第48話

「梅ちゃん、ありがとう」

「嫌だ、嫌だよひばりさん」

「……梅ちゃんは、私にとって春みたいな人だったよ。長い冬に温かい春を知らせてくれた。私にも……春が来たんだってすごく救われた気分だった」


 枝から飛び立つ鳥みたいにひばりさんはあたしの元を去ろうとするので、あたしはしがみつくようにひばりさんのコートの襟を掴んで、その胸元に顔を埋めた。

 小さな子どもを宥めるようにして、ひばりさんの温かい手があたしのボサボサ頭を流れていくけど、その手つきにすらもう埋めようのない距離を感じてしまう。


「……迷惑かけてごめんね。梅ちゃん、梅ちゃんは絶対に幸せになって。お願いね」

「幸せって何? ひばりさんがいない幸せなんて、ないよ」

「……そうだね、幸せって何なんだろう」


 ──自分でも分からないなら、無責任に投げないでよ。


 あたしの腹の底に怒りと似て非なるものが生まれたけど、それをひばりさんにぶつけることは出来なかった。もしそうしてしまえば、きっとひばりさんは眉毛を下げてごめんねと言うに違いないから。ひばりさんを困らせたくはないけど、この気持ちはどこへもぶつけられずに燻っていく。


 あたしの目からも雫が落ちる。乾いた地面に染みゆく雪みたいに、スニーカーのキャンバス素材を濡らしていく。

 春なんて、来ていなかった。

 冷たくなった指先を震わせながら、あたしはただひばりさんの名前を呼んだ。



 ひばりさんはあの日から学校へ来ることはなく、卒業式にさえ出ていなかった。ひばりさんからも連絡はないし、あたしからも連絡をすることもない。


 終業式を終えてあたしは音楽室でピアノを弾いていた。まだ寒さは残るけども、少しだけ窓を開けてその風を室内に取り込むと古い校舎の匂いが薄れた気がした。もう三月も下旬に差し掛かって、春と呼べる季節なのに風はものすごく冷たい。


 ピアノを弾きながらくしゃみをすると、後ろから笑い声が聞こえて肩を震わせた。


「豪快なくしゃみだねえ。いい楽器になりそうな音だ」

「わっ、行原先生」

「最近冷えるからねえ。三寒四温とはよく言ったものだよ」


 ──三寒四温。なんか、国語のテストで見かけた気がするけど。


 どういう意味だったか一生懸命に頭を働かせて考えていたら、行原先生はそれを察してくれたらしい。三寒四温とは寒い日が三日続くと、暖かい日が四日続き、それを繰り返して春になること──と行原先生が説明をしてくれた。テストの選択肢がぼんやりと頭に浮かんできた。


「ここのところ少し寒い日が続いたし、次暖かくなればもう春だねえ」

「春、来ますかね」

「勿論だとも」


 行原先生は窓から空を見上げる。羊の大群が青い牧場を駆けるように雲が広範囲に流れている。冷たい風が頬を撫で、あたしはまた豪快にくしゃみをしてしまった。行原先生は窓を閉めると、「一曲いいかな」と椅子に腰を下ろした。今日は銀製のループタイを着けていて、それを人差し指で撫でるとあたしの方に穏やかな目を向けた。


「あの、あたしのオリジナル曲でもいいですか?」

「オリジナルかあ。いいねえ、若き才能をいち早くお目にかかれるなんて幸運だよ」

「大袈裟ですよお。ただ思いついた通りに弾くだけですって」


 ピアノに指を乗せて、ゆっくりと鍵盤を沈ませる。重厚な音が音楽室に響き渡って、それから何かを思いついたように音を走らせた。目を閉じてじっくり聴いていた行原先生が、はっと目を開いた。

 演奏し終わった後には行原先生は拍手をしながら近寄ってくる。荒削りの曲なので拍手を受けるのは少々照れ臭くはあったけど、褒められるのは悪くない。


「テーマは何だい?」

「……うーん……あ、三寒四温ですかね」

「覚えた言葉を早速テーマにしてしまったのかい。あはは」


 冬の寒さと春の温かさを感じながら、本当の春を待つ。次こそ本当の春だと思いながら、繰り返す寒さに耐えて、でもやっぱり春は来ない。何度かそれを繰り返していると、もう冬が明けることなんてないと諦めてしまいそうになる。


 その悲しみを普通に処理しようとすると、涙を流してしまうのであたしはどうにか曲に落とし込んだ。あたしの代わりにピアノに泣いてもらえれば、少しだけ落ち着けるような気がした。毎度泣かされるピアノにとってはたまったものではないかもしれないけど、今は少し甘えさせてほしい。


「元気がないようだね」

「はい」

「そういうときは、ちゃんと心を休ませるんだよ」


 心は休む間もなく働いているので、殴ってでも眠らせてしまいたいくらいだ。だけど、その方法が分からない。休めるものなら休みたい。あたしはとりあえず先生に「はあい」と気の抜けた返事をして、ピアノの前で頭を下げた。


 行原先生と音楽室を出ると、廊下の窓が数センチほど開いていてそこから冷たい風が吹き込んだ。ほんのり桜のような香りがして、ひばりさんがそこでカメラを構えているような気がしてふと足を止める。風にそよぐあの長い黒髪が見えたけど──やっぱりそれは幻だ。


 あたしに春は来るんだろうか。どんなに桜の匂いを感じても、風が温かくなっても、三寒四温が終わっても、春はずっと先に思える。春になったと勘違いを続けながら雪に埋もれる梅の木みたいだ。

 あたしに春を連れてくるのはひばりさんだけなのに、もういない。

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