第22話

 綺麗な桜田先輩の前でそんなものが通用するはずもない。


「下手とかじゃなくて。今日の梅ちゃんの音は辛そう」

「慣れない曲を弾いたからですよ」

「そう。でもピアノと喧嘩するのはよくないよ。今日の梅ちゃんはピアノをいじめているみたい」


 ──ピアノと喧嘩。


 桜田先輩の独特な表現にあっけに取られる。先輩にはそう聞こえていたのかと思うと、少しだけ可笑しかった。


「先輩って面白い言い方するんですね。喧嘩って……ふふ」

「私は真面目に言ってるの。梅ちゃん、何があったの?」

「ごめんなさい。へへ……心配してもらえて嬉しいです」


 眉間を歪ませて瞳を潤ませている先輩。目が大きいから潤んでいるのが分かりやすい。

 鍵盤に蓋をかぶせてあたしはさっさと帰り支度をする。空気を読むのが得意ではないあたしだって、さすがに先輩の悪い噂を本人へ伝えることはできない。


 確かに真偽を知りたい気持ちはある。どれが本当なのか、どれが嘘なのか。

 だけど目の前の先輩は泣きそうなくらいに、優しい。あたしにはとても、悪い人には見えない。


「心配するに決まってる。補習授業が終わって帰ろうとしたら……梅ちゃんの乱暴なピアノが聞こえてきたから」

「それでわざわざ」

「わざわざ、って……」


 先輩は口を尖らせて、軽く頬を膨らませる。貴重な表情にあたしの顔が熱を帯びていった。

 噂は気にしないことにしよう。あたしは先輩が好きで、先輩はただ優しい。それは明日も明後日も変わらない事実だ。今はもうそれだけで十分じゃないか。


 あたしはつやつやと光る蓋を撫でた。八つ当たりなんかして悪かったな、と。また明日から、どうか一緒に曲を奏でてほしい。


「っていうか、ピアノの音ってそんなに響くんですね」

「そうだね。夏休みは生徒も少ないから、音も通りやすいのかもね」


 桜田先輩はおもむろに音楽室の窓を開ける。知らぬ間に雨は止んで、ちょうど目の前にソフトクリームみたいな入道雲が浮かんでいた。


 この前コンビニへ立ち寄ったら『ソフトクリームはじめました!』というポップが貼ってあったことを思いだした。ワッフルコーンの上に柔らかいミルクソフトをその場で乗っけてくれる。注文している人を横目で見て、次は絶対食べようと思っていたんだった。


 隣に立つ先輩に視線を移すと、やっぱりいつも通りその黒い髪の毛が夏風にさらさらと揺れていた。ただ、目に痛いほどのブルーとは相容れないような憂い顔だった。先輩は隣にあたしが立っていることを忘れてしまっているようだ。


 あたしは隣に立っている。それを少しだけ意識してほしくて、さらさら揺れる中にそっと人差し指の先を割り込ませる。割り込むといっても、水の表面に波紋ができるかできないかの強さで触れるくらい。


「……ん?」

「先輩、元気がなさそうです」

「……さっきまでピアノにいじわるしてた人に言われたくないな」

「今は先輩が一番いじわるですよう。そんな言い方しないでください」

「梅ちゃんって分かりやすいのか、分かりにくいのかよく分かんないな」


 先輩の眉尻が少しだけ下がった。それを見てピアノにいじわるをしたことは、どうやら先輩に許してもらえたようだと安堵する。


「ねえ桜田先輩。これからコンビニ行ってソフトクリーム食べませんか?」

「……梅ちゃん、あの雲見てそう思ったでしょ?」


 先輩は小さな桜色の爪をつんと空へ向けて、入道雲、あたしの順番に視線を移していく。仕方がないなあ、と言いながら先輩は上のまつ毛と下のまつ毛をゆっくりと重ね合わせる。ふわふわで柔らかそうなまつ毛。それが分かるくらいの近さにいることに気づくと、心拍数がぐんと上がった。


 あたしと先輩は校舎の外に出た。もわっとした熱気にふたり揃って丸めた紙みたいに顔をくしゃっとさせると、お互いにその顔を見て笑ってしまった。先輩の方が先に笑ったので、やっぱり先輩は笑いのツボが浅い人だ。


 体育館の横を通るとバスケットボールが乱暴に床を叩く音がした。その後すぐに空気を思いきり裂くような声で梨沙子の名前が呼ばれているのを聞くと、多分、梨沙子もあたしと一緒だと思った。


 明日謝ろう。だけどどう謝ればいいのか分からない。梨沙子が今日と同じことを言うのなら、あたしも同じことを言い返すと思うから。そうしたらきっとまたお互いに物言わぬ相手に当たり散らすんだろう。

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