第70話 【ダイバ32】と【快斗14】

 崎山先生の声が聞こえた時、助かった——と思った。

 ヤスたちに喧嘩を売られ、茉莉と口喧嘩をして。

 大輔さんに気を遣ってもらってまで来た久留島高校を、シノさんが通うこの高校を、嫌な思い出でいっぱいにはしたくなかったんだ。

「もしかして、喧嘩でもしてた? 大きな声がお手洗いにまで聞こえてたけど」

 先生はいつもよりも穏やかな口調で、俺たちに話しかける。

「……お姉さん綺麗だね。俺たちはみんなで仲良くお喋りしてただけだから。気にしないでよ」

 ヤスがミキヤと呼んだ男が言う。ミキヤの口は、軽くてよく回る口だった。

「あら? あなたずいぶんお喋り上手なのね」

 ふざけた態度のミキヤに合わせるように、先生の仕草や口調がいつもと少し変わる。うまく言えないけど、先生はミキヤを子供扱いしているような印象を受けた。

「よかったら今度お茶でも行く? いっぱい楽しませてあげるよ」

「ごめんなさい。私、あなたみたいな子はタイプじゃないの。特に、私の大事な教え子たちに乱暴しようとするようなお子ちゃまはね」

 先生の言葉を聞いて、メグが思わず吹き出す。ミキヤは驚いた表情で何度か大きな瞬きを繰り返していたが、メグが笑ったことで一気に不機嫌な顔に変わった。

「あんた、先生なの?」

「そうだよ。君はここの高校の生徒さんだよね?」

「だったら何?」

「なら、もうこんなことはやめなよ。今みたいな態度を続けていたら、君の周りはもちろん、君自身も損するから」

「意味がわからないな」

 ミキヤは先生のことを鼻で笑って、首を傾げる。

「……ま、忠告はしておいたから。ダイバが本当に君の彼女さんに手を出したのかどうかは別にして、これ以上騒ぎを起こすのなら、久留島高校にいる私の知り合いの先生に報告するからね」

