4-5
誰が……?
須見は、いったい何を言っている?
ぴたりと閉ざされてしまった扉を前に、喬之介は動けずにいた。
当然の如く鍵などは掛かっていない。部屋の外へ出るのは、ドアハンドルに手を掛けるだけで事足りるというのに、喬之介は指ひとつ動かすことが出来ないのだった。
扉を開けたら、深く黯い奈落があるとでもいうように。あるいは上った先には出入り口など無く、足を離す傍から足場が消え、飛び降りるしかない階段の最初に足を掛けているような。
追いかけて問い質せ、と思う一方でそんな事をしてどうなる、と囁く声が聞こえる。
ほら、もう気づいているんだろう?
瞼の裏に、あの日の鈍色の空と黄味がかった灰色の海の上、険しい白波が見えた。
ドミノの最初の駒が、傾き倒れようとしているのを感じる。運命に人は決して抗えない。喬之介は、為す術もなくそれを眺めるしかないのだ。
次のクライエントを待たせているのは分かっていた。
それと分かっていてデスクへと引き返した喬之介は、パソコン上に、須見がこれまでに作った箱庭の画像を呼び出し並べる。
右側を外界、左側を内界とする見方が一般的なのだが、須見の場合、左右の反転が見られることがやはり気になった。
子供の頃から、勘が良かった須見。
家に架かってくる電話を、当てることが出来た。電話を掛けて来る他者と母親の共時性を、深層意識を介して須見が受け取っていたものだとするのならば……。
今の須見は、集合的無意識(人類全体で共有される普遍性の高い無意識領域)を介して、個人的無意識にアクセスすることが可能であると思われる。つまり、須見の脳内に流れ込んで来る映像は、知らず深層意識で繋がった他人の過去であり未来であると、充分に考え得るのではないだろうか。
そして……。
喬之介は振り返り、窓に映る自身を見た。
眉間に皺を寄せ右手で額を擦る自分。
窓に映る喬之介は、左手で額を擦っている。
だが実際には左右が逆になっているのは鏡の中の像ではなく、頭の中で回転移動した自分の方なのである。
目を閉じ、握りしめた手で額を何度となく繰り返し叩いた。
再び、パソコンの画面の方を向く。
須見の箱庭が、彼自身のものだけでなく、深層意識で繋がったことで視えた誰かの内界に引っ張られるようにして表現されていたのだとするなら、その誰かとは。
額を叩く手が止まる。そのまま深くデスクに埋まるように頭を垂らす。
――喬之介、だ。
自分のほかに誰がいるというのだ?
皆が帰り、静まり返ったクリニックの中で喬之介は、再びパソコンの画面上にある須見の箱庭と対峙していた。
その後、どうやって一日の診察や面談を終えたのか、喬之介はあまり良く覚えていない。クライエントに向かってもう一人の自分が喋り、頷き、促すのを喬之介は、袋に開けた穴の内側から覗き見ているだけの一日だった。
喬之介は、デスクに座りパソコンを前にして、失笑を漏らさずにいられなかった。
箱庭という作品は、治療者とクライエントの共同作品だと言われる。
果たして、これほどまでの共同作品があるだろうか。
『この村に、夏はありません』
須見の声が、蘇る。
夏がないのは、言うまでもない。
喬之介が自身でさえも見ることが叶わないほど固く、閉ざしてしまった中に、夏はあるのだから。
喬之介は、パソコンの画面に目を向けた。
須見の箱庭。須見と喬之介の、箱庭。
改めて画面を通して見ると、生々しさは心持ち薄れ、冷静に見返すことが出来るような気がした。
椅子の背凭れに、身体を預ける。
この中には、須見の内界に混じって喬之介の内界が映し出されているのだ。
三回目の箱庭を眺める。
白い真綿で出来た雪に覆われた、世界。
森から現れた狼。
雪によって区画や領域が曖昧になったことで現れた狼は、それまで森という形で表されたていた踏み込むことの出来ない喬之介の深層部に、隠れ潜んでいた須見の意識ではないのだろうか。
鶏を食べたのは、単に空腹を満たすためだったと須見が言って退ける狼は、高潔な生き物であると同時に、欲望に忠実で、恐ろしいものの象徴でもある。
狼が村に出てきたことで、箱庭は大きく様相を変化させて見せた。
またこの中で、須見が視えないと言った、一度として姿を現さない人が住むとされる茅葺き屋根の家は左にあるが、喬之介の内界を元に創られた箱庭であるとして左右の反転を考慮に入れた場合、本来であるなら右側、外へ向かって開かれるべき位置に、固く閉ざされた茅葺き屋根の家があることになる。
つまり、困難な問題から本能的に固く閉ざしてしまった過去を表しているのが、茅葺き屋根の家と見てよいだろう。
