アレス武勇詩(ハマーサ) ~捨て駒姫は自由に焦がれる~
桜井苑香
Ⅰ. アレス賞賛詩(マディーフ)
十三人目の捨て駒姫
――“捨て駒姫”。あるいは、“忘れられた十三人目の王女”。アレス王国の人々は彼女のことをそう呼ぶ。
と言っても、顔はおろか年齢も伏せられた謎の姫君の実態は誰も知るよしもない。その存在はいつしか想像が想像を呼び、「怪物のように醜い容姿だから、人前に出せないため幽閉された」だの、「精神を患い半狂乱となったため追放された」だの、尾ひれに加えて背びれに胸びれまでつき、あげくの果てには忘れられていった。
実際のところは、十歳くらいの頃に軽い発疹が出たとか、思春期初頭によくある病にかかって「私、実は物語の生まれ変わりなの!」とかのたまっただけなのだが。あれは今思い返してもなかったな、と当時を思い返して本人――アレス王国第十三王女、シエナ・ヴェルレーヌは思う。
「――なんで今更なのかしら?」
腕を組み、苛立ち混じりに室内を歩き回る一人の少女。歳の頃は二十歳くらいだろうか。質素なモスグリーンのドレスに身を包んではいるが、どことなく気品にあふれ、彼女が高貴な血筋であるのが伺える。猫のように丸く釣りぎみな目は、青で縁どられた美しい緑で、海に浮かぶ孤島を思わせる。彼女が歩む度にさらり、と繊細なプラチナブロンドが背中を流れた。
「さあ。俺には何とも……」
そんな彼女を見守るのは、騎士と思しき二十代半ばごろの青年だ。黒を基調としたシンプルな服に身を包んでいても、逞しく鍛えられた身体がわかる。灰がかかった紫の鋭い目に、きりりとした精悍な顔立ち、そして日に焼けたとび色の短髪。ぱっと見は怖そうだが、シエナを見つめる優しい目つきからはまじめで誠実なことがうかがえる。
「あなたもお気の毒よね、リュシアン。せっかく王立騎士団に入ったって言うのに。お兄様と同等……いえ、それを超えんばかりの才能の持ち主だ、って言われてたみたいじゃない。そんな逸材が、どうしてこんな辺鄙なド田舎に来てしまったのかしらね?」
「……姫様。お言葉ですが、俺は貴女に仕えることができて幸せです」
なおも不満を口にしようとしていた少女――シエナは、護衛騎士であるリュシアン・ブラッドリーの意外な言葉に思ってもみなかったようだった。間抜けにも口をあんぐりと開けて、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクさせている。
「……え?」
「わが剣は貴女のもの。王国を出ていく前に誓ったこの気持ちに、嘘偽りはありません。俺は命に代えても姫様を――」
「うわあああああ! ちょっと、改めて言われると恥ずかしいからやめなさいよ!」
そして、思い出す。今は記憶もおぼろげなあの王宮の離れの一室で、年端もいかない小娘だった彼女に跪き、手を取られて、まるで一人前のレディのように扱われたことを。
あの瞬間、初めて自分のことを見つめてくれる人ができたような錯覚を覚えて、心が震えたものだ。リュシアンの肩に置かれた剣が夕焼けに反射してキラキラと光っていたのも、手の甲に感じた彼の額の感触も、今でも脳裏を辿ればまざまざとよみがえってくるようで、シエナは懐かしいような、何とも名状しがたい気持ちになる。
しかし、そこで彼女は首を振って余計な回想を振り切ると、改めて卓上に広がる苛立ちの原因を睨んだ。赤い蜜蠟で封された手紙に描かれた薔薇と獅子の紋様は、どう見ても一応の生家――王家のものだ。ここ数年、この模様は目にしたこともなかった。この屋敷の門だって、扉だって、オブジェだってタペストリーだって、そんなものはただの一つもない。ここは表向きは王族の療養地となっているが、もとは築百年と言われる辺境伯の屋敷だった。それゆえ、ここに彼女がいることはほとんど誰も知らないのではなかろうか。
「『王都に戻るように。三日後に迎えの馬車をよこす』って……たったそれだけ?」
もう何度読み返したかもわからない文面をもう一度声に出してみるが、無味乾燥な印象はどうあっても覆りそうにない。
