むっつ
こっちの方だ。
景色は変わっているが、身体は土地勘を覚えていた。
この荒れ地はかつて畑だった。ということは、草がぼうぼうに生えているこの道は、小川の方へと続くあぜ道のはずだ。
草を踏み倒しながら進んでいくと、やはり小川があった。しかし、掛けられていたはずの丸太橋は見当たらなかった。
恐らく、この二十年の間に朽ちてしまったのだろう。仕方なく、ひょいっと小川を飛び越える。あの頃は、きっとこんなことできなかっただろう。
また草を踏み倒しながら歩いていくと、鬱蒼と茂る竹林の脇道に出た。ここだけは、あの頃と何も変わっていない。オニヤンマを追いかけた時のように進んでいくと、あの石柱の門の前に辿り着いた。
二本の石柱には、相変わらずグルグルと太い藁紐が巻かれ、それにいくつもの木札が括り付けられていた。木札の数も、その朽ち方も、あの時と全く変わっていないように感じた。まるで、時が止まっていたかのように。
唯一、変わっているものがあるとすれば、それは僕の目線だ。あの頃は大人の背丈ほどもあるように見えた石柱が、今では随分と小さく感じられた。
辛うじて朽ち果てていない木札を見つめる。あの頃と違い、乾いて煤けたその表面に書かれた文字は、
〝月台〟
と、読み取ることができた。
……つき…だい。
いや、……つき…うてな。
……つくてな?
〝月台〟と書いて〝つくてな〟と読むのか。地図アプリでこの辺を調べても〝月台〟なんて地名は出てこなかったが、相当古い呼び方なのだろうか。
そういえばここを、この
「待てっ!」
突然、後ろの方から声がした。振り返ると、あの老人が焦った様子で竹林の脇道を走って来ていた。
「入るなっ!そこから先は——」
僕は構わずに向き直ると、門を越えた。足が枯れた笹の葉を踏みしめて、カサカサと音がした。
「よせえっ!」
一歩、二歩、歩いてから振り返ると、門の外で老人が狼狽えていた。肩で息をしながら、目を見開いて僕のことを見つめている。
「何を考えてる!行くなっ!戻って来いっ!」
老人は僕に向かって手を伸ばしたが、なぜか門を越えて来ようとはしなかった。必死に呼び戻そうとしているようだったが、僕はまた向き直って歩き出した。
「戻れと言ってるだろうがっ!戻れっ!行くなっ!」
背中に怒鳴り声を浴びながら、ひらひらと上から舞い落ちて来る無数の笹の葉をかき分けるように小道を進んだ。
「待てっ!お前、あの時のガキなんだろう!」
歩くのをやめない。
「なんでわざわざ戻ってきたっ!そこがどこか分かってるのかっ!その向こうに行ったら、お前は死ぬんだぞ!」
歩くのをやめない。
「まだ間に合う!戻ってくるんだ!くそっ、死にてえのか!」
歩くのをやめない。
「何があったのか知らねえが、死のうとするんじゃねえ!どんな目に遭っても、生きようとすることから逃げるな!」
歩くのをやめた。
「逃げるな?」
門の方に振り返る。
「……説得力ないよ、叔父さん」
老人が——老いて変わり果てた叔父さんが、驚いたような表情を浮かべていた。
「叔父さんも、何かから逃げてきたんでしょう?だから、こんな所に」
「……っ、それは——」
「それに、逃げることの何が悪いの?誰にも迷惑をかけずに一人で死ぬことの、何が悪いの?」
叔父さんの言葉を遮って、胸に秘めていた諦観と絶望を吐き出した。
「僕が死んでも悲しむ人なんて一人もいない。どっちかというと、僕の存在を迷惑に思う人ばっかりだ。だから、いいじゃない、逃げたって」
「……それでもっ——」
「諦めるなって?どんなに辛い目に遭っても生き続けろって?生きていれば、きっといいことがあるって?」
思わず、口元が緩んだ。
「うんざりだよ、そんな言葉」
