第68話 【シノ16】と【ダイバ31】

 まりさんも私と同じようにバドミントン部に所属していて、八月二日の試合で私か綾子と対戦する可能性がある。ということと、乾くんが久留島高校に応援に来ることを聞いたのは、試合が行われる前日だった。

 乾くんがわざわざ久留島高校に応援しに行くと言っていた意味がわかったと同時に、私の心の中に浮かんできたのは彼の顔だった。

『まりさんの応援に行くんでしょ?』

 水族館で遊んだ日以降、教えてもらった乾くんの連絡先にメッセージを打ち込む。

『そうだよ』

『もし、私とまりさんが試合することになったらどっちを応援するの?』

『その質問はズルいよ。答えをわかってるくせに』

 慌てたような乾くんの顔が浮かんで、少し口角が上がる。

『ごめん。ちょっと意地悪したくなっちゃって』

『たぶんだけど、ダイバも久留島高校に応援に来ると思うよ。意地悪は俺じゃなくて、ダイバにしてあげてよ』

『なにそれ。まりさんの応援に来るであろう彼に意地悪するの?』

 メッセージを打ち込んで、少し胸が苦しくなる。本当なら、私を応援するために久留島に来てほしい。

 私は彼の名前も、連絡先も知らない。その事実は私の心を「だから彼がまりさんを応援するのは仕方がないことだよ」と慰めてくれたり、「ぐずぐずしていると、彼はまりさんと一緒に私の手の届かない場所へ行ってしまうよ」と脅したりした。