確かに、アレス国王には十三人もの姫、王子も加えれば三十人近くの子供がいる。が、だからと言って五年ぶりに再会する第十三王女への扱いが雑になって良い理由にはならない。
「陛下は、お忙しい方ですから……」
リュシアンがもっともらしい理由を述べたところで、シエナの苛立ちは収まるはずもなかった。
「これだって代筆じゃない! 別に用件くらい書いてあったっていいのに――」
と言いかけて、ある可能性を思い返しはっとする。
アレス王国では十六歳でデビュタントを迎える。王宮主催で社交界デビューを祝うために、国中の貴族の娘たちが集められるのだ。腐っても王女なのだから、大々的にお披露目されてもいいものだが、あいにく当時のシエナは療養と称してすでにこの地へ厄介払いされていた。
「遅くなったけどデビュタント、とかかしら? ううん、まさかね……」
先ほどから脳内に浮かんではいるが、決して口にしたくない一つの可能性がある。しかし空気の読めない護衛騎士は淡々と、見聞した知識を何食わぬ顔で披露してみせた。
「先日、第十二王女殿下がロゼラムの第二王子とご婚約されたそうですが、もしかすると姫様も――」
「やめて。それ以上は口にしないで」
「っ? も、申し訳ありません……」
思えば、シエナの下は王子しか生まれていない。年頃の未婚の王女はもはや自分ただ一人だけ。一度は捨てておきながら、都合が悪くなったら呼び戻すのか、と思うと王女は辟易した。
「な~んで顔も知らない男と、愛もへったくれもない結婚なんて……。捨て駒なら、そのまま放っておいてくれればいいのに……」
護衛騎士は面白味には欠けるところもあるが忠実だし、侍女だってたった一人でもうまくやってくれているのだから、もはや贅沢は言うまい。強いて言うなら、一年前に王都からやってきた教育係だけは、唯一熨斗をつけて送り返したい所存だが。
「姫様、お茶をお持ちいたしましたわ」
ちょうどその時、こんこん、と小気味良いノックの音が聞こえる。扉から顔を出したのは、くりくりと大きな丸い碧眼に、ふわふわとした淡い金髪が愛らしい侍女だ。まだあどけない顔をきりりと引き締めて一礼すると、か細い手でワゴンを押してくる。その人形のような容貌は、侍女と言うよりはドレスを纏ってカップを傾けている方がしっくりきそうだ。
「あら、ありがとうミレイユ。あとはこっちでやるから、適当に置いておいて頂戴」
「いえ、姫様の手を煩わせるわけにはまいりませんから!」
ミレイユと呼ばれた侍女は、ゆっくりとワゴンに載った茶器を押さえながら進んでくるが、どうにも危なっかしい。
「俺がやろう」
見かねたリュシアンがワゴンに手を添えると、せめてお茶だけは自らの手で淹れようと、彼女は白磁のポットに小さな手を伸ばした。
「良い匂いがするわね」
鼻孔をくすぐるのは華やかな花の香り。薔薇の描かれた皿に鎮座するのは、こんがりと香ばしい焼き菓子だ。溝の付いたような特徴的な形状をしている。
「こちらはカヌレ・ド・ボルドーでございます」
王族のティータイムと聞いて想像されるような、幾段にも積み重なった豪華なセットでこそないが、シエナにとっては十分すぎるほどだ。あとは、話し相手になるような人物がいれば言うことは無いのだが、と目配せしても応えてくれる者は残念ながらどこにもいない。
「美味しそうね。二人とも、よかったら一緒にいかが?」
「俺は主人と同じテーブルに着くわけにはまいりませんので」
「わたくしも、姫様とご一緒だなんて畏れ多くて……」
変なところで格式張られると、嫌でも自分の境遇を思い起こさせる。本来なら、王宮で幾人もの使用人に囲まれていてもおかしくはないのだ。だが、ここではそういうわけではないのに、と思ってもやはり腐っても姫。自分がいいのだから、と言っても決して周囲に聞き入れてもらえたためしはないのである。
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