いくつになっても。

 俺たちがまだ高校生だった四年前なら、初土公園の坂を登った程度では息は切れなかったのに。

 乱れた呼吸を整えていると、茉莉ちゃんが感嘆の声を上げた。

「へえ〜。久留島にもこんなに眺めのいい場所があるんだね」

 いい場所、という茉莉ちゃんの言葉に、自分が褒めてもらえているような感覚になって嬉しくなる。

「ここは俺にとって一番大切で、一番大好きな場所なんだ」

「そうなんだ。……いいの? そんなすごいところ、わたしなんかに教えちゃって」

 茉莉ちゃんが東屋に咲く藤の花を見ながら言う。

「——茉莉ちゃんだから教えたんだよ」

「え?」

「……なんてね! ははは」

 冗談っぽさを押し出したつもりの俺の言葉を、茉莉ちゃんは俺の予想に反して真剣に受け止めようとしていた。だから、笑ってごまかす。

「なんだ。冗談なんだ……」

「え?」

「ううん、なんでもない! それにしても、本当にいい眺めだね〜!」

「でしょ?」

 風が茉莉ちゃんの髪を揺らした。髪が真っ黒だった四年前とは違って、今は綺麗な茶色に染まっている。

「こんないい場所、どうやって知ったの?」

「えっとね……」

 俺にとって大切なこの場所を、どうやって説明しようか悩んでいた時だった。

「……おや?」

 と変わらない、懐かしい声がした。



 *******



 私の健康法はきっと、この公園に行くことだったんだと、今は思う。

 朝、いつもと同じように目が覚め、朝日を見られることに感謝しつつ、エリから教わったレシピ通りに卵焼きを作る。そして私は、風に背中を押されるようにしてこの場所に足を運ぶ。日によっては、コーラを買ってみたりもする。

 正直に言おう。恐らく私は、もう永くはない。人様に迷惑をおかけすることは避けたいけれど、最期の最期に我儘ワガママを聞いてもらえるのであれば、私はこの場所で死にたい。(我儘ではなく、願いを叶えてくれるのなら。ほんの少しでいいから、エリに会いたい。)

「もしも今、エリに会えたら。きっと、死ぬことが嫌になるのだろうな」

 いつもと同じように坂を登りながら、そんなことを口にする。乾いた笑いが、風にかき消された。

「——本当にいい眺めだね!」

 東屋から可愛らしい声が聞こえる。どうやら今日は先客がいるらしい。

 よく見ると、若い男女が二人でこの街を眺めているようだった。

「でしょ?」

 男の子の声。どこか誇らしげで、心底嬉しそうな。

「こんないい場所、どうやって知ったの?」

 いい場所、というこの公園に対する最大級の賛辞を耳にして、なんだか私も嬉しくなる。若い二人の邪魔になってはならぬと思いつつも、私の足は自然と東屋に向かって動いていた。

「えっとね……」

 悩んでいる様子の男の子に近づく。

「……おや?」

 ここで私はとあることに気づいた。

 は十六年前に出会った、私の大切な友人だったのだ。



 *******



「あんたさ、いつになったら乾くんとイイカンジになるわけ?」

 お酒の入ったミッチが、顔を真っ赤に染めながら言った。

「そ、そんなのわかんないよ……。二人きりで会って、いい雰囲気になっても何もアクションかけてこないんだもん」

「だぁ〜っ! ダメだよそんなんじゃ! 茉莉から声かけないと!」

 ミッチは少し大きな声をあげると、ジョッキに残っていたハイボールを飲み干した。

「ミッチ、飲み過ぎじゃない?」

 私の隣に座っているメグがミッチの口元におしぼりを当てる。

「メグありがとう。でも私は大丈夫! ちゃんと限界は把握してるから!」

 メグの言葉に、ミッチはピースサインで答えた。

「それよりも今は茉莉の恋愛事情が大事なの!」

「そんなに気になる? だって茉莉と快斗くん、もう四年もフワフワした関係を保ってるんだよ?」

「だからこそ気になるの! メグは大学ですごくいい人と出会ってラブラブだし、私も今はバイト先の生意気な後輩とイイカンジなんだからね。私たちの中で、一番不安定な恋をしてるのは茉莉ってわけ!」

