第50話

 今更そんなことを思ったとしても、もうひばりさんはどこにいるのかさえ分からないし、私はもう三寒四温を何度も繰り返して寒い冬に慣れてしまっている。本物の春なんて待たれど来ることはないのだ。


 とはいえ、私ももう三十歳を迎えようとしている。昨今、晩婚化が進んだと言われる時代ではあるものの、やはり結婚という二文字からは逃げられないらしい。私は明日に控えた友人──梨沙子の結婚式の招待状を広げながら溜息をついた。


 梨沙子の結婚はとても喜ばしいことだ。高校時代にはキスをしてくれないと悩んでいた彼氏と付き合い続け、途中で別れたりヨリを戻したりを繰り返してついにゴールイン。紆余曲折の後の結婚だなんてなんて美しいんだろう。嫌味ではなく本音だ。


「なあ梅、俺達もう三十歳だぞ」

「……何なの急に」


 ──思考を読み取られた?


 央ちゃんは刺さったままのナイフにまた手をかけて柔く切り込むように言った。


「初恋を拗らせるのは、疲れないか?」

「急にどうしたの?」

「俺はもう疲れたよ。だから、俺と結婚してくれよ」


 ばっさりと果実を断つように、央ちゃんははっきりと結婚というワードをあたしにぶつけた。果実どころか中核の種まで押し割ってしまったようだ。央ちゃんが使っていたのは刃こぼれどころか、しっかりと研いだ切れ味抜群のナイフだった。


 果実を口に押し込まれたようにあたしはもごもごと口を動かしながら、央ちゃんへ言い返す言葉を考える。こういうときに限って、頭は仕事をサボり素知らぬ顔をするものだ。


 ──結婚って。


 央ちゃんのことは大好きだし、信頼している。できたらこの関係をずっと続けていければと望んでいたが、その考えはどうやら甘っちょろいものだった。


「……梅がひばりさんをずっと好きで、その初恋を大切にしたいならそれでもいい。互いに初恋を拗らせたまま生きていくのもひとつの選択肢だと思う」

「いや、意味分かんないから。互いに初恋を拗らせたままってどういう意味?」

「俺はずっと前から、今でも梅が好きだ。梅とひばりさんが付き合っても、恋人できても、一度振られても、諦めきれなかった」

「で?」

「俺もお前も、このまま生きていくってことだよ」


 央ちゃんは史実でも語るように淡々と言葉を紡ぐ。一方で、私は頭を抱えて相槌を打つだけだ。この電話で簡単に返事など出来るわけがないし、そもそも私の心は何の答えも持ち合わせてなどいない。

 いっそのこと私から選択肢を奪ってくれたら楽なのに、央ちゃんは絶対にそんなことをしない。だからこそ、こんなに長いこと親友でいたわけだが──それが今、崩れてしまった。


「ごめん、少し考えさせて」

「勿論。待つのは得意だから」

「……少し、気持ちを整理したい」

「おう、また動画の編集ができたら連絡する。じゃあな」


 通話を終えてから、私はしばらく放心していた。まさか央ちゃんからそんな申し出をされてしまうとは、夢にも思っていなかった。というか、まだ私のことが好きだったなんて。央ちゃんの顔はそれほどまずいわけでもないし、この通り優しくて穏やかだし、仕事だって真面目にやっているし、その気になればもっとちゃんとした彼女を作って幸せな結婚をすることが出来るのに。


 初恋とやらのせいで、央ちゃんは人生の選択肢をひとつひとつ潰されていたのかもしれない。


 ──悪いことをしたな。


 この申し出を断ったら私は央ちゃんとこれまでのように接することが出来なくなるんだろう。この申し出を受け入れれば──いや、今の私にそれはできない。

 央ちゃんは互いに初恋を拗らせたまま生きていくのもひとつの選択肢だと言ったけど、それで本当にいいわけがないことは考えるまでもなく分かる。


 私は──あたしは、どうしたらいいのだろう。

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