第72話 【シノ17】と【恵太と綾子4】
何かのネジが、ポロリと落ちてしまったような感覚がした。
「ごめん。ちょっとコンビニにトイレ借りるから先に行ってて」
同じ部活の友達にそう言って、私はいろいろなものから逃げた。
もしも久留島高校へ向かうこの道のりを、綾子と歩いていたら。きっと私は、逃げようだなんて馬鹿なことは考えなかったと思う。
「シノはさ、ミキヤくんとはどうなの?」
これが私が逃げた理由。
隣を歩く友達の口から飛び出たのは、酷く耳障りな言葉だった。
「何よ。何が、ミキヤくんとはどうなの? よ。ミキヤくんのことなんて、ずっと前から嫌いだって言ってるじゃない」
そう言って、道端の石ころを蹴飛ばした。
「……部活、サボっちゃったな」
自分が蹴飛ばした石ころが勢いよく転がりながら私から離れていくのを見て、久留島高校に向かう道とは真逆の方に向かっていることを少しだけ後悔した。
「かと言って今日はもう、バドミントンをする気力はないのよね……」
久留島高校に着いた後のことを考える。
逃げる前に一緒にいた子の話によれば、今日はヤスとミキヤが応援に来るらしい。これは自意識過剰ではなく、応援に来る目的は間違いなく綾子と私。
乾くんと彼も応援に来るみたいだけど、乾くんはともかく、彼が応援に来る理由は『まりさん』を応援するため。
嫌いな人と会わなきゃいけなくて、彼が他の誰かを応援するところを見てしまうかもしれない。そんなのは嫌だった。
そんなことを考えて、少しでも早く久留島高校から離れられるように、道を歩く速度を上げる。
「……見つけた。やっほー、シノ。今日もカワイイね」
私が住宅街の中の十字路を通り過ぎた時、後ろから嫌な人——ミキヤの声が聞こえた。
私は驚いて固まる。夏の暑い日に外に出ているのに、悪寒がした。
「どうしたの? みんな心配してたよ」
軽い言葉と共に、ミキヤが私の肩に手を乗せる。
「もしかしてさ、体調悪かったりする?」
私のことを気遣うような言葉。でもそれは上辺を取り繕っているだけの、風が吹けば飛んでいってしまうような軽い言葉だと、私の肩をしつこくさするミキヤの手が教えてくれた。
「なんか嫌なことでもあった? 俺でよかったら相談乗るよ? ……とりあえずこんな暑いところで立ち話もなんだから、カフェでも行って涼もうよ。ね?」
ミキヤは私の後ろに立って、両手で私の肩を触る。そして左頬に顔を寄せて、耳元で「シノの悲しい顔は見たくないからさ」と囁かれた。
「やめて!」
肩に乗っている手を思い切り払って、ミキヤから距離を置く。
「わ、ごめんごめん。さすがに今のはいきなりすぎたかな?」
「いきなりも何もないから。ミキヤくん、お願いだからもう私に関わらないで」
「……シノってさ、俺のこと嫌い?」
ミキヤは私の声を聞いて、少し不機嫌な顔でそう言った。
「ごめんなさい。正直に言います。嫌いです」
傷つけるつもりでもなく、ただただ、私がミキヤに抱いている純粋な感情をミキヤにぶつける。
「そっか。俺のこと嫌いなんだ。ふーん」
ミキヤは他人事のように言いながら、自分の右手の爪を気にしている。
「ならさ、俺を嫌いって言ったこと、絶対に後悔させてあげるね」
爪をいじりながらそう言って、私の方を見る。
ミキヤは、笑った瞬間の写真を一枚表面に貼り付けただけ、みたいな冷たい笑顔を浮かべていた。
「……後悔? 何をするつもり?」
「それはシノの想像に任せるよ。
俺さ、今日は特に機嫌が悪いんだよね。ダイバ? って変なあだ名のやつをボコそうと思ってたらよくわからない先生に邪魔されるし、ヤスも意味のわからないこと言い出して一人でどっか行っちゃうし……」
ダイバ、と聞いて胸が高鳴って、すぐに苦しくなる。
「シノさ、ダイバってやつ知ってるよね?」
ミキヤの問いかけに、私は何も答えずに後退りする。
「逃げないでよ」
私が後退りした分、ミキヤが距離を詰める。
貼り付けた笑顔が怖くて、走り出すこともできない私の背中に、硬い何かがぶつかった。それがすぐそばに建っている家の塀だと気づいた時には、ミキヤの笑顔はもう目と鼻の先にあった。
「もう逃げられないね?」
ミキヤの声。気持ちの悪い虫たちが私の体を這いずり回っているような、嫌な感覚。
「助けて。……ようたろうくん」
*******
「モモ。ごめんな休憩中に」
