蹄跡の2
アキノドカが延厩舎にやってきて、1週間。初めての事態には少しビクビクするようなところはあるが、それ以外に気性面でこれと言った問題は見当たらない。
「お父さんが出てるね。いいね!」
カンナは厩舎の馬房に掛けられたアキノドカの鑑札を見る。母ハルウララ、父はダンスインザダークとあった。
「菊花賞馬だね。ステイヤーだから気性が穏やかめ。その分、勝負根性は弱いと」
「母親はレースでは真面目だったらしいけど、調教がイマイチだったらしいな~」
「あ、先生」
延師が出て来た。後ろには三十路の女性厩務員が1人。
「カンナ、初めてまともに担当馬持ったけど、どう?構いすぎてないっし?」
「失礼な!ちゃんと、節度を持ったお付き合いをしてます!」
「なんじゃそりゃ~?」
「アナタ、そういうのは良いの…ノドカのゲート試験が決まったわよ」
「え、もうですか?」
「まだゲート試験だ~。とっとと決めねえと、いつまでも調教も締まらねえからな~」
8月15日がその日ということだ。2週間後ということらしい。
「じゃあ、能力検査は?」
地方競馬ではデビュー前に受ける試験が2つある。正常な発馬ができるか否かのゲート試験と、能力検査は文字通り、レースに出走してコースを回って基準レベルの走りができるか否か。特に後者は、新馬戦の参考にもなる大事な試験だ。
「9月にはやりてえよなあ~?」
アキノドカは現在、それなりに順調な調教過程を経ていた。父の穏やかさを存分に受け継いで何事にもビクビクしない。母が時折見せた飽きっぽさも見せず、人を乗せて走るのが大好きといった風だ。
「かわいいっしー!」
カンナも1年間、下働きばかりをこなしてきた中で初めて専属で世話ができることになった担当馬が思いの他かわいく、溺愛していた。
「そうね、人懐こいのは良いわね。嫌いって来るより何倍も」
そう言う木芽にはちょっと影があった。即座に振り払って、カンナに告げる。
「そろそろ、ゲート調教もガンガン入れるわよ?ゲート難で競走馬になれないなんてこともあるんだから」
「はい!頑張っしまー!」
カンナは頑張るぞ、とアキノドカの肩を軽く叩いた。肝心の馬はあくびしているが。
アキノドカは初めて見た狭いゲートに驚いていた。騎乗したカンナに促され、おっかなびっくりで近づいていく。
「ノドカ、ほら」
尻尾を握られ、前に行こうと促されるも、ちょっとそれはどうだろう?とばかりに、2,3歩近づいてピクリとも動かなくなった。
「ほうやろうなあ~」
「最初は馬房に入るのもためらってたものね…」
見守る延師、木芽も仕方ないといった風にしている。慎重、用心深い性格と言える性格のアキノドカでは、初めて見た物体に飛び込むのは余程、勇気が要ることだろう。
「木芽さん!ニンジンを!」
「よーしよし、こっちさー」
目の前に人参を出され、アキノドカが目を奪われている。その隙に、カンナは強めに前進を促した。一歩二歩と歩みを進める。
「そりゃ!」
木芽がゲート柵の良いところに人参を投げ入れる。延師はアキノドカの馬体がゲートに収まりきったのを慎重に見極め、ゲートの後ろをそっと閉める。
「入ったあ…」
ここまで実に15分。後で聞くと、他の新馬ですごいのに比べたら、まだ大人しかった方らしい。
次は発馬だ。音もそれなりにする。最初は意味がわからず立ち上がる馬もいる。経験の浅いカンナには危険なところだ。
「大丈夫、大丈夫…」
これまでレースには乗ってきたが、金沢の開催日程は他場に比べて開催日が少ない。騎手は20人以上いるので、割と取り合いになる。カンナのようなぺーぺーには実に厳しい。
「100鞍で6勝はどうなんかな?」
カンナは直前1年間で、月割りで8鞍程度しか騎乗できていない。去年8月のデビュー月に至っては、最終週で顔見せに2鞍あっただけ。しかし、そのデビュー戦を自厩舎の7歳馬で勝ったのだから、運があった。
「天才あらわる!って話題だったしー」
100鞍で6勝なら、新人として悪い数字ではない。延師も、3年後に期待を懸ける人材だった。
「大成功したいんじゃないけど…」
引退は早いだろう。せめて、馬乗りとして動じないで済むだけの経験を積んでから去りたいと願っている。
「うわっ!」
不意にゲートが開くと意外や意外、アキノドカは鋭く走り出した。考え事に行っていた意識を慌てて連れ戻し、騎乗に専念する。100mほどで止まった。
「ノドカ、すごいしー!」
できたことには思いっきり褒める。師や木芽もやって来て、思いの外、良くやったアキノドカをちやほやし始めた。
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