アレス賞賛詩(マディーフ)


「……はあ。今日も美味しいお茶とお菓子を一人で楽しむのかしら」


 そうシエナが嘆息した瞬間。タイミングよく、ノックの音が響いた。幸か不幸か、誰でもいいから付き合ってくれ、と願ってしまった自分を彼女は一瞬で後悔した。このノックの仕方には覚えがある。おそらくこの屋敷の中で最も年数が浅く、それでいてこの場の誰よりも自分を「姫」らしく仕立てようとしてくる者。


 そう考えている途中でも、彼女の返事はまるで必要としていないと言わんばかりに、勢いよくドアが開いた。


「殿下~! 午後の授業の時間なんですがっ」


 予想はしていたものの、今一番目にしたくない相手の姿を認めて、思わずげっ、とヒキガエルが踏み潰されたような声が出る。


「さあ、王都に帰るまでに立派なレディになりましょう!」

「別になるつもりはないから」


 冷たく言い放つと、青年はしゅん、といかにも意気消沈したかのように肩を落とす。


「ええ~……そんなつれないことは仰らないで下さいよお。離れて暮らす殿下をちゃんとレディにしないと、僕の立場がないんです! あ~あ、きっと給料カットだろうなあ。」

「…………」


 懇願する青年こそが件の教育係。シエナが最も苦手な相手である。アーモンドのようにくりっとした空色の目は優しげで、少し癖のあるダークブロンドは、男性にしては小さめな身長も相まってただの子犬に見える。青年、と呼ぶにはいささか不似合いだが、実年齢が外見に釣り合っていないだけだろう。どことなく愛らしい、という表現も似合ってしまう青年だ。困ったような眉に大きな目は童顔に見えるが、実際は30手前くらいだろう。どことなく年齢不詳感が出ている。


「あっ、オルコット卿! す、すぐにお茶のご用意をいたしますわ」


 頬を赤く染めたミレイユがポットを持ち上げると、青年―セシル・オルコットはありがとう、と微笑した。それを目にした瞬間、初心な侍女はぱっと目を伏せて震える手元をひた隠す。その光景を目撃して何かを察したシエナは、


「あ~……あれは……」

「? どうかいたしましたか?」


 リュシアンに目配せしようとして、どうせこの堅物男にその意味がわかるわけはないだろうとあきらめて思いとどまった。


「で、ではわたくしはこれで! 失礼いたします」


 慌てふためいたミレイユはいそいそと退室していくが、その原因たる姫の教育係は何食わぬ顔でどさどさと大量の本を机の上に積み上げている。これは、この男も傍らの騎士のように鈍いのか、それともわざと気付かないふりをしているのか……と姫が呆れかえっていると、セシルは人懐っこい笑顔で地図を広げ始めた。


「では、始めましょうか」


 こうなってしまえば、いくら抵抗しようと無駄なのはわかっているので、適当に右から左へと流してしまえばいい。どうせ目新しい知識はないのだから、とシエナはめんどくさそうにあくびをする。


「明日はもう王都に行くんだし、今更間に合わないんじゃない?」


 セシルの言う「レディ」の基準がどれほどのものかはわからないが、少なくともここに来たての頃にはそれはもう早く戻りたくて、自主的に熱心に学んでいたのだ。


「ええ、その前に改めて我が国の歴史をおさらいしておきましょう。それから馬車の通るであろう町々や、今噂になっている隣国との緊張関係などを学びましょうね」

「はいはい。まあ、勝手にすれば……」


 こうして、使命感に燃える教育係による授業が始まった。





 ――我々が暮らす大陸のうち、西に位置するのは、西洋と呼ばれる列強の国々。中でも一大勢力として名高いのは、南から東にかけて領土を広げる大国、アレス王国である。

 優雅で豪華絢爛な王城を構える首都フェリドール。そこでは代々王政が敷かれ、貴族たちが諸地方を治める。とりわけ、王国騎士団の一線を画した強さに諸国は震え上がった。そう、ただ一国を除いては。

 東方の国、アル・シャンマール。広大な砂漠のオアシスから生まれた首都ハイヤートは、交易の中心地として栄える。軍勢は少数精鋭ながら、武器も多種多様。火矢や毒、煙幕など、勝つためなら手段を選ばない。それゆえ蛮族と恐れられながらも、砂漠に眠る豊かな資源を守り抜こうと、過去にはアレス王国と熾烈な争いを繰り広げてきた。

 少々難儀な国ではあるが、西洋統一、そしてアレスの人々がより豊かになる為には外せない領土である。我々はこの長きに渡る戦争に勝利し、アル・シャンマールを手中に収めなければならない。すべては、アレス国王のために。




「――であるからして、我が国とこのシャンマールは現在、緊張状態にあります。ですから、国境に近いこのシルティグアイムは特に注意を……」

「アレス国王、ねえ……」


 歴史書を読む度に、彼女はいつも思う。最も身近なはずの存在が1番遠くにいる矛盾を。


「……って、殿下。シエナ殿下、聞いていらっしゃいますか?!」


 素知らぬ顔をしていると、間抜けにも悲痛な叫びを漏らすセシルが少々可哀想になってきたのか、彼女はようやく向き直った。


「あ~、うん聞いてる。聞いてるわよ」

「アル・シャンマールは野蛮な民族です。積年の因縁から、アレス人が万が一にも捕まってしまえば、目を覆うような悲惨な結果が待っています。一瞬で死ねれば御の字、生きていれば最悪手足をもがれて慰み者にされるでしょう」


 聞けば聞くほど野蛮な民族だと言うアル・シャンマール。それほどまでに野蛮なら一切関わらない方がいいと思うのだが、そうは問屋が卸さないらしい。他の隣国とは和平条約を締結してしまった今、残るは某国というわけだ。


 のちに大きく運命が変わることになるその国を、今のシエナは全く気にも留めずにいたのだった。

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