4-6
数日前に梅雨明けしたというのに、すっきりと晴れる日はまだなく、今朝もどちらかといえば、まだ梅雨を引き摺っているような一日の始まりだった。
須見との五回目の箱庭療法を前に、朝早くから出勤した喬之介は、前回の箱庭の写真をパソコン上に映し出し眺めていた。
あの日に起きたことを知りたいと思いながらも、未だに喬之介は高秋に確かめるのが怖く、何も出来ずにいる。
今更、知ってどうするというのか。
過去は戻らない。
知ったところで、何が変わる?
両親を殺され、何もかも失った恨みを今になって晴らすとでも?
茅花にも自分と同じ思いを味わわせたいというのだろうか?
そんなことをしたところで、自分だけが死に損ないの除け者であると思い知らされるだけなのではないのか。
そう囁く自分がいるのもまた、確かなのだった。
喬之介がしたことといえば、これまでも探そうと思えばすぐに探せた当時の新聞記事を、地方版の隅で見つけたことだ。
全焼した四人が住む木造住宅から二人の遺体が見つかったこと、その後の調査で、この家に住む二人の無理心中だったことが分かったと書かれている。まるで喬之介の推測を裏付けるように。
ただ、記事には父親と母親の氏名の記載はあるが、残りの二人が子供であることも年齢も名前も伏せられていた。
また、その場に四人以外のもう一人が居たことなど、いくら探してもその小さな記事からは読むことが出来ない。
それはそうだろう。
どのような記事であっても書かれているのは、物事の断片でしかない。
いつ、何処で、誰が、何をしたか、何があったか。
沢山の断片を集め、『真実』とやらに近づいたとしても、それは単に外側から見える『ひとつの事実』でしかないのである。
真実など、誰にも分からない。
当事者であったとしてもまた、同じだ。
何故なら物事というのは、様々な人物その一人ひとりの思惑、つまり個人的主観で以て切り拓いたとする筈の人生でさえも、交差し複雑に絡まり合うなかで、結果として生まれてしまう偶然同士によって引き起こされるものに他ならないからである。
またしてもここで、偶然が立ちはだかるのは実に皮肉だ。どこからどこまでを有意味な偶然と考えれば良いのだろう。
更に言うなれば脳は感情、思考の中心的役割を担うとしながらも自分自身に嘘を吐く、自分自身でさえも簡単に騙せてしまう。感情は誤魔化され、記憶は改竄されるのである。
そうやって考えれば考えるほど、どうやっても真実などというものは、何処にも在りはしないのではないのかと喬之介は思う。
人間が社会的動物として生きて行かねばならないが為に、『真実はひとつ』であると思いたいだけで、おそらく最初からそのようなものはないのだ。
それでも人は……それだからこそ人は、意味を持たないものに意味を見い出し、無い答えをも探しだそうとする。
他人を理解したいと思い、自分の存在している意味を知りたいと願う。
生きている限り、ずっと。
改めて目の前のパソコンに映し出された箱庭を見ると、やはり須見の深層部に秘められたものと、喬之介の深層部に隠していたものが
突然現れた燕の絵が描かれたマッチ箱。
『見た途端この絵が気になって、どうしても使いたかったんです』
須見の母親の歳下の恋人を示していると考えることも出来るが、高秋を燕のように喩えていた喬之介と共時性を起こした結果とも思われる。
茅葺き屋根の上にある狼の造型物。
『屋根の上にいるのは、探しものは高い所の方が良く見えるからだと思います』
須見の言葉。
その後の面談でも須見は、視えたものを確かめるために色々と忙しくしていると言っていた。
果たして茅葺き屋根の家が、喬之介の閉ざされた過去であるのなら、狼が屋根の上にいる理由をどう捉えたら良いのだろう。
須見は、何を確かめるために忙しくしているというのか。
喬之介はデスクの上に両肘を突き、軽く目を瞑ると組み合わせた手を額に当てた。
「須見さん、どうしちゃったんですかね? 先週の遅刻に続いて、今日は連絡もなしに予約をすっぽかしなんて」
この日、全ての診療を終えたクリニックで掃除をしていた泉田が、カウンセリングルームに消毒用のスプレーと、布巾をそれぞれ片手に入って来ると、デスクの前でパソコンの画面と睨み合いを続けている喬之介に向かって首を傾げた。
ついぞ姿を現すことのなかった須見を、どのクライエントよりも気にしてたことが態度に表れていたと見え、泉田の言葉は喬之介の胸に刺さる。
