捨て駒姫の悲詩(リサー)

 だが、いつまでもぐずぐずしていては誰かに見つかるかもしれない。遂に意を決したシエナは、セシルに教えられた扉を開けた。

 

 おそるおそるその先を覗くと、戦場とは一線を画した静寂に、なぜかぶるりと全身が震えた。冷たく肌に染みる風が、なぜ誰にも言わずにここに来たのかと彼女を責め立てているかのようだ。シエナは無意識のうちに両手で自らの腕を抱きしめていた。 


 セシルの言っていたアレスの騎士は、と辺りを見渡すが、庭園と思しき場所には草の影が揺れるばかりで、それらしき人影はない。もう少し待っていれば、誰か来るのだろうか。


 彼女がおそるおそる周囲を見回しながら歩き出した時、ガサリと茂みの向こうから誰かの足音が聞こえた。何となく嫌な予感がしてそちらを見やると、いつのまにか目の前には大きな影が佇んでいた。

 

「……っ! あなたは―」

 

 はっと顔を上げると、威圧感を纏った男と目が合った。その険しい顔に、彼女は見覚えがあった。王国で幾度も目にした銀色の甲冑に、騎士団の赤いマント。男が鳶色の長髪を揺らしながらこちらを振り向くと、鋭い灰紫の瞳と目が合った。途端に、射すくめられたように動けなくなる。なぜか、頭の中で警鐘が鳴っている。これ以上は危険だ、と。

 

 彼女に向けられているのは、紛れもない敵意だった。獅子も怯むような厳しい眼差しを向けられ、シエナはがくがくと崩れ落ちそうな膝を必死に伸ばした。そうして、彼の名前を思い出そうとするよりも先に、男の方が口を開いた。

 

「シャンマールの女か。見たところ戦士ではないようだが……。」

 

 おそらくはシエナが身に纏う異国の衣装を見て言っているのだろう。彼女は慌てて誤解を解くべく、名乗りを上げた。

 

「私はシエナ。シエナ・ヴェルレーヌ。アレス王国第十三王女よ。もしかして私を助けに―」

「蛮族も知恵をつけたな。殿下の名を騙る不届き者め。」

「……え?」

 

 何を言っているのだろう。彼女は惚けたようにその場に立ち尽くした。その間にも、男は付着した血を落とすようにさっと剣を振るうと、あたかも今から何かを斬るかのように柄へ両手を添えた。

 

「生かしておいて、後々復讐を企てられたら面倒だ。今ここで始末しておこう。」

「―っ!」

 

 いつのまにか、その剣先はシエナの頭上まで高々と掲げられ、今にも彼女目掛けて振り下ろそうと構えられていた。彼女は慌てふためき、懸命に説明しようとまくし立てた。

 

「―ひっ!  違う、私は本当にアレス人なの。ここに捕らわれてて、それで―」

「貴様が誰かなど、どうでもいい。」

「……なんですって?」

 

 耳を疑う。まるで恐ろしい悪夢のような光景に、彼女は呼吸も忘れて戦慄した。男はシエナの言葉などまるで必要としていないかのように、冷酷に言い放った。

 

「ここに居る者は誰であろうと全て殺せ―というのが、陛下のご命令だ。」

「―っ?!」

 

 その瞬間、彼女は悟った。やはり自分は捨て駒だ。いや、それ以下の存在なのだ―と。邪魔になったからすぐにでも切り捨てる。そう言われているようだった。それでも何かの間違いだと思いたいあまり、シエナは掠れそうな声を張り上げて必死に叫んだ。

 

「違う、やめて。私はシエナ!  陛下の娘なの。信じて! 殺さないで!」

「恨むなら、時世を恨むといい。」

 

 冷徹な宣告とともに、振りかぶる剣身が月の光を受けてキラリと光る。それを見ながら、シエナはがくがくと震えたまま一歩も動けずにいた。声にならない悲鳴が喉の奥で引っかかっている。こんな最期を迎えるとは、誰が想像しただろうか。

 

(―誰か、助けて!)

 

 目を瞑ることすら忘れ、コマ送りのようにゆっくりと剣が振り下ろされていくのを目で追う。彼女の肌を、今にも剣が切り裂こうとせんばかりに迫る。遂に死を覚悟した刹那。シエナの元に影が落ち、唐突に視界が暗くなった。

 

「―やめろっ!」

 

 キンッ、と何かを力強く弾き返すような鳴動が間近で響く。咄嗟に、すぐ前を何者かが立ちはだかったのだと直感した。

 

「え……?」

 

 その人物はシエナに背を向けたまま、先程の男と対峙していた。その表情は見えないものの、確かな正義に突き動かされて立ち向かっているように見受けられる。彼女が驚く暇もなく、聞き馴染みのある真摯な声が耳に飛び込んできた。

 

「姫様。今のうちに早くお逃げ下さい!」

「……リュシアン?」

 

 助かった、と思うと同時に全身から力が抜ける。そのままシエナはへなへなと地面に崩れ落ちた。リュシアンが無事であった喜びよりも、今は恐怖と驚愕で彼女の頭は埋め尽くされていた。

 護衛騎士は背を向けたまま、厳しい口調で男を問い詰めた。

 

「……兄上。どういうことですか? その方は確かにシエナ殿下です。何か勘違いされているようですが、今すぐおやめ下さい。不敬罪どころでは済みません。」

「そこをどけ。」

「どきません。なぜ、姫様に剣を向けるのですか!」

 

