第30話

 あたしはまた毎日放課後にピアノを弾いていた。というのも、十月半ばにピアノコンクールがあるので練習をきちんとやっておかねばならないにも関わらず、家では相変わらず小夜がピアノを独占しているからだ。小夜もまたコンクールが近いのでピアノに当たり散らすようにしながら練習をしていた。それを横目で見ながらあたしは自室に移動しエアピアノを奏でる。


 あたしが毎日音楽室に入り浸っていても、当然ながら先輩が第二音楽室へ入ってくることはない。この前みたいに教室へ行けば会えるんだろうけどそれは出来なかった。というのも、先日教室へ行ったことが妙な噂となって流れてしまったからだ。


「梅、桜田先輩に喧嘩売りに行ったって本当?」

「えっ?」

「テスト終わった日に教室乗り込んで、呼び出したんでしょ。お互いバチバチしてたって三年の先輩から聞いたよ」


 ──バチバチ……。


 あのときの教室からの生徒の波を思い出す。個人の顔はおぼろげだけど、確かに嫌な目で見られてはいた。あたしも先輩も穏やかな雰囲気ではなかったかもしれないけど、それだけでいい加減な噂を流さないでほしい。


 それは嘘だと伝えると梨沙子は胸に手を当てて心底安心した様子だった。そもそもあたしが喧嘩をふっかけるような野蛮人に見えたのだろうか。そうだとしたら心外だと、分かりやすく口を尖らせると梨沙子は眉毛を下げてごめんと言った。


「でも、三年生の教室に行ったのは本当でしょ。何しに行ったの?」

「桜田先輩に用事があったから」

「ほんと仲良いよね。まあそれについてはもう何も言わないけどさ」


 梨沙子は腕を組んだまま、スカートからすらりと伸びた脚を組む。背が高くてモデルみたいな体型の梨沙子はたったそれだけで様になる。

 とりあえず、喧嘩の噂だけはどうか信じないでほしいとだけ梨沙子に伝えておいた。きっと噂を流した先輩とやらも、梨沙子がそう伝えてくれれば信じることだろう。


 こんな噂が流れたことに対しては、先輩にも悪いことをしてしまったと反省する。先輩が何も言われていないことを祈る。


 そういうわけでしばらく先輩とは会えずにいたのに、あたしの頭の中は先輩のことで埋め尽くされていく。階段を上ればすぐの距離にいるのに、まるで離れ離れになってしまったようだ。元気かな、なんて考えてしまうのも、同じ学校の中にいるのにおかしなことだ。


 先輩が元気かどうかは夏休みが明けて、ひと月くらいしてからの全校集会で知ることとなった。先輩が写真のコンクールで賞を受賞したらしく、その表彰が集会で行われた。あたしが先輩と出会ったばかりのときに撮っていたあの写真──ピアニストものまねの写真がまさか本当に受賞してしまうとは。


 表彰するときに、背が小さくてずんぐりむっくりの校長先生が、写真のタイトルを『春を呼ぶ音』と言っていた。あの写真を撮ったのは春だったっけ、と思った。むしろ夏に近かったような気がする。

 先輩がどういう意味でそのタイトルをつけたのかあたしにはまったく見当もつかない。だけど、何の理由もなく好きだと思った。それさえも先輩は不正解だとジャッジするんだろうか。


 壇上で賞状を受け取る先輩はあまり嬉しそうには見えなかった。賞というものにそもそも縁のないあたしには分からないが、賞状を受け取る行為というのはそれほど誇らしくはないのか。生徒から受ける乾いた拍手にも何の反応もなく、先輩はただ形式的なお辞儀をするだけ。嬉しそうなのは校長先生だけだった。


 先輩が賞を取った写真はコンクールのホームページに掲載されることになった。家のパソコンで見てみたけど、写真の中のあたしは何も考えずにマヌケ顔でピアノを弾いている。この呑気だった頃に戻りたいもんだ。好きとか嫌いとか何にも気にしていなかった、つい数ヶ月前に。


 その頃のあたしは先輩にとってまだ正解だった。あたしはどこで岐路を間違えてしまったんだろう。

 ひとつつまずくと、芋づる式に後悔が増えていく。もう遅いというのに。


 ちらりと横目でピアノを弾く小夜を見た。あたしが間違っていなければ、今頃そこに座るのはあたしだったかもしれない──勿論口には出さないけど。


「何か用?」


 あたしの視線に気づいた小夜がつっけんどんな口調と共に振り向く。あたしは別にと雑に投げ、携帯電話を見るふりをして目を逸らす。


 コンクールまで一週間を切った頃、さすがにあたしも若干の焦りを感じていた。それを察したピアノの先生が大丈夫かと訊ねてくるが、あたしはゆっくりと頷く。先生は気まずそうな顔をしながらも、「まあ聞く限りは大丈夫でしょう」と言っていた。


 とりあえずコンクールのレベルには達しているということなので、ひとまずは安心する。そして慰めに「私は梅ちゃんのピアノ好きよ」と毎回言ってくれる。


 この時期にコンクールがあってよかったかもしれない。先輩が示した正解を探すことから少しだけ離れられた。でも忘れた日はない。そればかり考えている。


 ──ただ好き、というのは正解じゃないのかな。

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