その茅葺き屋根に住む姿を現さない人物。
喬之介が目を背けている物事。
夏がない箱庭。
あの嵐の夜の出来事が、喬之介に重く伸し掛かっているのは事実である。
茅葺き屋根の家は、あの日、嵐の夜に喬之介が見てしまった出来事だ。
子守人形は、須見であり喬之介だ。
母親、父親、祖父母。
姿を見せない住人として箱庭の中にあってさえ、どのような形もとらず目を逸らし続けていた人物とは、誰かなんて考えずとも既に分かりきっている。あの日、家の中で争う三人のうちの一人ではあって欲しくないと喬之介が願う人。
……高秋、だ。
あの日、全てを失わせた火事の後、その夜のうちに喬之介の居る病院へ姿を現した。
こんなにも早く高秋はどうやって、どこで知ったのだろうと折に触れ不思議に思うこともあったが、喬之介は考えたくなかった、考えようともしなかったのだ。
……考えたら駄目だと分かっていた。
砂の城が脆く崩れるように、触れたら全てが壊れてると分かっていた。
どうやっても何も、初めから高秋は知っていたのだ。
同じ家の中に、居たのだから。
日常に非日常を運んで来る、渡り鳥のような高秋。おそらく、海辺の小さな町に閉じ込められてしまった喬之介の母親にとって、いつしか、その存在は慰めになっていたのではないだろうか。
たが春を運ぶ燕が夏を過ぎて姿を消してしまうように、高秋は姿を消してしまった。
それなのに何故あの嵐の夜、前触れもなく高秋は家へ訪れたというのだろう。
それをいうなら父親もまた、そうだ。
予告なくして現れた二人。
不意を突いて、驚かせ喜ばせようとしていたとは思えない。
何を
喬之介は、その理由に思い至った。
生まれたばかりの、幼い妹。
その暫く前から足が遠のいていた、高秋。
喬之介と九つも歳が離れた、茅花。
親子と間違われるほど良く似た二人。
導き出される答えは、ひとつ。
茅花は高秋の子供なのではないだろうか。
喬之介と同じように父親は、訝しんでいたのではないか。高秋の視線の意味に気づいてからずっと、喬之介の母親と高秋の二人が、自分の知らないところで愛し合っていると疑っていたに違いない。だからこそ、不意を突いて帰宅したのかもしれないと考えて良さそうだった。自分が単身赴任先から嵐の日に帰ることはないだろうと考えた高秋が、もしかしたらこの機会を逃すまいと家に来るのではないかと疑い、結果その通りになる。
つまりは、偶然。
非常に大きな意味を持つ巡り合わせとなる偶然にしてはあまりにも意味の深い偶然が、こうしてここにもまた、ひとつ。
運命という名を伴って現れたのだ。
高秋もまた、同じように嵐の夜に喬之介の父親が帰って来ている筈もないとして、家に来たのだろう。
……だが、連絡もせずに?
父親からの連絡がない理由は分かるが、高秋から連絡を寄越さないのは変だ。
だとするなら、足が遠いていたのは喬之介の母親に拒絶されていた為に、それまで来ることが出来なくなっていたのだとするのが順当ではないだろうか。
となれば高秋の方は、嵐を理由に喬之介の母親が素気無く追い払えないと踏んで、わざわざこの日を選んで訪れたと考えられる。
であるならば……。
首を絞めていたのは、父親と高秋、二人のどちらなのか。
ここまで来て、喬之介の考えは行き詰まってしまう。
何故、母親は首を絞められていたのか。
母親の首を絞めていたのが仮に嫉妬に狂った父親だとするなら、良くも悪くもどうしてあの日の夜だったのだろう。
帰宅して高秋と一緒のところを見て、カッと頭に血が上ったというのか。
しかし、父親が帰宅したとき家には喬之介と母親と茅花の三人しか居なかった。後から来たのは高秋の方だ。
だとしたら?
高秋は嵐に紛れて忍び込み、母親に会いに来て素気無くされたのだろうか。二人の間にある茅花の存在さえも無かったことにされ、頭に来て喬之介の母親を縊り殺すことにしたのだろうか。
そこに
喬之介が目にした争う二人。
母親の首を絞める高秋と、止めさせようと手を伸ばす父親。
父親は間に合わず、高秋によって殺されてしまった母親。心中と見せかけるために父親にも手を掛け火を付けたのだとしたら。
子供の命を取るのは、さすがに罪悪感があったのか、それとも温情が残っていたのか。
どうであれ病院に現れた高秋は母親の首を絞め、自殺に見せかけて父親を殺し、火を付けたその手で――
喬之介を抱きしめたのだ。
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