1年目、金沢のアキノドカ
蹄跡の1
その昔、ハルウララという競走馬がいた。走っては負けた馬だ。日本近代競馬史上、空前絶後の生きた伝説と組んだ戦いでも負けた。生涯で113走し、競走馬生のどのレースでも負けた彼女は、しかし年間に20走というタフなローテーションを走り抜いた。
生きるためには走るしかなかった。走れないなら、引退するしかない。ひどく臆病と言われた彼女では、乗馬などの道も望みが薄いと。生まれ故郷にも帰れない。
しかし、彼女の生き様は人々を惹きつけ、競馬ファンか否かを問わず、高知競馬の枠を超え、全国で一大ムーブメントとなる。この物語は、それから十数年後。彼女が安住の地とした牧場で産まれた3頭の牝馬を追いかけていく。
ここは金沢競馬場。石川県or金沢競馬として地方競馬の中部ブロックに位置する競馬場だ。中央競馬からは力が劣るとされる地方の公営競馬群においても、レベルはそこまで高くない競馬場として知られる。
「先生、まだなんですか!?」
「キャンキャン吠えるな~!もうちょいだろ、仕事しろ~!」
若い厩務員?が厩舎の主、調教師に食ってかかっていた。今日は7月24日。この時期に厩舎関係者が気にするものはと言えば、1個ぐらいは思い浮かぶものもあるだろうか?
「ハルウララの子供、早く見たいですよお!」
「うるさいっし~!もうすぐ来るだろ~!」
喧々諤々とやっているところに、電話のコール音が響く。厩舎事務所に電話がかかって来た。
「あ~もしもし~?おお、これはオーナー。はいはい、おお、そうですか~!」
調教師はホッとした顔で若い厩務員に向かった。
「もう来ると仰せだ。わかったら、ちょっとはまともな態度になれ~!」
ちょくちょく語尾が伸びる調教師は
彼らの厩舎では、今日1頭の新馬を迎えることとなっていた。ハルウララの仔、その次女に当たる―――
「この子がアキノドカです」
「おお~!」
馬運車でオーナーが直々に馬の入厩に付き合って来た。馬主のフットワークが軽いのも地方競馬の特徴かもしれない。
「ちっちゃいなあ」
ハルウララも400キロ前半も前半の馬体重だった。その娘、アキノドカの馬体重は現在、395キロ。競走馬として間違いなく軽い部類に入る。
「そのためにお前を起用するんだろうが~」
延調教師は騎手2年目でしかない、カンナ起用の理由を語る。アキノドカのオーナー、暮内氏も頷く。
「小さい馬体だ。当たりの柔らかそうな、小柄な女性騎手が良いね」
「こんなにかわいいとねえ~女性騎手と組ませて、人気も出まっし~!」
特に発信するものが少ない金沢だ。過去に日本を席巻したハルウララの威名と、まだ珍しい女性騎手のコンビはPRに向けて格好の材料。
「それは困る」
「社長~?」
何が、と延調教師が問いかける。暮内氏は本当に困っているらしく、眉をへの字にして答えた。
「いやねえ、
「そりゃまた、なんで~?」
まさかの計算違いに調教師も頭を抱える。生産者から馬を売る条件としての付帯条項にあるのだろうが…
「あまり、騒がれたくないと。走れなくても、走っても。血統表は隠しようもないが、それで売り出すことは控えてほしいとのことだ」
「う~ん」
競馬の出走表には父母の名前が載る。バレるのも時間の問題だとは思うが、この分だとバレても積極的にはハルウララの名前は使えない。
「姉を預かる園田競馬も売り出してはいないんだ」
「お姉ちゃんもいるんですね!?」
カンナが声を上げた。知らなかったと。
「ウム。来年は妹も出て来る予定らしいが。とにかく、先方はハルウララの名前を使わないでほしいとの希望だ。私もその方が彼女にとって幸せだと思う」
暮内氏はこの10年以上をハルウララの保護に力を尽くした人物の1人。居場所を転々とする彼女を歴史の闇に葬ってはいけないと、引退直前からサポートして来た。一時的には共同馬主だったこともある。種牡馬代金など種付けの全費用を工面したのも彼なので、アキノドカの権利を持っている。
「彼女はもう十分以上に働いたんだ。子供も3頭産んだ。これ以上を望むのは、さすがに人間のエゴだよ」
そう言われては返す言葉も無い。延師も諦めた。
「お母さん頑張ったんだから、一緒に親孝行しようね?」
勝って彼女の血を示す。それが一番の親孝行だと、アキノドカを撫でるカンナは信じていた。
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