 先生はそう言って、ヤスたちに背を向けてこちらを見る。ミキヤとはもうこれ以上話したくない、という空気を先生から感じた。

「みんなは怪我とかしてない?」

「大丈夫です」

 メグの言葉に、俺と茉莉はゆっくりと頷いた。

「おい、待て! まだ話は終わってねえぞ!」

 先生の背中越しに、ヤスの声が聞こえる。

「やめなよ、って言ったのが聞こえなかった?」

「おい、ヤス。先生がいるところじゃさすがにマズイって。それに……」

 ミキヤを手で制して、ヤスが続ける。

「先生よお、ミキヤが言ったことはたしかにマズイかもしれねえけど、そこにいるあんたの教え子が俺に舐めた態度を取ったのは事実だぜ?」

 ヤスの大きな指が、俺に向く。先生はヤスの指先を追うように俺を見て「そういうことか」と呟いた。

「あー、君がヤス君?」

「そうだけど?」

「私、君がダイバに喧嘩を売ったって聞いたけど」

「は? それはそこにいるやつの出まかせに決まってんだろ?」

「出まかせ……ね。もし君が言うことが本当だったとして、その時その場にダイバ以外にもう一人いたよね?」

 すぐに大輔さんのことを言っていると気づいて、大輔さんの下手くそなウインクと、シノさんの太ももの感触を思い浮かべてしまう。

「いや……」

 先生の視線がヤスを真っ直ぐに貫く。反対に、ヤスの目は宙を泳いでいた。

「私、その人から聞いたんだよ。ダイバがシノって子を助けたってね」

 先生の言葉に、ヤスは口をパクパクと動かしながら狼狽える。

「やるじゃん」と、メグが俺の肩を叩いた。

「もう一度だけ言おうか。君たちがどうしてそんなにイライラしているのか、どうしてダイバを目の敵にするのか全くわからないけど、もうこんなことはやめなよ」

 やめなよ。という先生の一言は、ヤスにとどめを刺したみたいだった。

「チッ……!」

 何も言えなくなったヤスは、舌打ちをしながら俺たちに背を向けた。

「ヤス! おい、ちょっと待てよ」

 ヤスの大きな背中が遠ざかって、ミキヤは慌ててそれを追いかける。

「サキちゃんカッコいい〜!」

 メグがピョコピョコ跳ねながら先生の手を握る。

「はっはっは! さすがにちょっと緊張したけどなんとかなったな」

 先生がいつもの調子に戻って、はしゃぐメグの手を握り返した。

「……だから言ったろ?」

 盛り上がる二人を横目に、俺は茉莉にそう言った。

「……ごめん」

 茉莉はいつものように俺の目を見つめることもなく、俺の足元辺りを見つめながら小さな声で言った。

「……あの人、シノって言うんだよね?」

「そうだけど、それがどうした?」

「シノさんがダイバに最低って言った理由、わからないの?」

 それは俺が、シノさんに下手なごまかし方をしてしまったから。それを茉莉に言えるわけもなく、俺は茉莉の問いかけにどう答えるべきか考える。

「わたしはわかるよ」

「え?」

「……きっと、シノさんはダイバのことが好きなんだよ」

 茉莉の瞳から大粒の涙がこぼれる。

「茉莉……」

 俺が伸ばした手を、茉莉は優しく拒絶する。

「もう一度だけ……最後に聞くよ。ダイバにとってシノさんは、ただの知り合いなの?」

 口を開く。今黙ったままでいたら、俺はきっと茉莉を傷つけてしまう。

「その……」

 奇妙な感覚。後頭部がズキズキと痛んだ。

「……そうだよね」

 何も言えずにいた俺に、茉莉は声を震わせながら言う。

「やっぱりわたしなんかじゃ……ダイバとは付き合えないよね」

 茉莉はポロポロとこぼれる大粒の涙を、手で拭うこともしなかった。



 *******



 ——久留島の街は、少しずつ変わっているな。

 久留島高校までの道のりを、そんなことを思いながら歩いていた。

「あれか……」

 住宅街の中にそびえ立つ大きな建物が、民家と民家の間から見える。

「それにしても今日は暑いな」

 着ているシャツをパタパタとはためかせながらそんなことを呟く。

 何も見ずに歩いた割にはそこまで迷うこともなく、久留島高校にたどり着けたことに少しだけ気分がよくなる。

「なあヤス。これからどうする? あの先生に言われっぱなしじゃ嫌だよな?」

 大きな校門の前に、恵太くらいの背丈の大きな人とやたらと顔立ちの整っている二人組がたむろしているのが見えた。

 大きな人は見るからに不機嫌な顔つきで、思わず久留島高校へ向かう歩みを止める。

「まあな。でも、あの先生の言う通り、このままじゃダメだって気もするんだよな」

「……え? どうしたんだよ」

「逆にミキヤはなにも感じなかったのかよ?」

「感じなかった? そんなことないね。あいつらに一泡吹かせないと気が済まないな」

 このまま校門を通ろうとすると二人に絡まれそうな気がした。携帯をいじるフリをして、遠くから二人の会話を聞く。

 二人の表情は細かい部分まで読み取ることはできないけど、顔が整っている人の発言に、大きな人は困惑しているようだった。

「……なあ。ミキヤはどうしてそんなにシノにこだわるんだ?」

「なんでそんなこと聞くんだよ」

「いや、単純に気になっちまった」

「……シノはさ、普通にかわいいだろ?」

「まあ、いつもモモがそばにいるせいで感覚が麻痺しそうになるけどな」

「モモちゃんはかわいすぎて気を遣っちゃうけど、あいつは適度にかわいくてちょうどいいんだよ」

「お前、マジか」

「それに、俺が狙ったのに一切なびかなかった子はシノが初めてなんだよ。俺的にはそれが許せないんだよね」

 シノと綾子、という名前が二人の口から飛び出て、思わず声をあげそうになる。

「お前、すげえな……」

 大きな人の声は、感嘆というよりも畏怖の念が込められている気がした。

「でさ、なんかさっきバド部の子から連絡が来たんだけど、シノがまだ久留島高校ここに来てないらしくてさ」

「それは本当か?」

「うん。途中まで一緒に友達と高校に向かってたらしいんだけど、『コンビニでトイレ借りるから先に言ってて』って言ったきりシノが姿を見せてないんだって。

 ……だからさ、シノを探しに行かない? シノが危険な目に遭ってたら、それを助けて俺の好感度も上がるだろうし、なんか嫌なことがあれば相談に乗ってあげて仲良くなれるだろうしさ! ……どう?」

 ——こいつ、最低じゃないか。

「……悪い。もうお前には付き合ってらんねえわ」

 ヤスが頭をかいて、校舎の方へと歩き出す。

「は? おい、どうしたんだよヤス!」

「お前さ、ちょっと顔がよくて女にモテるからって調子に乗りすぎ。シノを探すんなら一人で勝手に探しに行けよ」

 ドロドロとした怒りに似た感情が、ヤスと呼ばれた人の発言で少しだけ解消される。

「……なんだよアイツ。ノリ悪いな」

 大きな体が校舎の中に消えていく。

(……あ、やばい。ここでボーッとしてたら茉莉ちゃんの試合が始まっちゃうかもな。)

 急いで校門を抜ける。

 体育館に近づけば近づくほど、応援の声やシューズの擦れる音がより鮮明に聞こえるようになる。

 茉莉ちゃんがここにいる。そんなことを思うと、少しだけ恥ずかしくなって歩く速度がゆっくりになる。けど、すぐに会いたい気持ちが強くなって速度は元に戻る。

「本当、不思議だよな……」

 俺はどこか満たされた気持ちで久留島高校を歩いていたんだ。

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