第71話 【茉莉6】と【快斗15】
わたしの視界に映るダイバの顔が、涙で滲んだ。
本当は泣きたくなんかないのに、大粒の涙が頬を滝のように流れていく。
「小野澤、大丈夫か?」
崎山先生の声が聞こえて、すぐに肩に手の温もりを感じた。
「先生……」
必死に喋ろうとする。けど、声の震えと痙攣したように揺れるわたしの体がそれを阻んだ。
「とりあえずどこかに座ろう。少し落ち着いた方がいい」
肩に添えられた先生の手の力が、少しだけ強くなった。わたしはそんな先生の手に従うように、ゆらゆらと歩き始める。
途中、快斗くんとすれ違ったような気がした。
*******
俺の軽やかな足取りは一瞬にして崩れ去った。
理由は単純。好きな人が泣いていたから。
泣きじゃくる茉莉ちゃんに付き添っている崎山先生が、「ごめん。今はそっとしておいてあげて」と俺に目配せをする。
茉莉ちゃんは俺に気づいていない様子で泣き続けていた。
茉莉ちゃんたちとすれ違ってしばらく歩いていると、ダイバとメグの二人が体育館の近くで何かを話しているのが見える。
「ダイバ! メグ! おーい!」
二人の元へ駆け寄る。
「あ、快斗くん」
メグは俺の方を見て、小さく手を振ってくれた。
対してダイバは、俺の顔を見ることもせずに俯いている。
「……ダイバ? どうしたの?」
「いや……ちょっとね。なんて言えばいいのかな」
俯いたままのダイバの代わりに、メグが答えた。
泣いていた茉莉ちゃんと、明らかに様子のおかしいダイバ。
「もしかして……」
——茉莉ちゃんが泣いていたのは、ダイバのせい?
そう言いかけて、言葉を飲み込む。
「何?」
「いや、なんでもないよ」
「……快斗くん、茉莉に会った?」
「うん。会ったというか、さっきそこですれ違っただけだけどね」
「そっか」
メグはそう言うと、ダイバの方を見る。
当のダイバは俺たちのことなんか気にも留めていないみたいで、ずっと斜め下の方を向いて黙りこくっていた。
「ダイバ、なんかあったの?」
俺の問いかけに、ダイバは目だけをこちらに向ける。
「茉莉ちゃんと喧嘩でもした? 俺なんかでよかったら、話聞くよ?」
泣いている茉莉ちゃんを見た後で、少し無理があるかもしれないけど、俺は出来る限りの愛想をダイバに振りまいた。
「なあ、ダイバ。何があったんだよ……」
ダイバの肩を掴む。
どんなに呼びかけても依然として変わらないダイバの様子に、取り返しのつかない事態になっているかもしれない、という恐怖が襲ってくる。
「俺さ、前にダイバたちに嫌なことしたよね? だからこそ、ダイバたちには笑っていてほしいんだよ……」
肩を掴む手に、思わず力が入る。
ダイバは俺の手をゆっくりと払って、ただ一言、「ごめん……」と言っただけだった。
「ごめんじゃない……。俺が聞きたいのは、ごめんじゃないんだよ」
払われた手を、もう一度ダイバの肩に乗せる。今度は掴むだけじゃなくて、大きく揺さぶる。
「快斗くん、やめてあげて。茉莉たちはもう……」
そんな俺を止めるようにメグが言う。
「なんだよ……。なんだよそれ。おばあちゃんの家で俺がダイバに言ったこと、忘れたわけじゃないよね?」
「忘れてねえよ……」
俺の声に、ダイバは弱々しく答えた。
「なら! なら、どうして茉莉ちゃんを泣かせるようなことするんだよ!」
「……快斗くん?」
俺の感情が、メグの静止を振り切る。
「俺は! ……俺は必死に茉莉ちゃんのことを諦めようとしてたんだ! 何度も諦めようとして、それでも諦められなかった。俺の隣に、茉莉ちゃんがいて欲しいって思ったんだ!」
茉莉ちゃんへの思いが爆発したように溢れ出てくる。今この場にはダイバだけじゃなくてメグもいるけど、そんなことはどうでもよかったんだ。
