最終話 【夏希】と【葉汰郎】

 十二年前と同じようなシチュエーションで、に手を引かれながら走った。

 風の吹くまま、何も考えずに。右に曲がり、左に曲がり、あえて真っ直ぐ走ったりしてみたんだ。

 今、確信した。

 もしも人生というものが、私たちが知らないだけで、一度きりじゃなかったとしても。

 私の人生ならきっと、どこかのタイミングでこのにたどり着くんだ、って。

 そして、私の隣にはもちろん——。



 *******



「やっと着いたね」

 シノ……いや、夏希が息を切らしながらそう言った。

 ずっと走り続けて、ようやくたどり着いた初土公園の入り口で座り込んでいた俺は、首を縦に動かすだけで返事はしなかった。

「ねえ、大丈夫?」

「……大丈夫だぞ」

 何度か深呼吸を繰り返して、やっとの思いで夏希の呼びかけに答える。

「もうちょっと休む?」

「いや、あそこの東屋までなら歩けるよ」

「本当に? 『思い出した!』って叫んでからずっと黙ってたから、ちょっと心配してるんだけど」

 夏希の右手が俺の頬に触れた。手の温もりと共に、自分のことを心配してくれている嬉しさが込み上げてくる。

「ありがとう。でも、本当に大丈夫だぞ」

 ゆっくりと立ち上がって三回ほど深呼吸を繰り返す。

「……じゃあ、あの東屋に行こうよ」

 俺の背中に夏希の両手が優しく触れる。

「いや、背中押してもらわなくても大丈夫だって」

「ううん。これは十二年前のお返し。実はあの時ね、乾くんの背中を押してるのを見て、ちょっと嫉妬してたんだ」

「あ、そうなの?」

「うん。私のはね、疲れたフリだったんだよ?」

「なんだ。それなら押さなきゃよかったなー」

「あ、君ってそういうこと言うんだ?」

 夏希の背中を押してくれる手の力が強くなる。東屋までの坂を登っている足が、俺の想像よりも大きく動いて悲鳴を上げた。

「わ、悪かったよ。冗談だから許して」

「ふふふ。わかってるよ」

 慌てた様子の俺を見て、夏希が笑いながら手の力を緩める。

「危なかった。足がガクガクするところだったぞ」

「休んでもいいのよ?」

「やっとここまで来れたんだ。どうせ休むんなら、あそこがいいよ」

 東屋を視界に捉えて、俺はそこを指差した。

「……そうね」

 夏希の手が、優しく俺の背中を押してくれた。



 *******



 東屋に着くまでの少しの間。葉汰郎くんの背中を押している際に、私は昔のことを思い出していた。


『ほら、夏希。泣いてないでようたろうくんのお見舞いに行くよ』

「……うん」

『失礼します。私、鈴木夏希の母でございます。この度は主人がお宅の息子さんにとんでもないことをしてしまいまして。なんとお詫びすればいいか……』

『ああ、あなたが夏希ちゃんのお母様? とりあえず中に入ってくださいな。事の顛末は粗方ですけど瑞穂先生から聞いていますから』


 病院の中で、泣きじゃくる私の横でペコペコと頭を下げるお母さん。

 葉汰郎くんのお母さんは、そんな私たちを優しく病室に迎え入れてくれた。


「ようたろうくん……」


 ベッドの上には、頭に包帯を巻いた葉汰郎くんが寝ていた。


『さっきまで元気に起きてペラペラいろんなこと喋ってたんだけどね……。寝ちゃったのかな? 夏希ちゃんちょっと待っててね。今起こしてあげるから』

『ああ、やめてください。そんな、安静にしてあげてください。今日はお見舞いはもちろんですけど、お詫びさせていただきたくてここに来たんですから』

『いや、いいんですよ。この子ったら普段から寝てばっかだからね。ずっと寝てると牛になっちゃうよっていつも言ってるくらいですから』


 そう言って葉汰郎くんのお母さんは、葉汰郎くんの肩を優しく叩いた。


『ほら、葉汰郎起きな! 夏希ちゃん来てくれたよ』

『あの、本当に無理に起こさないであげてくださいね。申し訳ないので……」

『いやね、実はね、この子から夏希ちゃんのことをいっぱい聞いていたんですよ』

『うちの子のこと?』

『ええ。幼稚園から帰ったらすぐ、「聞いて! 今日ね、すごくかわいい友達ができたんだぞ!」って言い出したのが始まりで、夏希ちゃんに名札を作ってもらった日なんか大騒ぎでもう……』