 ミッチの視線がわたしのことを捉えた。完全に目が据わっていて、少し恐怖を覚える。

「それで? 今度はいつ会うの?」

「え、えっとね……」

 ミッチの目から逃れたくて、携帯の中の予定表に視線を移す。

「二ヶ月後かな」

「二ヶ月後ぉ〜!? ちょっとそれは悠長じゃない?」

「……うん。さすがにそれは私もミッチと同じ意見かも」

 そう言いながら携帯を閉じたわたしを、ミッチとメグが眉をひそめながら見ていた。

「あのね、茉莉。何も私は意地悪をしたくて聞いてるわけじゃないの。私は乾くんと同じ大学の同じ学部に通ってるから知ってるけど、彼ってうちの大学でめちゃくちゃ人気あるんだからね?」

「え、そうなの!?」

「これ、本当だから。乾くんって頭いいし、爽やかで人当たりもいいからね。この前も他の学部の子から連絡先聞かれてたし」

 思わず、快斗くんが可愛い女の子に言い寄られている場面を思い浮かべてしまって、心が苦しくなる。

「いい? 今まではたまたま乾くんが一途に茉莉のことを想ってくれていたけど、この先もずっと乾くんが茉莉のことを好いていてくれる保証はどこにもないんだからね!」

 眼前にミッチの人差し指が迫る。

「まあ、四年前の久留島高校でののせいで乾くんの茉莉への想いがバレたのは少し可哀想だなって思うけど、それを知っていながらフワフワとした関係を続けている茉莉が一番悪いと思うよ私は」

 きっと、今のミッチの発言こそがわたしに伝えたかったことなんだと思う。ミッチはきっと、ウジウジしているわたしにイライラしていたんだ。

「茉莉から誘っちゃえばいいんだよ。だって二人きりで会うってことはさ、茉莉も乾くんのこと悪くは思ってないんでしょ?」

「……でもさ、わたしは快斗くんに負い目があるというか」

 四年前、久留島高校での出来事を思い出す。「すぐには切り替えられない」と崎山先生に言った通り、わたしはそんなにしたたかにはなれなかった。

「わかる。それはわかるよ。当事者は茉莉と快斗くんと、その快斗くんの親友だもんね」

「あのね二人とも。私はね、それを負い目に考えるのがもう間違ってると思うんだ。

 茉莉はさ、乾くんと二人で遊ぶようになって、乾くんのことをどう思ったの? もう四年も経つんだよ? 周りがどうこうとか、過去に何があったかなんて関係ないよ。誰がなんと言おうと、茉莉と乾くんの気持ちが全てなんだよ」

「ミッチ……」

 メグが潤んだ瞳でミッチを見つめる。感銘を受けた、という表情を浮かべていた。当のミッチはフッ、と息を吐きながら店員さんを呼んで「ハイボール。メガで」と言っていたけど。