 携帯から目を離して、体をベッドの上に投げ出す。彼とまりさんが仲良くしている風景が浮かんでしまって、心にもやがかかる。

「せめて……試合には勝ちたいな」

 呟いて、虚しくなる。たとえ試合でまりさんに勝てたとしても、嬉しくなんてない。

 私の指先から少しだけ離れた場所に転がっている携帯が鳴った。メッセージの送り主はきっと乾くんだろう、と手を伸ばそうとして、止める。

「……ごめんね乾くん。今はちょっと、メッセージを読む元気がなくなっちゃった」

 誰にも聞こえない無意味な声を携帯にかけて、私は目を閉じた。

 まりさんのことも、メッセージのことも、何も考えずに横になる。そんな、明日から一番遠いひとときは、深い夜と入れ替わるようにしてどこかへ消えていってしまった。



 *******



 夏の暑さから逃れられるようによく冷やされた店内に、大輔さんの声が響いた。

「兄ちゃん! それは奥に置いとけ!」

 今日は八月二日。俺は『大輔』で朝の仕込みを手伝わされていた。

「次はこっちだ! 時間はたっぷりあるけどよ、料理っちゅうのは準備が大事だからな! 兄ちゃんも覚えとけよ!」

「はい!」

「……あれ? なんかわかんねえけど、今日はいつもより包丁の切れ味がいい気がするな」

「あ、それは昨日、大輔さんが崎山先生と口論してる時に俺がこっそり研いでおきました」

「……おい、それは本当か?」

 それまで細やかに動いていた大輔さんの手が止まり、声が鋭くなった。

「おい兄ちゃんよ。包丁コイツはな、言わば俺の相棒みたいもんなんだよ。勝手にイジんじゃねえ」

 怒鳴るわけじゃない。それでも大輔さんの声は俺の心を強く握った。

「すみま——」

「……と、言いてえとこだけど。一番悪いのは昨日薫とケンカして包丁コイツの手入れを怠った俺だ」

 謝罪の言葉を言いかけた俺を手で制して、大輔さんは頬をかいた。

「人様に料理を出して、お金をもらう。プロとして、道具の手入れは怠っちゃいけねえ。そういう意味では兄ちゃんのやったことは怒られるほど間違ってはねえよな」

「俺もすみませんでした。勝手に大輔さんの道具をイジってしまって」

 プロとして、という普段は豪快な大輔さんからは想像のつかない言葉を聞いて、思わず背筋を伸ばす。

「いや、いいんだ。ありがとな。というか、一番悪いのは薫のやつだな。あいつ、兄ちゃんがここで働いてるってわかった途端に何度も店に顔出しやがってよ」

「昨日も来てましたもんね」

 昨日、崎山先生にじっと見つめられながら接客対応をするという、なんとも奇妙な体験をしたことを思い出す。

「まあ、あいつも兄ちゃんと同じで要領はいい方だから、店の手伝いに来てくれること自体は邪魔ってわけじゃねえんだけど……。なあ?」

「……まあ、そうですね」

「邪魔だって思ったら邪魔って言っていいんだからな? 少なくとも、ここでバイトしてる瞬間だけは先生も生徒も関係ねえから」

「ありがとうございます」

「おう! ……っと、兄ちゃんそろそろ時間だぜ?」

 大輔さんは歯を見せて笑った後、店にかかってる時計に目を移して言った。

「え?」

「今日は半休取るんだろ?」

「そうですけど……」

 今の時刻は午前九時三十分。

「試合開始は十時からだって、昨日薫のやつから聞いたんだよ」

「もしかして……」

「久留島高校って言えば……シノちゃん。だろ?」

 大輔さんの下手くそなウインクが飛んだ。

「ほら、ぐずぐずしてるといいもんもダメになっちまうぞ!」

 少し強めに背中を叩かれる。俺はその勢いに任せて、店の出入り口に向かって歩を進めた。

「大輔さん。ありがとうございます」

 店のドアに手をかけて、振り返る。俺の中で一番深く、丁寧な挨拶を大輔さんに送る。カチャカチャと鳴る厨房の中から、大輔さんは左手だけを上げてそれに応えてくれた。


 ドアを開けるとすぐに、夏の嫌な暑さが全身を這いずり回る。

「ダイバ!」

 店の中の涼しさを恋しく思っていると、崎山先生の声が聞こえた。『大輔』の出入り口の前に停まっていた軽自動車の窓がゆっくりと下がる。

「あ、先生。おはようございます」

「おはようダイバ。これから久留島高校に行くんでしょ?」

「はい。今から向かいます」

「実は私も小野澤とか古坂たちを応援してやろうと思ってね。一緒に行かない?」

 先生そう言うと、俺に左手で助手席に乗るように促した。

「いいんですか?」

「うん。ちょっと狭いかもしれないけど、全力でくつろいでいいからね」

 車のドアを開けると、よく冷えた空気とオレンジのいい香りが俺を出迎えてくれた。

「ありがとうございます。失礼します」

 車内はとても綺麗で、汚したくなくて座席以外の部分になるべく触れないようにして中に乗り込む。

「はっはっは! そんなに気を使わなくていいんだよ」

 先生はそんな俺の心の内をいとも簡単に見透かしていたようで、大きな笑い声と共に俺の肩を軽く叩いた。

「いや、すごい綺麗なんで……つい」

「綺麗なものでも使ってたらいつかは汚れるんだから。気にしないでいた方が楽だよ」

「その“いつか”が俺になるのが嫌なんですよ」

 車の中を満たすオレンジのいい香りと、軽快に動き出した窓の外の街の様子が、俺に余計な一言を喋らせる。

「ダイバにいいことを教えてあげよう。人生にはね、そういう瞬間が必ずやってくるんだよ」

 ハンドルを握る手は緩めることなく、先生は優しくそう言った。

「いつか誰かの大切にしているものを汚したり、壊したりするかもしれない。いつか誰かのことを傷つけてしまうかもしれない。

 私だって、高校生の時は先生になるだなんて思っていなかったけど、今はこうやって大事な教え子に説教くさいことを言っている。その“いつか”は誰にでも訪れるんだよ」

 先生の運転する車はどこまでも静かだった。

「どう生きても、汚したり、壊したり、傷つけたりする。もちろん、傷つけられたりすることもあるだろうね。でも、私たちは誰かを助けたり、喜ばせることもできるんだよ」

 オレンジの香りに少しずつ慣れる。微かに揺れる車内は、少しずつ居心地のいい空間になりつつあった。

「ダイバは優しいから、気にしてしまうかもしれない。心を痛める瞬間もあるかもしれない。そんな時は周りの人を頼りなよ。優しいダイバだもん。助けてくれる人はたくさんいるはずだから」

「先生。……ありがとうございます」

「しまった。私が思ってる以上にいい話をしちゃったな」

 俺が助手席で頭を下げたことで我に返ったのか、先生は少し恥ずかしそうに頬をかいた。

「ほら、もう少しで久留島高校に着くよ」

 軽い咳払いをして、先生が前方を指差した。

「あれが久留島高校……」

 ——ここにシノさんは通っているんだ。

 唐突にそんなことを思って、不思議な気分になる。

「どうしたの?」

「……あ、いえ。実は俺のがここに通っていて。上手く表現できないんですけど、なんか変な気持ちになっちゃいました」

「知り合い……ね。同級生?」

「そうです」

「……もしかして、バドミントンやってたりする?」

 先生は冗談混じりのトーンで言う。

「やってます」

 俺の言葉に、初めて先生は驚いた表情を浮かべた。

「もし、小野澤とそのが試合をすることになったら……ダイバはどっちを応援するの?」

 こちらを向く先生の目は、俺の嫌いな目だった。俺の心を全て見透かしているような、あの目だった。

「わからないです」

「ということは、その人はダイバにとって小野澤と同じくらい大切な人ってことかな?」

 先生の問いかけに、俺は曖昧な笑顔を浮かべることしかできなかった。

「……今のは少し意地悪すぎたか。ごめん」

「いえ……」

「でも、ダイバにとっての“いつか”は、もしかしたら今日なのかもね」

 車がゆっくりと動きをとめる。エアコンの出力が徐々に弱くなっていって、最後には何も感じられなくなった。

 車のドアをゆっくり開けて外に出る。

「いつか、か……」

 大きな校舎を見上げながらそう呟く。

 そよそよと吹く小さな風は、この鬱陶しい暑さをごまかすわけでもなく、地べたに一枚だけ転がっていた深い緑色の葉をカラカラと転がすだけだった。

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