第25話

 あの後桜田先輩はひと言も喋らず、あたしも何も言えずにいた。迷い込んだ住宅街は割とスムーズに抜けて、互いにバス停へ向かう。別れ際でやっと先輩は「バイバイ」とたった四文字だけ口を聞いた。

 結局、最後のふたつの噂については何も聞けなかった。一番大切なところだったのに。そしてあたしの気持ちへの返事も。


 先輩はあたしが好きじゃないんだろうか。それとも先輩と後輩という境目を崩したくなかったんだろうか。


 きっと梨沙子の言っていた情報は全てガセネタだった。だから、あんな空気になってしまったんだ。ただ先輩は優しいから拒否の言葉を使わなかっただけ。


 大好きですと伝えた後の先輩の顔が頭の中に張りついて離れない。国語の試験みたいにその表情だけで人の気持ちが分かればいいのに、現実ではそうはいかない。少なくともあたしが描いていたハッピーエンドではないことは分かっているけど。


 家に帰ってもご飯が喉を通らない。あたしはまっすぐに自室に籠って感情に身体を叩かれるままだった。ぼろぼろになっても、そのままにした。


 翌日は顔が真っ赤に腫れてしまったので、お母さんが補習を休ませてくれた。お母さんはあたしに向かって「どうしたの」という言葉を二回くらいかけてくれたけど、あたしが何も返事をしないで布団に包まったままでいたら背中を撫でて放っておいてくれた。


 小夜がこの家にいないことが救いだ。どうやらピアノの練習が捗らないらしく、昨日から母方のおばあちゃんの家に泊まりに行っている。環境を変えてリフレッシュするといったところらしい。今ふたりきりになったら、情けないあたしに小夜はド正論をぶつけてくるに違いないから。今のあたしは感情の奴に全身をぼこぼこに殴られていて、満身創痍なのでちょうどよかった。


 昼ぐらいになってようやくベッドから出ることが出来て、携帯電話を開いたら梨沙子からメールが入っていた。あたしが今日休んだことに、梨沙子は少なからず責任を感じているらしい。


 噂は全部ガセだったよと、あとあんな言い方をしてごめんと返しておこうと、ボタンの上に指を滑らせながら返事を考える。とはいえ、あたしが今日休んでいる本当の理由は梨沙子に伝えられない。あたしは今日、アイスの食べ過ぎで腹を壊したことにしようと決めた。


 テーブルの上にはお母さんの置き手紙があった。『冷蔵庫にうどんを冷やしています。食べられそうだったら食べてね』と、黄色いチラシを四角に切ったものの裏に書かれていた。手紙をひっくり返すと「チーズクリームアイス三割引!」なんて甘いワードが書かれていて、少しだけ食欲が出た。


 水気がなくなってもっちりとくっついたうどんをめんつゆの中にくぐらせて口の中へ。あたしは昔から麺類を食べるのが苦手だ。何が悪いのか分からないけど、他の人がするように勢いよく食べられない。舌やら歯を使ったり箸で押し込んだりして、人より時間をかけてしまう。でも美味しいから好き。もっとスムーズに食べられたらいいんだけど。


 カレンダーを見ると今日は金曜日。次に学校へ行くのは週明けだ。それからすぐにお盆休みに入ってしまう。月曜日に桜田先輩に会えるだろうか。


 ──会えたとしても、あたしはどうしたいんだろう。

 ──また好きって言っても、きっと先輩は同じことをする。


 ひとりで考えていると、昨日の先輩が頭の中に浮かんでは「バイバイ」の四文字を置いていくだけ。残ったそれがあたしの胸をずんと重くしては、また目を潤ませる。


 結局うどんは完食できなかったし、チーズクリームアイスの文字にももうときめきを覚えない。残した分を冷蔵庫に戻して、あたしはまたベッドの中に潜り込む。この部屋の冷房が効いていることだけが今は救いだ。じわじわと追い詰めてくるようなセミの鳴き声も、汗が滴るような熱気もない分だけ昨日から少し遠ざかっている気がする。


 それから目をつぶっていたら本当に寝てしまって、気づいたら時計は四時を指していた。お母さんはまだ帰ってきていない。きっと疲れて帰ってくるだろうし、洗濯物くらい取り込んで畳んでおこうとベランダに出た。


 マンションの七階からの景色はいつもと何ひとつ変わらない。今日は厚い雲が覆っていて限りなく白に近いグレー一色の空だ。その隙間から光が差し込んでいる様子が綺麗だったので、あたしはテーブルの上に放置していた携帯電話を持ってきてその様子を写真に収めた。


 綺麗な景色を見つけたら写真に撮る、という習慣がこの短期間で染みついてしまったようだ。こんなことをしてももう意味はないのに。

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