蹄跡の32

 1月の2週目、成人の日にナイター開催となる船橋競馬から乗り始めたカンナ。今日は様子見ということで、15:40からの第3レース、C3戦のみに乗ることになっている。


「7番人気やってさー」


 カンナはパドックの電光掲示板を見て、相棒に初めの第一声。船橋所属ながら、前走・川崎の1400m戦で勝ちを挙げている馬なので、決して捨て試合などではない。小野師の本気度合いが感じられる。


「おおっ、暴れんの!」


 カンナに7番人気だと言われたのが癪に障ったのか、船橋のタツノフォーカスは体を揺すっていた。息は荒くないので、ふざけているらしいとは分かるのだが。


「ほら、本馬場に出たんだからお客さんにご挨拶に行こ!」


 促されて、ホームストレッチをに走り始めた。


「おいおい、霜月さん」


 後ろから追いかけて来たのは大井の実力派、2000勝騎手の谷堂騎手。乗馬は現在、3番人気だ。


「わっ!谷堂騎手やん!あ、ごめんなさい。どうしました?私、変なことしてますか?」


「うん、してるね…」


 谷堂は「良くあることだよ」という顔をして、指摘する。


「ここ、の競馬場だぜ?」


「ああっ!」


 そう、南関東4場の中で、金沢競馬場と同じの競馬場は大井のみ。その他、船橋を始めとして川崎・浦和と左回りの競馬場なのだ。なお、大井競馬にも最近、左回りコースが新設されたが。

 とにかく、今から行われるレースは左回り。それを右回りで返し馬させてどうするのか、と谷堂は言いたいらしい。


「そうですね!ありがとうございます!」


 そう言っていそいそと左向きに返し馬を始めに行ったカンナを眺めて、谷堂は独りごちる。


「まあ、金沢と大井しか走ったこと無いんじゃあな」


 彼は金沢に帰省した吉田に、カンナのお守を頼まれていたのだった。小野師からも父親の縁から個人的に頼まれている。そこまでされては面倒見ないわけにもいかないのだが、どんなものかと思っていた。


「あの娘、馬やら人に恵まれているだけだろうに」


 アキノドカが去年暮れの東京2歳優駿牝馬を2着に持ってきたのは、馬の力だけだと谷堂は見ている。母は大したことのない馬だが、父はサンデーサイレンスの子だ。隔世遺伝で大駆けすることもあるだろう、くらいに思っていた。馬ならともかく、その騎手が大井に武者修行しに来るという。


「ま、女の子だしな。嫌な思いをさせない程度に、楽しんで帰ってもらうさ」




「さて、フォーカスくん。いよいよゲート入りなんやけど」


 カンナは船橋1200mコースの振り返りを始めていた。いわゆるワンターンの競馬。バックストレッチから始まって、コーナーが2つあって、ホームストレッチが最後の直線。最初からの勢いが続いて行くことも少なくない。


「まあ、船橋の経験は君の方があるもんねえ…」


 門別から長いキャリアを誇る8歳馬だ。船橋はホームだけあって何度も走っているタツノフォーカスに任せる他はない。


「よし、頼んだげん!」


 ゲートを出る。タツノフォーカスはそこそこの出から、中団に位置を取った。観戦していた小野師も、まず妥当なところだろうと思っている。


「うんうん、前に出過ぎてはいけないしね」


「今のところ、普通に乗ってますね」


 隣のタツノフォーカス管理調教師・藤本師も頷く。デビューし立ての女性騎手が遠征してくると言えば葉月ミナが思い出される。彼女のレベルを求めてはいけないとは思い、基準を引き下げていたからより良く見える。少なくとも、馬に普段の力を出させるのは騎手としては大事なことだ。


「しかし、それ以上となるとな」


「ええ…」


 小野師がカンナを評価するのは、「決して馬の邪魔をしない」騎乗スタイルだ。アクションの控えめな追い方は中央競馬に多い形で、馬への負担も少ないとされている。しかし。


「オーナーがそれを求めないこともあります。ここで勝たねばならない、ここを勝たねば先が無い、という時、彼女に何ができるのか…」


 小野師は、良く言えば馬の先を考えており、悪く言えば勝ちを求める心の薄いと取られるカンナの騎乗スタイルが彼女の将来を危うくしないかと危惧していた。

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