「あ、ヤスじゃん。やっほー。どうしたの?」
「……お前のこと、応援しに来た」
「ふーん。ミキヤくんは?」
「わからない」
「わからない? いつも一緒なのに珍しいね」
「アイツはたぶん、シノのことを探しに行った」
「それは本当?」
「ああ」
「ねえ。なんでミキヤくんのこと止めなかったの? シノに何かあったらどうするつもり?」
「……すまん。正直に言って、俺はもうアイツとは関わりたくないんだ」
「だからって……。さっきから何度もシノに電話してるんだけど、全然出てくれないし、本当に心配してるの」
「俺もシノを探すつもりだ。ミキヤよりも先に見つけて、守る」
「じゃあなんでここにいるの? それを報告しに来てくれたってこと?」
「それもあるけど、本当の理由はもう一つある」
「何?」
「お前とシノに謝りたかったんだ。俺はついさっき気づいた。俺はずっと、顔がよくて上辺だけの人気があるミキヤと一緒に調子に乗ってた」
「ヤス……」
「本当にすまなかった。モモたちの気持ちを考えずに行動して、嫌な気持ちにさせちまった」
「私のことに関しては別にいいけど、本当に迷惑してたのはシノだからね? シノには土下座の一つでもするくらいじゃないと、許さないから」
「そうだよな。……すまん。せめてもの償いじゃないけど、もうミキヤがシノに近づかないように努力する」
「うん。そうしてくれると助かるよ」
「なあ、モモ。もっと早く自分の間違いに気づけていたら、モモは俺のこと……」
「——ヤスはさ、仮病使ったことある?」
「え、急にどうした?」
「いいから。使ったことあるの?」
「そりゃあ、何度もあるぞ」
「……私が好きになる人はね、仮病をするにも一世一代の覚悟が必要な人なの」
「一世一代の覚悟? そのくらい真面目な人ってことか?」
「ううん。そのくらい面白くて、ビビッと来る人ってこと」
「……すまん。よくわからん」
「わからなくても大丈夫だよっ! ……それと、シノのことを探しに行かなくても大丈夫だと思うよ」
「え? どうして?」
「今ね、一世一代の覚悟で仮病を使った人がメッセージで教えてくれたんだ。シノの大好きな人が、シノのことを助けに行ったみたいだよ」
「なんだそれ……」
「ヤスもいい人見つかるといいね。バイバイ」
「栗原くん!」
「あ! 綾子さーん!」
「やっほー!」
「いやあ、さっきダイバとすれ違ったんだけどさ、鬼の形相で走ってて声もかけられなかったよ」
「それはね、ちょっといろんな事情があるんだ」
「そうなんだ」
「……ねえ、わざわざ仮病使って来てくれたんだ?」
「ああ、うん。親友にさ、仮病の使い方を教えてもらったから」
「あはは。なにそれ」
「顧問の先生に電話をかける時さ、すごくドキドキしたんだよ。きっと親友に仮病のやり方を聞いてなかったら、無断で休んじゃってたかもなあ」
「……どちらにせよ来てはくれたんだ」
「うん。綾子さんに会いたかったから」
「……そういう栗原くんの思ったことを素直に言うところ、ズルいよ」
「ごめん。でも、今日はどうしても綾子さんに伝えたいことがあってさ」
「何?」
「綾子さんの試合が終わったら言うよ」
「ダメ。今言って。じゃないと栗原くんのことが気になりすぎて、試合に集中できなくなって負けちゃうかも」
「う、心の準備が。でも僕のせいで負けちゃったらそれも申し訳ない……」
「ほら、早くしないと行っちゃうよ?」
「……わかった。言う。言うよ」
「うん」
「……綾子さん! 僕、栗原恵太は、あなたのことが大好きです。僕はまだまだダメダメなところもたくさんあると思いますが、綾子さんのことを絶対に幸せにするので、僕と付き合ってください!」
「……はい」
「え? ほ、本当?」
「本当だよっ! あ、でも一つだけ言わせてもらうと、幸せにするってところは
「え?」
「私は、栗原くんと一緒に幸せになりたいな」
「……なんだよ。綾子さんもズルいな」
「あはは!」
「……というか、時間大丈夫?」
「あ、やば! もうこんな時間なの? 体育館行かなきゃ!」
「綾子さん! 頑張れー!」
「うん! ……あ!」
「どうしたの?」
「栗原くん! 私も大好きだよっ!」
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