第2話
浴室の大きな鏡に映る自分の肢体を見るのが辛かった。惨め。汚い。哀れ。表現する言葉は多々あるがポジティブな表現は思いつかない。
なぜ自分ばかりこんな目に合わなければいけないのか。
リビングから私を呼ぶ声がする。娘だ。こんな私を母親だと思いこんでいるのだから、この子も哀れだ。私がこの子なら、自らの出自を呪うだろう。
スーパーで買ってきた惣菜を、テーブルに並べる。以前は皿に並べていたが、洗い物が増えるだけで意味がないと気が付いた。
「おいしい?」
私が作ったものよりも美味しそうに食べている娘を、私はどうするべきなのだろう。こんな小さな頃から味覚がそのスーパーの味に最適化させてしまった私の責任は重い。
その時、アパートの鉄階段の登る音が響いた。夜なのに静かに歩く配慮が感じられない音。
娘の身体が硬直する。さっきまで笑っていた顔から表情が消える。
入り口の扉の鍵を乱暴にガチャガチャと開けようとする音で我にかえる。
しまった。私は急いで立ち上がり、玄関に向かう。だが遅かった。私が鍵を開ける前に、扉が開いてしまった。
目が合った。とっさに目をそらしてしまった。彼は私のこの行動をどう感じただろう。うまくやろうと思うほど、身体が言う事を聞かない。
「おかえりなさい。」
部屋の空気の濃度が急に薄くなった。呼吸をしても酸素が取り込めない。しかし、そんな言い訳は通じない。全ての意識を喉に集中して出せた声は、一言だけだった。
返事は無かった。無言で靴を脱ぎ、部屋の奥を一瞥して舌打ちわする。
彼の言いたい事はわかる。食事が気に入らないのだ。俺が外で働いて帰ってきたのに、なぜスーパーの惣菜なんかを食べなきゃいけないのかと言いたいのだ。
「ごめんなさい。間に合わなくて。」
指摘される前に言い訳をしようとするが、かすれた声しか出なかった。
ニッカポッカの裾が擦れる音だけが部屋の中で異常な存在感を示す。
娘の向かいに座り、リモコンでテレビの電源を点けて、携帯電話の画面を見ながら黙って食事をする。まるでこの部屋に彼以外の人なんて誰もいない様に。
「あっ。」
緊張に耐えかねて力がうまく入らなかったのか、娘がコップに入っているお茶をこぼしてしまった。
自分のやってしまった事を最大限に後悔している表情をしていた。
お茶がテーブルの上をゆっくりと流れ、真ん中に置いてある惣菜のパックにふれる。
携帯電話に注視していた視線を上に向ける。右手に持っていた箸をテーブルに叩きつけて、立ち上がると、娘に向かってゆっくりと歩く。
距離にして1m。数歩を歩く時間が途方もなく長く感じられた。
娘の前に立った彼は、子供用の椅子に座っていた彼女の腕を掴み持ち上げ、部屋の隅に投げた。
娘は彼をこれ以上刺激しない様に、部屋の隅で丸まり、両手で口を抑えて声をださない様に泣いていた。
その声が耳についたのか、彼は追い打ちをかける様に娘に近づく。
私は玄関から見ている事しかできなかった。
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