僕は、久しぶりに笑った気がした。
———くすくす
それに同調するかのように、後ろから懐かしい笑い声がした。
叔父さんの視線が僕を通り越して、小道の向こうへと向けられた。見開かれた目が、恐怖に怯えている。
僕は、ゆっくりと振り返った。
小道の向こうに、あの女の人が立っていた。白い振袖、白い帯、白い足袋に、白い草履。透き通るような白い肌に、風に吹かれてサラサラと揺れる長くて黒い髪の毛。
小道の中は薄暗いのに、その女の人が立っている一帯だけは、柔らかい陽の光が差していた。
———くすくす
よく見ると、女の人は両手に虫取り網を携えていた。竹製の柄を細い指先で撫ぜながら、僕に向かって微笑んでいる。
———ああ、やっぱり、僕を待ってくれていたんだ。
ゆっくりと、女の人の方へ歩いていく。
「よせっ!あれは、お前の考えてるような奴じゃない!あれに魅入られたら、死ぬんだぞ!いや、死ぬどころじゃねえ!この世の
後ろから、叔父さんが叫んだ。
この世の理から外れる……?
ああ、もう、永遠に、この世界に生まれ落ちることができなくなるのか。
それを聞いて安心した。
こんな世界、もう二度と生まれてきたくなんかない。
「待てっ!くそっ、くそっ……!お前、名前は!?名前を言え!教えろ!あれから札無しで逃げるには、名前を呼ぶしかねえんだ!お前の名前はっ!?」
ああ、そういえば、叔父さんは僕の名前を知らないんだったな。
いや、叔父さんだけじゃない。おばあちゃんも、僕の名前を知らない。この世界で唯一、僕を愛してくれた、おばあちゃんも。
僕がこの月台村に来たのは、おばあちゃんに会う為だった。
もう何もかも嫌になっていた。動くことも、考えることも、寝ることも、食べることも、息をすることも。
だから、僕は死のうと思った。でも、その前におばあちゃんに会いに行こうと思った。おばあちゃんだったら、僕を待っていてくれるかもしれない。そんな淡い希望を胸に。
ダメ元だった。大して期待はしていなかった。あれからもう二十年も経っているのだから。
案の定、おばあちゃんはいなかった。
最後の望みが潰えたけれど、僕はここのことを思い出した。
ああ、あの女の人だったら、僕を待ってくれているかもしれないと。
「待てっ!行くなっ!」
叔父さんの声が聴こえたが、僕は振り向かなかった。叔父さんだって、振り向かなかったから。
とうとう、女の人の目の前まで来た。僕に優しく微笑みかけている。
———逃げて何が悪い?
暴力を振るう父から、酒臭い息を吐き散らす母から、僕をゴミのように扱った学校の連中から、頼むから消えてくれと懇願してきた教師から、僕の生い立ちをせせら笑った同僚から、どこへでも行って野垂れ死ねと言ってきた上司から、親も親ならガキもガキだと怒鳴り散らしてきた取り立て屋から、出て行けと連呼してきた大家から、路上で寝る僕に唾を吐いてきた警官から、助けを乞う僕を蔑むような目つきで嘲笑った窓口の職員から。そして———、
そんな奴等が平気な顔して蔓延っている、この世界から。
———逃げて、何が悪いんだ。
女の人が、振袖をゆらりと揺らして両手を広げた。
おいで、と僕に語りかけているようだった。
目の前で、白い帯が揺れていた。
いつの間にか、視線が低くなっている。
いや、僕の身体が、あの頃に戻っているのか。
僕は、陽だまりの中、女の人に、歩み寄って、迎えられて、
女の人が、小さな僕を抱きすくめて、
僕の華奢な肩を掴んで、
僕の髪を優しく撫でて、
僕の小さな身体が、白い振袖の中に包まれて———。
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