「でも、お前は俺の親友で、俺の大好きな人はお前を想っていて、そんな二人が仲良くしているのなら、今度こそ本当の意味で応援してやろうって。本当に好きだからこそ、その人の幸せを願うべきなんだって。そう気づいたから今俺はここにいるんだ!」
肩を掴んでいた手を、胸ぐらへと移す。そして、ダイバの着ていたシャツの襟を両手で思い切り掴んだ。
「お前がそんな顔をして俯いていたら! 茉莉ちゃんがあんな顔で泣きじゃくっていたら! 俺のこの気持ちはどうすればいいんだよ!」
それまでずっと、なすがままだったダイバが顔を上げてこちらを見る。
「なんだよ。見てないでなんとか言えよこの野郎!」
「……お前の気持ちなんか、知らねえよ」
「なんだと? 今なんて言った? もう一度言ってみろ!」
掴んでいた襟を、ダイバの首に押し付ける。
「お前の気持ちなんか知らねえよ! お前だって俺がどんなことで悩んでるか、知らないだろ!」
ダイバの体に力が戻って、腕が俺の首元に伸びる。
「なんだよ!」
俺の首元に伸びたダイバの手は、俺のシャツを掴んだ。首元に強い衝撃が来て、苦しくなる。
「俺にとって、茉莉もシノさんも同じくらい大切な人だったんだ!」
「贅沢なこと言うなよ! だからって茉莉ちゃんを泣かせていいわけないだろ! そもそも、お前がそうやってウジウジ悩んでるから二人は悲しい思いをしてるんじゃないの?」
「大切だからこそ答えは簡単に出せないんだろ! でもな、これだけは言っておく。今気づいた。俺が本当に好きなのは茉莉じゃなくて、あの子なんだ!」
ダイバはそう言い切った。ということはつまり、メグの言う通り、本当に茉莉ちゃんとダイバの関係は終わってしまったということ。
「そうさ! 俺が全部悪い! 茉莉を泣かせたことも、久留島のチンピラみたいなやつらに喧嘩を売られたことも、快斗を怒らせたことも、ぜーんぶ俺が悪い!
快斗の言う通りだぞ。俺がウジウジしていたのがダメだったんだ」
ダイバは大きな声で、開き直るように言った。
「お前な……!」
「でも俺は! 誰かを怒らせても! 誰かを泣かせても! 誰になんと言われようと譲れない、譲らない! ……そう想える人があの子だって、気づいた!」
ダイバは少し泣きそうな顔でそう言って、すぐに涙を払うように笑った。
そしてダイバは、俺の胸ぐらを掴む手に力を込めて「快斗!」と叫んだ。今まで一度も聞いたこともないようなダイバの大きな声に、俺は思わずダイバの首元から手を離して耳を塞ぐ。
「お前はどうなんだよ? もう一度だけ言うぞ。俺はお前の気持ちなんか知ったこっちゃねえんだよ! 二人を応援? そんなに茉莉のことを想っているなら、応援なんて下らないことしてないで自分で想いを伝えろよ!」
両手で塞いだはずの耳に、ダイバの声がビリビリと響いた。
「茉莉を泣かせた俺を許してくれ、だなんてこれっぽっちも思ってない。茉莉を泣かせたのは俺のせいだから」
ダイバの手から力が抜けていく。洋服は掴まれた時のシワを残しつつも、ふわふわとした開放感を纏っていた。
「快斗くん。ダイちゃんの言う通りだよ。私も茉莉の友達として、茉莉を悲しませたダイちゃんに怒りたい。でも、今は違うと思う」
全てを見ていたメグが、ぐちゃぐちゃになった俺の洋服を手で整えてくれる。
「快斗くんが茉莉のことを好きだったなんて、知らなかった。快斗くんにこんなに想ってもらえるなんて、茉莉は幸せ者だね」
「メグ……」
メグは手をゆっくりと離して、俺に微笑んだ。そして、俺に背中を向けてダイバの方に見る。
「ダイちゃんはどうするの?」
「俺は……」
「帰る? 少なくとも今日はもう、茉莉と会うのは気まずいでしょ」
「……俺は、シノさんを応援する」
「……え? もしかして、シノって人もバド部?」
「そうだぞ」
俺がつけたダイバの服のシワを直していたメグが顔だけをこちらに向けて、信じられない、という表情を浮かべた。
「そっか。だから今日、