「で、好きなの?」

 店員さんとのやりとりを終えたミッチが言う。

 わたしは居酒屋の内装を無意味に何度も見渡した後、ゆっくりと頷いた。

「なら、誘っちゃえ」

「さ、誘う?」

「そうだよ。何? 二ヶ月も会えないのに、嫌じゃないの?」

「……嫌だ」

 ダムが決壊したように、快斗くんへの想いが溢れる。本当は私だって、快斗くんともっと一緒にいたいんだ。

「……今の茉莉、めちゃくちゃかわいい。四年前みたいな顔してた」

「四年前?」

「四年前に茉莉を泣かせたに恋してた時みたいな。ね? ミッチ」

「うん。それでこそ茉莉! って感じ」

 燻っていた火が勢いを取り戻したような、無くしていた歯車が見つかったような。どうやって言葉にすればいいかわからないけど、なんだかすごく楽しくて、懐かしい気持ち。


 わたしは、快斗くんが好きなんだ。


「二人とも、ありがとう」

 少し恥ずかしいけど、わたしは今の気持ちを素直に口にする。

「快斗くんと上手くいくといいね」

 メグの手が、そっとわたしの背中に触れた。

「そうそう。それに私は、茉莉の背中を押すの大好きだからさ。何度だって押すからね」

 ミッチの頼もしい言葉もメグの手と同じくらい、強くわたしの背中を押してくれた。

「快斗くんに連絡して誘ってみる。今回は快斗くんが行きたいところに着いていくって言う」

 わたしの握った拳を、四年前からの親友である二人はどこまでも優しい眼差しで見ていてくれたんだ。



 *******



 私の大切な、小さな友人はいつの間にか大きく育っていて。その隣に可憐なお嬢さんが立っていることを嬉しく思う。

「快斗くん、かな?」

 四年前、コンビニで出会った時とは違って、私は確信を持って彼に問いかける。

「はい。お久しぶりです。ヒデさん」

 快斗くんは快斗くんで少し気恥ずかしそうに、でも四年前とは違って真っ直ぐにこちらを見つめながらそう返してくれた。

「……大きくなったなあ」

 なんだか私も照れてしまって、当たり前のことを口走ってしまう。

「ありがとうございます。ヒデさんこそ、相変わらずお元気そうで」

 あの日と違って、彼は随分と大人びた声色と口調で、私と血の通った会話をしてくれる。(彼は当時から聡明な子ではあったけれど。)それがとても嬉しくて。

「ははは。ありがとう快斗くん」

「えっと、この人は快斗くんのお知り合い……?」

 快斗くんの隣に立っていた、綺麗な髪をしたお嬢さんが言う。

「そう。この人はヒデさんって言うんだ。すごくいい人で、かなり昔にお世話になったんだよ」

 快斗くんが手をこちらに向けて、お嬢さんに私を紹介してくれた。

「二人きりの時間をお邪魔してすみません。私はつつみ むねひでと申します。私のことは、快斗くんと同じようにヒデさんと呼んでくれると嬉しいな」

 この歳になって、誰かに改まって自己紹介をする機会があることに少し不思議な気持ちを抱きながらも、大切な友人の恋人に対して失礼のないように振る舞う。

「わ、わたしは小野澤 茉莉と申します」

 私の言葉を受けて、お嬢さんは少し慌てたように頭を下げ、大きな声で名乗った。

「えっと、快斗くんとは……高校時代からので……」

 茉莉さんは喉に何かが詰まったような言い草で、目を伏せてしまう。

 私には二人の関係性がどんなものかわからないけれど、茉莉さんが『友達』と言ったことに少しだけ残念な気持ちになった。

「あなたのことは、茉莉さんとお呼びしてもいいですか?」

 目を伏せている茉莉さんの気持ちを紛らわそうと、私はそんな提案をしてみる。

「は、はい! 茉莉って呼んでください!」

「わかりました。よろしくお願いしますね。茉莉さん」

「よろしくお願いします……!」

 茉莉さんはそう言うと、もう一度深く頭を下げ、私を真っ直ぐに見つめた。茉莉さんと私の視線が、ある一点で交わったような気がした。


 その瞬間だった。


「……エリ?」


 茉莉さんの風に靡く髪、真っ直ぐな瞳、元気いっぱいな声。

 そんなはずがない。それは痛いほどにわかっているけれど。

 それでも私はその名前を口にせずにはいられなかった。



