!……おっとっと、真面目な話ですよね、睨まないでくださいよ。何の手がかりも得られませんでした、ホントに。

 いつまでも、元の世界に拘ってもいられないってことで、私たちはそれぞれにこの世界で暮らしてます。もうここ数年は連絡もとってないので、どうしてることやら…。…あ。ひとりだけ消息がハッキリしてるヤツもいますよ」

 そう言って、一枚のチラシを差し出してきた。


《板なんてイタイ!》

 …は?何コレ?

《我々が身につけている首看板。あれは本当に必要なものだろうか。あれのせいでお洒落を楽しめない。あれのせいで荷物を減らさなければならない。そんな苦労をしたことはないだろうか。

 また、あれが法を押しつけることで、個々人の道徳観を弱めてしまってはいないだろうか。あの無意味な板は、我ら人類の発展を妨げてはいないだろうか。

 我々『天の道』はあの目障りな荷物である首看板の廃止を主張する。》


「一緒にこっちに来たひとりは、その新興宗教の教祖になりました」

「ぶふっ…!」

 吹き出さずにはいられなかった。飲み物を飲んでいるときじゃなくて、よかった。

「…ふふふっ。でも、文面は怪しげだけど、言ってることは間違ってなくない?」

 そもそも、あたしは首看板がないというだけで、襲われたのだ。あたしの意思の確認もなく、彼らの思い込みで、レイプされるところだったのだ。


 彼女は黙ってチラシの下部を指さす。

《今こそ、無意味な板を投げ捨て、隣人の魂の声を聴こう。神の光を浴びれば、心の歌が響き渡り、我々の星はひとつになる。

 さぁ、天の道はひとつだ。君もすべてを投げ捨てよう。》

 そんな胡散臭い文章の下で、小汚い男女が全裸で満面の笑みを浮かべているのを見て、あたしは思わずチラシをビリビリに破り捨てた。

「…あ。ごめん」


「別にいいですよ。あいつらが腐るほどバラ撒いてるんで」

 冷蔵庫から、二本ペットボトルの麦茶を取り出すと、ひとつをあたしに投げてよこした。食べ物も元の世界と違っていたりするのだろうか。麦茶がよく知った味であることにホッとしながら、喉を潤す。


「元は、こんな子じゃなかったんですよ。

 今では全裸パーティを毎晩開いて、世間ではド変態集団呼ばわりされてます。元同じ世界の出身としてはいい迷惑ですよ」


 なるほど、だからあの警官はあたしのことを胡散臭そうな眼で見たのか。


「いろいろ考えすぎちゃったんでしょうね。

 平行世界の移動なんて、『普通の人』には無理なんですよ」


 彼女がそれをどんな顔で言ったのか、あたしは知らない。ただ、あたしがペットボトルから口を離したとき、彼女の瞳が少し寂しそうに見えた。

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