 私のお母さんと葉汰郎くんのお母さんは会話を続ける。そうしている間も葉汰郎くんは痛々しい姿で寝ている。涙は止まらなかったけど、葉汰郎くんが私のことを嬉しそうに話してくれていることを知れて、私は少しだけ嬉しくなる。


『……私、この子がさっきまで起きていたって言いましたよね? あれは実は、ずっと夏希ちゃんのことを話してたんですよ』

『そうだったんですか……』

『正直に申し上げますと、私はお宅のご主人を許すことはできません。うちの子に手をあげて、こんな風にしたことは一生許しません。これはうちの旦那も同じ意見です。

 けどね、瑞穂先生から色々とお宅の事情を聞いて、葉汰郎から夏希ちゃんのことを聞いて、夏希ちゃんのためにも、お母様のことだけは絶対に責めないようにしようって決めていたんです』

『そんな……』


 涙ぐむお母さんを見ていた時だった。視界の隅で、葉汰郎くんがゆっくりと起き上がる。


「……あ」

『葉汰郎。あんたやっと起きたのね。ほら、あんたの好きな夏希ちゃんだよ。お見舞いに来てくれたんだって!』


 葉汰郎くんは寝ぼけた顔で病室を見渡す。そして、私の顔を見ると、眩しいくらいの笑顔を浮かべてくれた。


『夏希。来てくれたんだ』

「うん」


 笑顔の葉汰郎くんに対して、平常心で話そうとする私の心は、葉汰郎くんの頭に巻かれた包帯のせいで不安定にグラグラと揺らぐ。


『夏希……泣かないで』


 頬を大粒の涙が流れていく。

 葉汰郎くんは身を乗り出して、優しく頭を撫でてくれた。


『なあ、夏希。おれ、絶対にすぐ治して元気になるからさ。また一緒に遊ぼうな』

「……ごめんね」


 健気に笑うようたろうくんに、「うん」と答えるべきだとわかっていたのに、私は泣きながら謝る。


『気にするなよ。おれさ、夏希のこと……』



 *******



 東屋は十二年前と同じ場所、公園の中の少し高いところで俺たちを迎えてくれた。

「さすがにちょっと老朽化してる気がするけど、見た目はそんなに変わってないね」

 夏希の手がゆっくりと背中から離れる。残った温もりに名残惜しさを感じつつ、俺は東屋から街を見下ろす。

「いい眺めだな」

「そうね」

 風が吹く。俺の服も、夏希の髪も、東屋に絡まっている藤も。今ここにある全てが風と手を取るように踊り出した。

「……なんて呼べばいい?」

「あなたはなんて呼びたい? ちなみに、シノって呼ぶのは嫌だから。あと、鈴木はもちろん、篠原とかもナシよ?」

「……それだと、夏希って呼ぶしかないな」

「嫌なの?」

「嫌じゃないよ。恥ずかしいだけ」

「じゃあ、名前で呼んでほしいな」

 夏希がちらりとこちらを見る。

「わかった。呼ぶよ。でもその前に……」

「何よ?」

「俺のことはなんて呼びたい?」

「あなたはなんて呼ばれたいの?」

「さっきからズルいぞ」

「ふふふ。私、結構ズルいから。覚悟してね?」

 夏希が笑顔になる。風に靡く髪が、その笑顔に彩りを与えてくれた。

「俺、十二年前のこと、思い出せてよかったって思ってる」

「……うん。私も同じだよ」

「本当か? 嫌なことも思い出しただろ?」

「そうね。でも、それでも……」

 そこまで言って夏希は、恥ずかしそうに髪をいじりながら街に視線を移した。

「……私にとって、葉汰郎くんとの思い出は何よりも大切なものだったのよ」

「……そうか」

 嬉しくて、夏希が俺のことを名前で呼んでくれたことに気づけなかった。

「……私は勇気を出したのに、葉汰郎くんは呼んでくれないんだ?」

 いたずらな笑顔。けど、その瞳は少し潤んでいた。

「なんだよ。しれっとどこかのタイミングで言おうと思ってたのに」

「——今言って欲しい」


 風がやたらと強く吹いている。

 緩やかな坂道を登った先にあるこの場所は、街を見渡すことができる。

 俺はただひたすらに、彼女の横顔を眺めていた。


 彼女の目に映るは、風の吹く街。


 街が涙をこぼす前に、俺は彼女を抱きしめる。そして、ずっと言えなかった言葉を風に吹かれるまま、口にするんだ。


「大好きだよ。夏希」

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