 *******



 最初は、ヒデさんの言い間違いだと思っていた。

「……エリ?」

「え?」

 エリ、と呼ばれた茉莉ちゃんが変な声を上げると、穏やかなヒデさんの顔が少し引き攣った。

「今、エリって言いました?」

 俺は奇妙なこの空気を壊したくて、明るい口調を維持することを心がけながら言った。

「あ、……ああ。言い間違いをしてしまいました。ごめんね、茉莉さん」

 被っていたハットをゆっくりと取ると、ヒデさんは「ははは」と笑って頭を下げる。

「いえ、言い間違いなんて全然気にしてないですから」

 茉莉ちゃんも俺と同じように、明るくヒデさんに声をかける。

「……私も歳だな」

 ハットを被り直して、どこかうわごとのように呟くヒデさん。

「そんなことないです。俺から見たら、相当元気があると思いますよ」

 そんなヒデさんに、俺はなんて言えばいいかわからなくて。慰めにすらならないとわかっていても、そうやって声をかけてしまう。

「ははは……。ありがとう快斗くん。君は優しいな」

 そう言うヒデさんは、今にも消えてしまいそうな気がした。

「——い、今も卵焼きは作ってるんですか?」

 物理的な意味か、そんな気がしただけなのか、自分でもよくわからないけど。俺は、何かでヒデさんをここに繋ぎ止めておかないと、って思ったんだ。

「今日も作ったよ。……食べるかい?」

 俺の焦燥感に似たものを、ヒデさん自身も感じているのだろうか。その口ぶりは卵焼きに縋っているような印象を受ける。

「いいんですか?」

「ああ。もちろんだよ。……茉莉さんもよければ」

「わたしもいいんですか? ありがとうございます!」

「それじゃあ、そこのベンチに座りましょう」

 そう言うとヒデさんは、ゆっくりと、東屋の下にあるベンチを指差した。

「そこのベンチに座るの、十六年ぶりです」

「……そうか。あの日を思い出すね」

「俺、今日こうしてまたヒデさんの卵焼きを食べられて、本当に嬉しいです」

「……私もだよ」

 ゆっくりとした足取りで、乱れてもいないハットを被り直して。ヒデさんはベンチの前に立つと、これまたゆっくりとした動きで腰を下ろした。

「あの、本当にわたしも食べていいんですか?」

 同じようにベンチに座った茉莉ちゃんが、再度ヒデさんに確認を取る。

「もちろんですよ」

「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 茉莉ちゃんはそう言うと、ヒデさんの膝の上に広げられた弁当箱に手を伸ばす。膝の上の弁当箱には、到底一人では食べ切れないであろう量の卵焼きが綺麗に並べられていた。

「いただきます!」

 いつもよりも少しだけ、元気な声で茉莉ちゃんは言う。右手に持った爪楊枝には、綺麗な黄色をした卵焼きが一つ。

「快斗くんもどうぞ」

「ありがとうございます」

 ヒデさんはゆっくりとした手つきで鞄から爪楊枝を取り出すと、俺に差し出してくれた。

 爪楊枝を受け取って、卵焼きに刺す。卵焼きのいい香りが鼻腔をくすぐる。

「……茉莉さん?」

 口を開けて卵焼きを食べようとした時だった。ヒデさんが困ったように茉莉ちゃんに声をかける。

「どうしました?」

「だ、大丈夫?」

 俺もヒデさんと同じように、困ってしまった。

「……うん。大丈夫だよ」

 俺はヒデさんと目を合わせる。なんて言えばいいかわからなくて、二人でその場に立ち尽くす。

 俺たちをそうさせたのは、茉莉ちゃんの頬を濡らす涙だった。



 *******



 わたしの初恋は、小学生の時。

 相手は近所の男の子。一つ年上で、やんちゃだけど優しくて。わたしが同級生にからかわれていたら、すぐに助けに来てくれるような人だった。

 最初は、彼に抱く想いをどう説明すればいいのか、好きになってしまった彼とどう接すればいいのか、何もわからなかった。

 そんな時、相談に乗ってくれたのがおばあちゃんだった。

 まだまだ思春期も来ていないような年頃で、『人を好きになる』ということがどういうことなのかすら理解していないわたしの恋心を、おばあちゃんは優しく受け止めてくれたんだ。



