第74話 【シノ18】と【ダイバ33】

「ようたろうって誰?」

 ミキヤの声。表情は笑顔のままだけど、声色は明らかに怒気を孕んでいた。

「あなたには関係ないでしょ?」

 怖くてたまらないけど、せめてもの抵抗で冷たく言い返す。

「うん。関係ないよ? でもさ、シノの口から飛び出た男の名前ってだけでさ、なんかムカつくじゃん」

「……ミキヤくんは、私をどうしたいの? 私と、どうなりたいの?」

 顔だけは整っていて、女の子には困っていないはずのミキヤが、どうして私なんかにここまでこだわるのか。その理由が知りたかった。

「……最初はさ、俺に靡かない子だからって理由だったんだよ。俺さ、自分で言うのもアレなんだけど、結構モテるんだよね。だからシノにそっけない対応をされた時は、すごくイラッとした」

 ミキヤは能面のような笑顔を崩して、少し真面目な顔で話し始めた。

「シノとモモちゃんが初めてだった。俺がアプローチをして靡かなかった女の子は。それからかな。シノのことをなんとかして振り向かせようって躍起になってたら、いつの間にか好きになってたんだよね」

「……そうだったのね」

 今のミキヤの言葉が本音なのかはわからないけど、ミキヤが私を狙う理由はわかった。

「……ごめんね、シノ。怖がらせちゃったよね。もうこんな思いは二度とさせないから、許して?」

 私の表情が緩んだ瞬間だった。ミキヤの顔がもう一度作り物のような笑顔に変わって、私の右手を両手で包み込んだ。

「……どうして綾子は狙わないの?」

 右手から全身に伝わる生暖かい嫌な感覚を振り払うように、私はミキヤに問いかける。

「モモちゃんよりもシノの方が俺の好みだったから……かな。そもそも、俺って同時に何人も愛せるような器用な男に見える?」

 右手を包むミキヤの手の力が少し強くなった。

「……見えるけど」

 どんどん増していく右手の生暖かさに、私は我慢の限界を越えてしまった。

「は?」

「ミキヤくんは、確かにカッコいいかもしれない。そういう経験はもちろん、異性とのお喋りも同年代の子と比べたら上手かもね。でもね、ミキヤくんは同性にはモテないでしょ?」

「同性にモテる? どういう意味?」

 ミキヤに握られている右手が少し痛んだ。

「……ほらね」

「……ったく、本当にイライラするなあ!」

 ミキヤは私の右手を離して、自身の右手の拳を大きく振りかぶる。ミキヤの右手がものすごい速度で眼前に迫ってくる。けれど、なぜかその拳は私に触れる前に勢いを落として止まってしまった。

「どうしたの? 殴りたければ殴れば?」

「……なんでビビらないんだよ? 俺、本気でシノのこと殴ろうとしたのに」

 明らかに不機嫌な表情を浮かべるミキヤは、私の顔に触れる前に止めたせいで居場所を失って宙に浮いたままだった拳を下ろした。

「なんとなくね、感じるの」

「は? 何を?」

「いや、こういう場合は信じてるって言った方がいいのかな」

「ねえ、俺の質問の答えになってないよ? なんでビビらないのかって聞いてんだけど」

「好きな人を信じているから、かな」

 私の言葉に、ミキヤの顔が歪んだ。その顔面を見て、鳥肌が止まらなくなる。


 その時だった。


「——ほらね」



 *******



 風になったみたいだった。

 ろくに運動もしていないはずの俺の足は、どこまでも軽やかに動き続けた。俺の心が、この街のどこにいるかもわからない彼女を必死に求めていたんだ。

 茉莉に酷いことをしてまで、彼女を探す道を選んだ。

 今思えば、全てはあの日の和歌を読んだ時に感じた奇妙な感覚から始まっていた。

 あの和歌を初めて読んだ時も、久留島駅で彼女と再会した時も、この感覚は俺に教えてくれていたんだ。「何か忘れてない?」って。


 彼女はこの街の住宅街を割くように伸びる十字路でミキヤに襲われそうになっていた。

 彼女を視界に捉えた瞬間、今まで酷使していたはずの足の速度を上げる。

「なんでビビらないのかって聞いてんだけど」

「好きな人を信じているから、かな」

 彼女の手を取る。優しく、でも絶対に離さないようにしっかりと。

「……ほらね」

 彼女は俺がそうすることを知っていたみたいだった。

 後ろの方でミキヤの怒鳴り声が聞こえるけど、当然のように俺たちは、一度も振り向くことはしなかった。


「……覚えてる?」

 彼女は少しだけ息を切らしながらそう言った。

「何を?」

「十二年前も、こうして君は私を守ってくれたよね」

 彼女の嬉しそうな声を聞いて、過去の記憶を掘り起こそうとしてみる。が、すぐに後頭部が痛んで、うまく思い出せなかった。

「……まだ思い出してないんだ?」

「快斗から粗方聞いてはいるんだけどな」

「え? 快斗って、乾くんのこと?」

「そうだぞ。あいつとは幼稚園以降もずっと同じ学校に通っててさ。ずっと友達なんだよ」

「それじゃあ、この前私が一緒にいた乾くんはもしかして……?」

「シノさんってさ、小さい頃は舌足らずだった?」

「そうだけど……」

「苗字はずっと篠原?」

「ううん。本当はこの名前を思い出すのは好きじゃないけど、昔は鈴木だったよ」

「……そうか」

 全てを思い出せなくても。苗字が変わっていても。大切な青春がめちゃくちゃになってしまっても。

 彼女が舌足らずな女の子と同一人物だってことがわかれば、俺にはそれで十分だった。

「それなら、この前水族館でシノさんと一緒にいたやつは、小さい頃にシノさんと仲良かった快斗だぞ」

「そっか。だからあんなに話しやすかったのか……」

「たぶんその様子だと、快斗も気づいてなさそうだな」

「十二年も前のことだし、普通は気づかなくても不思議じゃないと思うけど」

「なら、どうして俺たちは気づけたんだろうな?」

「さあね」

 シノさんは笑いながら答える。そんなことはどうでもいい、と言っている気がした。

「それよりも、私たちずっとがむしゃらに走ってるけど、どこに行くか決めてるの?」

「……たぶん、ミキヤってやつからはもう逃げ切れたはずだよな」

「そうね」

 このままずっと走り続けていたら疲れてしまう。そんな当たり前のことは俺も彼女もわかっているけど、止まることはしなかった。

「もしかして、適当に走ってる?」

「適当……だな。でも、たどり着く場所はなんとなくわかるんだ」

「どこ?」

 彼女はたぶん、知っているんだろう。知っていて、答え合わせのつもりで俺に聞いてきたんだ。

 何度も味わった奇妙な感覚の中で、俺は確信していた。

「——初土公園」

「ふふ。……そんな気がしてた」

 彼女はかわいく笑って、俺の手を強く握った。

「やっぱりあなたは、

 彼女の声を聞いた、その瞬間だった。


 ——ようたろうくん。あたしはそのお名前、すきだよ。


 後頭部でずっと続いていた鈍い痛みは、静かに消えて。

 俺は全ての記憶を思い出していた。

「……思い出したぞ」

「え?」

「全部思い出した!」

 詰まっていたものが全て解消されたような開放感。全身の血の巡りが何百倍もよくなったような快感。どう表現してもしっくりこない嬉しさに気分が高揚する。

 彼女の手を握る右手に力が入る。もう少しだけ、と願いながら足を動かす。

 俺はその瞬間だけ、この街に吹く一つの風になっていたんだ。

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