「信じてもらえないかもしれないけどさ、元々は茉莉の応援のつもりだったんだ」
「でも、ここに来てシノさんの方が好きなことに気づいちゃったんだ?」
服を整えた後、メグは笑いながらダイバの胸を少し強めに叩いた。
「痛っ」
「茉莉のことを泣かせたんだからそのくらい我慢しなさい」
「ごめん」
「もう私には謝らなくていいよ。好きになっちゃったものは仕方ないでしょ」
メグは大きく息を吐いてそう言った。
「……その代わり、もしも今日シノさんと試合する機会があれば、その時は容赦しないから」
「それは怖いな……」
「ダイちゃん知らなかったの? 失恋した女の子は怖いんだよ?」
ダイバにそう言って、メグは俺の方を向いた。
「快斗くん。早く茉莉のところへ行ってあげてよ。私、快斗くんのこと応援するからさ」
「メグ、ありがとう」
「いいから。早く行きなよ」
メグはそう言った後、「私は先に体育館に戻ってるから」と足早に去っていった。
「……快斗。本当にごめんな」
メグの姿が体育館の中に消えて、その場に残ったのは俺とダイバだけだった。
「いや、いいよ。ダイバも茉莉ちゃんのことを傷つけたくて傷つけたわけじゃないってわかったから」
「それじゃあ、俺はシノさんを応援してくる」
「うん。俺はダイバとメグに言われた通り、茉莉ちゃんのことを全力で応援して、自分自身の気持ちを伝えることにするよ」
嫌なこともたくさんあったけど、全てを出し切った開放感と心地のよい疲労感に包まれて、俺もダイバも、自然と笑みがこぼれる。
「……俺たちがこんなに喧嘩するなんて、初めてじゃないか?」
「ダイバは覚えてないかもしれないけど、実は十二年前にしてるんだよ。その時はヒデさんにすぐに諌められたけどね」
「本当か?」
ダイバが目を大きく開いた。
「うん」
「きっかけは?」
「……ヒデさんが聞いてきたんだよ。好きな人いるかい? ってさ。そしたらダイバが『いるよ! ねえ、ヒデさん。好きな人に、月が綺麗ですねって言うと告白になるって本当?』って言い出してさ」
「漱石の言葉だな」
「うん。今なら俺もそうやって答えられるんだけど、当時の俺はさ、ダイバが突然意味のわからないことを言い出したって思ったんだよ」
「それで喧嘩に?」
「そう」
「なんだよ。下らない理由だな」
「だよね」
ダイバが笑った。俺も、同じように笑う。
「……お互い、頑張ろうな」
「そうだね」
ダイバに背を向ける。
「……あ」
茉莉ちゃんに会いにいくために歩き出してすぐ、重要なことを思い出した。
「ダイバ!」
振り返ってダイバを呼ぶ。
「どうした?」
「さっき校門の前で背の高い人と顔が整ってる人が言ってたこと、今思い出した。シノさん、
「え?」
「確か、『コンビニでトイレ借りるから』って言ったきり姿が見えないって言ってた」
穏やかだったダイバの顔が一瞬にして険しい表情に変わった。
「それはミキヤが言ってたんだな?」
「……えっと、ミキヤって顔の整ってる人のこと? だとしたらそうだよ。なんかシノさんのこと探しに行くって言ってた」
俺がそう言い切るや否や、ダイバが猛スピードで走り出した。
「ダイバ!」
ダイバの背中がどんどん遠くなっていく。
十二年前のあの日、俺とクゥちゃんの手を引いてくれたあの背中を思い出した。
「……頑張れ」
風が吹いて、髪が靡く。通路の端に溜まっていた木の葉がカサカサと音を立てた。
「俺も大好きな人のために頑張ろう」
急に吹き付けるようになった強い風に、想いを乗せるように呟く。
誰も知らないから、と俺自身も気づかないフリをしていた俺の茉莉ちゃんに対する気持ちを、今度は間違えずに、時間がかかってもいいから真っ直ぐに伝えたい。
そんなことを想いながら茉莉ちゃんの元へと向かったんだ。
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