 *******




「ねえ、ばあば」


「どうしたの?」


「あのね、茉莉ね、好きな人ができたの」


「あら。どんな人なの?」


「近所に住んでるタケルくん!」


「あの角のお家の?」


「そうなの!」


「そう。よかったね。茉莉はタケルくんのどんなところが好きなの?」


「あのね、タケルくんはね、足も速いし、テストもいっつも満点! それに、茉莉に優しくしてくれるの」


「へえ〜。それはすごいわね」


「でしょ、でしょ? えへへ」


「いいなあ。茉莉には好きな人がいて」


「ばあばは好きな人いる?」


「うん。いるよ」


「いるんだ! 誰?」


「茉莉のじいじって言えばいいのかな」


「じいじ!? いるの? 会いたい!」


「うふふ。そうよね」


「じいじ、どこにいるの?」


「どこにいるんだろうね。私にもわからないんだ」


「えーっ! 会いたい〜!」


「ばあばもじいじに会いたい〜! ……なんてね」


「……あれ? ばあば、泣いてる?」


「え? ……ああ、違うのよ。あくびしちゃったの。茉莉もあくびをしたら涙が出るでしょう?」


「出るけど……。でも、大丈夫?」


「大丈夫。大丈夫だから、心配しないで。ありがとうね」


「ばあばかわいそう……。好きな人に会えないなんて」


「大丈夫だって。それに、私の好きな人はじいじだけじゃないのよ?」


「そうなの?」


「うん。私の好きな人は、じいじと、あなたのママとパパ。そして、茉莉。あなたのことも大好きなの。だから私はじいじに会えなくてもへっちゃらなのよ?」


「ほんとに?」


「うん。本当よ」


「そっか。……ねえばあば」


「何?」


「茉莉ね——」



 *******



 涙が止まらない。

 そんなわたしのことを、快斗くんが心配してくれている。

 本当なら、涙なんかすぐに止めて、笑顔を見せて安心させるべきなんだけど。「大丈夫だよ」と言うのが精一杯で、わたしの涙に困っている二人に、涙の理由を説明をすることもできなかった。

「茉莉ちゃん。何かあった?」

 快斗くんの声。優しい声。「悲しいことは何もないよ」と声には出さずに首を振るけど、それが快斗くんにちゃんと伝わっているかはわからない。

「……私の卵焼き、失敗してしまったかな」

 少しおどけたように、ヒデさんが膝の上にある卵焼きを見ながら言った。

「そんなことない……。とても美味しかったです……」

 わたしはヒデさんの明るい声を遮るように言った。たとえわたしを元気付けるためだとしても、こんなに美味しい卵焼きを失敗だなんて呼んで欲しくなかったんだ。

「そうですか……。それは嬉しいなあ」

 わたしが泣いた理由が、ヒデさんの作った卵焼きが不味かったからではないとわかったからか、ヒデさんは少しだけ笑って、卵焼きをもう一つわたしに差し出してくれた。

「……ありがとうございます」

 遠慮することも忘れてそれを受け取り、すぐさま口に運ぶ。

 わたしが『人を好きになる』ということを知らなかった頃、体の全てが卵焼きで出来上がってしまうくらい食べても飽きなかったあの味が、口の中に広がった。

 と同時に、とある約束を思い出した。大好きなおばあちゃんに、わたしが一方的に交わした不思議な約束。


 ——茉莉ね、いつかじいじに会える気がする。もしも会えたらね、じいじに卵焼きを作ってあげるの!


 それを聞いたおばあちゃんは大粒の涙を流していたっけ。

 わたしがおばあちゃんから卵焼きの作り方を教わったのは、それからすぐのこと。

「……ヒデさん。この卵焼きの作り方、誰かに教わったりしました?」

 わたしの声は涙によって震えることはなく、いつも通りに唇をすり抜けた。

 涙はいつの間にか止まっていて、少し遅れて、「嬉しかったんだ」って気づいた。

 嬉しい時も、悲しい時も。同じように涙を流すわたしたちの複雑な感情の輪郭が、大粒の涙で滲んで見えづらくなっていただけだったんだ。

「この卵焼きの作り方を教えてくれたのは、私が生涯で一番愛した人です」

 ヒデさんは泣き止んだわたしを見てホッと胸を撫で下ろした後、恥ずかしがることもなくそう言った。

「その人のこと、今でも大好きですか?」

「——はい。大好きです」

 わたしの質問に、ヒデさんは少年のような眩しい笑顔で答えてくれた。

「それなら、次に会った時はわたしの作った卵焼きを食べてください。わたしのおばあちゃんから教えてもらった卵焼きを、ヒデさんに食べてほしいです」

 笑顔を浮かべていたヒデさんの顔が少しずつ歪んでいく。堪えきれずに涙を流す少し前に、ヒデさんはハットで顔を隠しながら、大きく頷いた。

 わたしもなんだか嬉しくなって、今度は大きな声で笑いながら涙を流したんだ。



 *******



 見慣れた街の、見慣れた通りを歩く。

 心は晴れやかに、足取りは軽やかに。

 ——どうして人は、嬉しい時にも涙を流すのだろう?