 シエナを斬ろうとした男―王立騎士団長アルヴィンは、なおも剣を交差させたまま、自らの剣を防いでいる弟に厳しい視線を注いだ。

 

「これは陛下のご意向なのだ。」

「……姫様を殺すことが、ですか?」

 

 理解できない、とリュシアンが唸るように低く問い質す。

 シエナはアルヴィンの凍てつくような眼光を見上げるだけで、再び震えが止まらなくなりそうだった。早く逃げ出したいのに、今の彼女は腰が抜けてしまい、立つことすら叶わない。

 

「ここにいる者は王女を語るものであろうと構わん。殺せ、とな。」

「なぜ?  この方は本当に―」

 

 心臓がばくばくとうるさく弾む。その先に続く言葉を聞きたくないのに、無情にも彼女の耳にははっきりと聞こえた。

 

「『王女殿下は奪われ、殺された。我らは復讐のため、蛮族に立ち向かう。』」

 

 つまり、戦の口実にシエナを殺そうというわけだ。それを耳にしたリュシアンは息を呑むと、やがて確かな覚悟を決めたように剣を握り直した。彼の精悍な顔は静かな怒りで満ちていた。

 

「それが……陛下の書いたシナリオか。」

「わかったなら、そこをどけ。」

 

 だが、騎士は王女を庇うように立ちはだかったままだ。あるじへの誓いを全うするため―それが兄である団長だろうと、国王であろうと、何人たりとも邪魔はさせぬと、彼は全てを賭けた決意を全身にみなぎらせていた。

 

「いくら命令と言えど、俺は従えません。俺は姫様の護衛騎士です。」

「……なんだと?」

 

 アルヴィンは信じられないとでも言いたげに、鋭い目を見張った。だが、弟が少しも譲りつもりがないとわかると、途端にこちらの身がすくむほどの激しい叱責を飛ばした。

 

「―貴様! 王女殿下の護衛騎士なんぞに選ばれて自惚れよったか。我々が仕えるお方は誰だ? 陛下だろう。それを勘違いしてどうする。」

「……っ。」

 

 リュシアンは何も答えない。カチャリ、と彼の剣が代わりに答えるかのように小刻みに震えるのを見て、騎士団長は畳み掛けるように告げた。

 

「これが最後の警告だ。そこをどけ。どかぬなら……わかっているだろうな?」

「……。」

 

 だが、もはや叱責も脅しも通用しないと悟ったのだろう。口を噤んだまま一歩も動かないリュシアンを見て、アルヴィンは薄く笑うように評した。

 

「なるほど。それが貴様なりの正義というやつか。」

「はい。俺の正義は姫様を命にかけてもお守りすることです。」

 

 互いに相容れないことを感じ取った両者の間には、一触即発の緊張が走る。

 やがて、アルヴィンは仲違いを惜しむかのように大きく息を吐いた。

 

「そうか。お前とは戦いたくなかったが致し方ない。……弟が間違えたなら、正すのは兄の役目だ。」

 

 一方のリュシアンは毅然とした態度を崩さない。たとえこの先の自分がどうなろうと、まるで気にも留めていないようだ。彼はただ背後にいるあるじを守ることだけに心血を注いでいた。

 

「俺は間違いなどとは思っておりません。」

「それ以上戯言を申すな。……次は本気で討つ。あとは……お前の剣に聞いてやる!」

 

 静寂を打ち破る怒声。が早いか、アルヴィンは弟に向かって大きく剣を打ち下ろしていた。カキンと鳴り響く耳障りな金属音に、辺りの空気までもが一斉にビリビリと震えるようだ。シエナは腰が抜けたまま、ただ茫然とその様子を見守ることしか出来なかった。

 

(な……何が起こっているの? どういうことなの?)

 

「ふんっ!」

 

 アルヴィンの剣筋は一見大振りで隙が多いように見えるが、迅速かつ的確に相手の急所を狙っている。力強く振り落とされる剣を受け止めるリュシアンは、防戦一方だ。

 

「……くっ。はあっ!」

 

 それでも力一杯押し返し形勢逆転を狙う彼は、斜め、横、とあらゆる方向からの斬撃を試みる。しかしながら、既に読まれているのかあっけなく相手に叩き落とされ、じわじわと後退していた。

 

「どうした!  貴様の覚悟はその程度か!」

「なぜ兄上は……このような真似を。それが本当に陛下のお望みなのですか?」

 

 彼が声を張り上げ問いかけるのは、決して時間稼ぎのためではない。リュシアンは心のどこかで兄である団長を信頼していたからこそ、どこか裏切られたような気になっていた。

 

「私が陛下の命令に背くはずがなかろう!」

「なっ……!  いくら陛下でも、そんな横暴が許されていいはずがない!」

 

 まだ迷いがあった騎士は兄の思惑がわかると、遂に決意を固めたのか再び斬りかかった。

 

「―はあああああああ!」

「ふん、甘い! うおおおおおおお!」

 

 しかし、真っ直ぐな一撃は子供の戯れかと思うほどあっけなく受け流され、すかさず風を斬るような重たい一振りが彼を襲う。反射的に受け止めた剣を持つ手は、鈍く痺れた。

 

「―ぐっ!」

 

 かつて兄弟として、また同じ騎士団として長い時間を共に過ごしたはずの二人は、かくして異国の地で剣を交えていた。―それぞれが持つ正義を貫き通すために。

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