「……先生?」
「ああ、うん」
棚や、ドアノブ、ソファ前のローテーブルに消毒液を吹き付けては、布巾で拭きながら泉田は、喬之介に背を向けたまま続ける。
「予約の時間に現れない患者さんって結構いますけど、逃げたくなる気持ちも分かりますよ。なんかワークアウトのいちばん辛い最後もう一回、もう一回、というやつに似てますよね。これをやることで結果に繋がるし、やらなきゃいけないんだって分かっていて、でも実際のところ身体や心はとっくに悲鳴を上げてて。苦しい最中も、どうやって逃げようかなんてことを考えて……オレなんかは声掛けられてると、負けらんねえって悔しくて頑張っちゃうけど、その一回、最後の一回を頑張れない人もいるのは、どうしたって責められませんよ。自分との戦いって、やっぱり甘くなっちゃうし。ってあれ? オレまた、おかしなこと言ってます? 池永さんに聞かれたら呆れられちゃいますね」
ちょっと黙ってくれないかと、言うために顔を上げたのと、ははッと笑いながら泉田が身体を向けたのは同時で、その顔に毒気の抜かれた喬之介は開きかけた口を閉じる。
再び開いたときには、言おうとしていたことではなく、違う言葉を口にしていた。
「泉田くんは、さ。答え合わせ、とか間違い直しって何だと思う?」
「えー? うーん勉強、ですかね? あ、そういえばオレ勉強ってなんだろうって、小学生くらいのとき思って調べたことがあって。そしたら、学習とかの意味の他に、努力して困難に立ち向かうこととかなんとか書いてあったんですよね。で、マジかと。そりゃちっとも楽しくないわけだよって。でも答え合わせは結構好きでしたよ。オレすげえって言いながらマルつけるんです。それで間違い直しってのは、好きじゃないですね。理解する為にもそれが一番大事なのは知ってますよ? でも、間違いを直す前に、つい思っちゃうんですよね。ちょっとズルい考えですけど、この問題さえなかったら満点だったのになんて」
この問題さえなかったら満点だったのに?
喬之介の中で、何かが引っ掛かる。
間違いを無かったことにする……。
間違いを問題ごと消してしまえば、間違いも無かったことに、なる?
須見の声が、蘇った。
『本人は、それと気づいていない私にしか視えていない間違い。選ばれた私にしか出来ないこと』
それは、つまり……?
はやる気持ちを抑えながらクリニックを閉めた後、池永と泉田に挨拶もそこそこに、喬之介は祖父の家へ向かっていた。
胸騒ぎ、としか言いようのないものが喬之介の中に渦巻いている。
これもまた
何かに駆り立てられるように、急いだ。
確かめなくては、ならない。
だが、何を?
何をこんなに不安に思うのだろう。
背中に滲む汗が、シャツに張り付く。
合間に挟まる恐ろしい思考は、喬之介を闇雲に急かし足を
暗闇に沈む見慣れた通りは、等間隔に並んだ街灯のせいで、どこまでも果てがないように見える。
いつの間にか走り出していたことに喬之介が気づいた頃、玄関灯に白々と明るく照らし出された祖父の家が目に入った。
ここまで来れば大丈夫。
……大丈夫?
過去が追いかけて来ているのではなく、過去を追いかけているのだと喬之介が気づいたのは、開け放されたままの玄関に駆け込み目に入った光景を見たときだった。
男の広い背中。
力が入り盛り上がる肩が、組み敷いたものに嬲られ大きく揺れている。
……茅花?
茅花が、あの日の母親のように何者かに首を絞められていた。
すぐ足元には頭から血を流し、倒れている高秋の姿も見える。
血の気が引く。
その音が聞こえた。
海鳴りは、耳の後ろを流れる血潮の音に似ているのだと気づいたのは、今まさにこの瞬間だった。
ごうごうと、耳の奥で鳴り響く。
――血潮。
荒れ狂う音が、喬之介に襲い掛かる。
人間の祖先は海にいたとするのなら、海鳴りに興奮と恐怖を感じるのは、当然のことなのかもしれない。
潮の満ち引きによって、初期の四足歩行の動物への進化に拍車がかかったのだとするなら、あの音は、海鳴りは、おそらく還ることのなくなった人間を試しているのだ。
還りたくないか、と。
還って来い、と。
海が、
唸り叫ぶ声のような海鳴りは、風と共に人を呼んでいるのだ。
過去へ――。
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