第73話 【茉莉7】
「どうだ小野澤。少しは落ち着いたか?」
崎山先生の背中をさする手と優しい声が心に染みていく。
「はい……」
「失恋って辛いよね」
「辛いです……」
「私の昔の話、してもいいか?」
珍しく、いつもの堂々とした先生が少し気恥ずかしそうな声で言う。
「……はい」
「私にもね、初恋の人がいたんだ。その人は普段はふざけてて、でもいざって時にはちゃんとやるって感じで。なんで普段はふざけてるのかを聞いてみたら、変な理屈をぶつけられたりしてね。でもその理屈を聞いていると……どうしてかな、妙に納得してしまうというか」
「その人って……」
ダイバみたい。という言葉を言いかけて、慌てて飲み込む。
「あ、今ダイバみたいって思っただろ? その通りだよ。ダイバは私の初恋の人に似てるんだ」
「……だから先生、ダイバにちょっかいかけたりしてたんだ」
「まあな。でも、変な感情はないから安心してね。ちょっかいかけてるだけ」
「……本当ですか?」
落ち込んでいるわたしの心は、先生に対して余計な一言を添えた。
「もちろん。もう初恋の人への気持ちはとっくのとうに消化してるよ」
「……消化できたんですね」
「正確に言えば、消化するしかなかった。かな?」
先生はそう言うと、綺麗な青に大袈裟なくらい白い雲が浮かんでいる空を見上げる。
「その人ね、死んじゃったんだ」
「……え? どうしてですか?」
「彼とのデート中に事故に遭ったんだ。車道に飛び出た小さな子供を助けようとして……私の目の前で、ね」
先生の頬を、一筋の光が流れる。
「救急車の中で、彼に必死に呼びかけた。そしたら一瞬だけ意識を取り戻して、『ずっと大好きだよ薫。お前は幸せになれよ』って言われてな」
先生の話は、ダイバに振られただけで号泣していたわたしのちっぽけさを浮き彫りにした。
「ズルいよな。『幸せになれ』って。彼がいなくなったら、私は悲しいのに」
「先生……」
何も言えなくなって、思わず先生の手を握った。
「ごめんな。急にこんな話をして」
「いや……。むしろわたしの悩みなんて、どんなに小さなことだったんだろうって……」
「小野澤それは違うぞ。悩み事に大きいも小さいもないんだ。みんなそれぞれ悩みを抱えてる。当時の私にとっては彼が全てで、たまたま彼が事故に遭って死んだだけ。今の小野澤も同じだよ。小野澤にとってはダイバが全てで、たまたまダイバには他に好きな人がいただけ。
言葉にすれば簡単だけど、私たちの気持ちはそんなに単純じゃない」
先生は大きく息を吐いて、わたしの手をゆっくりと握り返してくれた。
「私が先生になったのは、きっと彼が死んだから。好きな人に好きだって言えなかった私みたいになってほしくなくて、私は先生になったんだよ」
先生の手はとても暖かくて、わたしはもう一度涙を流してしまった。
「だから、私は今から余計なことを言おうと思う」
「……え?」
「去年の五月のことだ。保健室で小野澤にいちごミルクをあげたのは誰だと思う?」
五月、いちごミルク。それらの単語はわたしにダイバを連想させる。
「ダイバ……です。だって、それがわたしがダイバを好きになったきっかけだから」
「ちなみに、誰が小野澤にいちごミルクを買ったのかっていうのは、保健室の先生から聞いたの?」
「そう……です」
先生の真剣な顔はわたしを不安にさせる。記憶の蓋をこじ開けて、保健室の先生の言葉を必死に思い出す。
——ほら、その、ダイバが私にいちごミルクを奢ってくれたときだよ……?
——悪い、それも覚えてない……
「倒れた小野澤を運んだのは、ダイバだよね?」
「それは、そうです。だって保健室の先生の口からダイバって聞きましたもん」
「運んだのはダイバだけなのかな?」
「……あ、そういえば二人組って言ってたような」
メガネの奥からわたしを見つめる先生の目が、妖しく光ったような気がした。
「小野澤にとって、爽やかな人って誰?」
——確かその子は……、倒れたあなたを保健室に運んでくれた二人組のうちの一人で、爽やかな子だったな。
「快斗……くん」
先生の言葉が、わたしがそれまで積み重ねてきた全てを壊していった。わたしが間違えていたこと全てを、真っ白な画用紙みたいに直してくれた。
「おーい! 茉莉ちゃん!」
タイミングよく、遠くの方から快斗くんの声が聞こえた。
「乾はね、間違えることも多いだろうけど、絶対にいい男になる。私が保障するよ」
「せ、先生……。それはさすがに切り替え早すぎ……」
「はっはっは!」
大きな声で笑う先生の手が、わたしの背中を押してくれた。
「茉莉ちゃん。大丈夫……?」
「う、うん。ごめんね。心配かけちゃって」
「そっか。……やっぱり、茉莉ちゃんは笑顔が一番だね」
「そ、そうかなあ……」
「そうだよ。うん。俺はそう思うな」
先生に言った通り、そんなにすぐには切り替えられないけど。
——わたしもいつか、快斗くんと仲良くなれるといいな。
爽やかな風に吹かれながらそんなことを思って、わたしは恥ずかしそうに笑う快斗くんの横を歩いていたんだ。
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