「……エリ。私は幸せ者だ。こんな老いぼれの、最期の無茶な願いを叶えてもらった」

 見慣れた街が、涙で滲んだ。


 いつ死んでもよい。と、投げやりな気持ちで買っていたコーラはもう、やめにしよう。

 若かった私たちの苦い思い出の味は、で愛する人と再会した時の楽しみに取っておこう。


「……ああ、死にたくねえなあ」

 風の吹く街に、ハットを抑えながらそっと語りかけるように呟く。


 ——私は明日も、卵焼きを作ろう。

 遠い昔、エリから教えてもらった大切なレシピで、現在いまを生きる茉莉さんが作る卵焼きに負けないような、とびきりのを。



 *******



 ヒデさんと茉莉ちゃんは笑いながら散々泣いた後、泣き腫らした目はそのままに、どこか晴れやかな表情を浮かべていた。

 ヒデさんの少年のようなキラキラとした瞳から溢れる大粒の涙。茉莉ちゃんの眩しい笑顔。

 俺が卵焼きを食べただけじゃきっと、わからないようなことが二人の中にはあるんだろう。そんなヒデさんが少しだけ羨ましく思えて、でも俺の中に嫌な気持ちは一切なくて。二人の笑顔があまりにも綺麗だったから、つられて俺も涙ぐんでしまった。

「快斗くん、今日はありがとう」

 ヒデさんが初土公園を去った後、茉莉ちゃんは涙を拭いながらそう言った。

「そんな、別に感謝されるようなことなんて俺は何も……」

「ううん、ここに連れてきてくれたことだよ。それと、ヒデさんに会わせてくれたこと。快斗くんがいなかったらきっと、ヒデさんには一生会えなかっただろうから」

 茉莉ちゃんはそう言うと、ニコッと笑う。長くて綺麗な髪がサラサラと揺れて、思わず抱きしめたくなった。

「だから、ありがとう」

「そっか。……どういたしまして」

 今度は茉莉ちゃんから感謝の言葉を否定することはしなかった。

「……ねえ、快斗くん」

「どうしたの?」

「また、一緒にここに来ようね」

「うん。もちろん」

 また、という言葉が嬉しくて、顔が綻ぶ。

「次来る時は、卵焼き作って持ってくるから。楽しみにしててね」

「本当? 俺も食べていいの?」

「いいよ。ヒデさんだけじゃなくて、快斗くんにも食べてもらいたいの」

 それまで街並に向けられていた茉莉ちゃんの瞳が、じっと俺を捉えたような気がした。

 時間が止まったような感覚。

「……茉莉ちゃん」

 この瞬間を逃したら、もう二度と一緒にはいられない。そんな感覚。

「……俺、将来はヒデさんみたいな大人になりたいんだ。あの人みたいに、歳を重ねられたら、って」

 少しだけ、遠回り。余計なことだと思われるかもしれないけど、四年も続く俺の恋心にケリをつけるためには、少しばかり助走が必要だった。

「……快斗くんならきっとなれるよ。わたしが保証する」

「なんだか崎山先生みたいな言い方だな……」

「だって本気でそう思ってるんだもん」

「そうか。……うん。茉莉ちゃんがそう言ってくれるなら、できる気がしてきた」

「いいじゃん。その意気だよ!」

 茉莉ちゃんが笑顔でそう言った。

 四年前。俺たちがまだ高校生だったあの日。俺は君の笑顔が見たくなって、勇気を出して挨拶をしたんだ。

「あのさ、茉莉ちゃん」

 あの子を元気づけてあげて、なんて言われたこともあるけど。元気をもらっていたのは、実は俺の方だったんだ。

「うん。どうしたの?」

 だから今度は、今度こそは俺が、君のことを……。

「俺、ずっと茉莉ちゃんのことが——」

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