蹄跡の12
レース開始すぐ、金沢競馬場全体に悲鳴が上がった。
「あわあわあわ…!?」
1番アキノドカの鞍上カンナは顔色が真っ青になっている。出遅れたのだ。それも、何かしらの音にびっくりしたのか間違えてゲートに頭をぶつけて怯んだところでゲートが開いたため、馬群の一番後ろになった。
「の、ノドカ~!?」
カンナも延夫婦も悲鳴を上げる。暮内オーナーは仕方ない、とでも言う風に瞑目した。
「今から追っても、どうにかなるもんじゃない!」
遅れて飛び出て、促しかけたが先頭の馬へは15馬身以上はある。アキノドカは特別、テンが速い馬ではないし、どこからでも仕掛けられる自在な加速力があるということは無い。
「別にかかってるわけやない、リラックスして追走しとる!」
いつも通り、力を抜いて、楽に走っている。余裕は感じられる。それだけが頼りだとカンナは自身を慰め、立ち直った。
前には6頭。差し脚が鋭い南関のクラウディアが3馬身ほど前にいる。その前は団子で4頭。門別のデイジーデイジーが2番手を追走している。先頭は園田のセッツナッツヒッツで、それなりのラップを刻んでいる。
「早いことは早いんや、何とかなる!」
当然、葉月水無にも何か考えがあって締まったラップを刻んでいる。クラウディアを利するばかりの展開にするわけがない。しかし、現状は後方馬に有利だ。
「ノドカ、今日は後ろからだからね!?」
聞いているのかいないのか、アキノドカはクラウディアの後ろに付けられて満足そうだ。ああ、だから気分良く走っているのね?とカンナが呆れる間にも、600m地点を通過。隊形はゲートを出たままで固まった。
「ね、ノドカ?ノドカって本当に逃げや先行が得意なのかな?」
カンナにはこの数ヶ月、どう逃げるかと同じくらい気になることがあった。アキノドカは差し追い込みのタイプなのでは?という疑念である。調教では、前半よりも後半の方が身が入っている感覚がある。レースでも、終い3ハロンのタイムは2番目3番目。逃げタイプなら終いは甘くなりがちだ。
「もしさ、ノドカが追い込み型なら…」
今の展開は絶好の機会だった。強いとされる差し馬がいて、それを見ながら上がって行きたいアキノドカに向いた展開だ。
「え、もしかして…重賞…?」
地方公営・金沢とはいえ、20人も騎手がいる中で重賞競走に勝つ。ぺーぺーのカンナには縁がないことだ。その栄光に届くのでは?カンナは心が躍った。そして、それだけに落ち着くことにとにかく努めた。
「焦っちゃダメだ…ノドカ、私は落ち着いてるからね!」
騎手の動揺はいとも容易く馬に伝わる。ノドカなら勝てる。勝てないなら自分が悪い。今後も騎手をやっていくなら、ここで勝て。そう、自身を奮い立たせていた。
「うーん…あれえ~?」
「どうしたの、あな…先生?」
延師が唸りながら首を捻る。それを隣で首をかしげて見ているのは妻で厩務員、立場ゆえに言い直した木芽。
「いやあ、やけに折り合ってるなあ、ってな~?」
「そうね、南関の馬っぷりが良いからかしら?」
「うちのは馬まで美人に弱いとは…」
息子が色香に惑って大変な思いをした経験を持つ暮内オーナー。かなり複雑な気持ちだ。
「うん、勝てるかもな~。オーナー、まだ捨てたもんじゃあないかも知れませんね~」
「勝負になりますか?」
「うちのがちゃんとすればね~」
「…木芽夫人、どうですか?」
水を向けられた木芽。アキノドカと鞍上のカンナをじっと見る。やや間があって、断言した。
「あの子らなら、大丈夫です」
木芽はカンナが毎日、就寝時間寸前まで木馬に跨り、騎乗フォームの安定・強化に力を注いでいるのを見ていた。デビュー前、厩舎に受け入れてから2年近く、1時間以上を欠かした日は無い。木馬を枕に力尽きた日もある。
「カンナはノドカが大好きです。勝たせるために、努力をずっと続けてきました。ノドカはカンナを信頼しています。カンナが言うなら、インだって大外だって、ラチにぶつかりに行きます。実績は、もうあるじゃないですか?」
4戦連続連対(2着ばかりだが)なら、誇れる成績だ。未勝利に終わった母・ハルウララは130戦以上で2着の回数など片手で足りる。
「カンナとノドカは強いです。歯車がこの展開で合ったとしたら、こんどこそ勝ちきります」
先頭のセッツナッツヒッツが1000m地点を通過。残り500mでクラウディアが動き、アキノドカも追随し始めた。
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