第66話 【快斗13】

「……乾くん、大丈夫?」

 シノさんに手を引かれて、ふらふらと水族館を彷徨っていた時だった。シノさんの心配そうな声が聞こえる。

「……うん」

 自分が思っているよりもだいぶ小さな声が出た。

 本当は嘘でも元気なふりをするべきなんだろう。でも、今の俺にはそんな簡単なことができなかった。

「無理はしないでね」

 ダイバが近くにいた時には考えられないくらい、シノさんの声は優しいものだった。

「ありがとう」

「ううん。それと、さっきはごめんなさい」

「え?」

 不意に見えたシノさんのキレイなつむじに、俺は驚いてしまった。

「えっと、まりさん……だっけ? あの人が言う通り、さすがにさっきの私の態度は空気を悪くし過ぎたかなって」

「あ、ああ……。なるほど」

 ——最低。

 恐ろしく冷たいシノさんの声が脳内で再生される。

 ダイバとシノさんの間に何があるのかはわからないけど、たしかに茉莉ちゃんが「嫌だ」と言う気持ちはわかる。

「……ダイバと何かあったの?」

 自分自身の気を紛らわすために、シノさんに尋ねる。

「なんて言えばいいかな……」

 髪を耳にかけて、シノさんは難しい顔でどこかを見つめる。

「……彼を見ていると、不思議な気持ちになるの」

 しばらく考え込んで、大きく息を吐く。そしてシノさんはゆっくりと喋り始めた。

「不思議な気持ち?」

「表現が難しいんだけどね。……懐かしい気持ち? って言えばいいのかな。初めて会ったような気がしないというか、ずっと前から知っていたような感覚になって、を思い出しそうになるの」

 控えめな声は、だんだんとはっきり聞こえるようになっていった。

「思い出してしまうことに対する不安もあったんだけど、それでも私、綾子の付き添いで久留島駅に行って彼に会えた時に『嬉しい』って思ったんだ」

 シノさんの瞳が、今までのような大人びた印象ではなく、少女のような無邪気さを帯びていくことに気がついた。

「ダイバのこと、好きなんだ?」

「え? ……そうなのかな?」

 自分でも笑ってしまうくらい、突拍子もない問いかけに、シノさんは否定することもなく真剣に悩んでいる。

「……羨ましいな。ダイバはモテモテだ」

 思わずそう呟いた。

「やっぱり、彼とまりさんって付き合ってるの?」

「付き合ってない、と思う。いや、付き合ってほしくない……かな?」

 真剣なシノさんの表情に、俺はどこか救われた気持ちになって、本音を吐き出した。

「まりさんのこと、好きなんだ?」

 大きく目を見開いて、シノさんが言った。

「うん。好きだ」

 吐き出した本音は止まらなくて、俺は素直に、自分の気持ちに正直に、一点の曇りもなく答える。

「ふーん」

 シノさんは柔らかく笑って、かわいく拳を握った。

「がんばれ。乾くん」

「がんばれって、シノさんさっきの見たでしょ?」

「でも、あの二人が付き合ってるのかわからないのよね?」

「まあ、そうだけど……」

「可能性が少しでもあるなら、挑戦した方がいいと思うんだけどな」

 シノさんの口角がゆっくりと上がる。不敵な笑みだった。

「あるのかな? ……というか、もしかしてシノさん、ダイバと茉莉ちゃんの仲を引き裂こうとしてる?」

「え? ……あ、いや。もっと彼のことを知りたいだけよ」

 シノさんは一瞬たじろいだ様子で何かを考える。けど、すぐにいつもの落ち着いたシノさんに戻って、さらりとそう言った。

「ダイバのことを知りたいだけなら、わざわざ茉莉ちゃんたちの間に割って入っていかなくてもいいんじゃ……」

「知りたいならね」

「ということは、好きなんだ」

 もどかしい気持ちになって、俺は思わず余計なことまで口に出してしまう。

「今、私が彼に抱いているこの気持ちが“好き”なのかどうか、ってところも知りたいの」

 シノさんは不貞腐れたように答えた。

「俺は好きだと思うけどな」

「どうして?」

「だって、好きじゃなかったらそんなに悩まないよ」

「乾くんは悩んでるの?」

「……悩んでるよ」

 茉莉ちゃんとダイバが二人きりでいる瞬間を思い出してしまって、胸が苦しくなる。

「ごめん。余計なこと言っちゃった」

 そんな俺の様子を見て、シノさんは慌てたように言った。

「いや、いいよ。どうせ家に帰って一人になったら、また今以上に落ち込むんだからさ」

 シノさんに気を遣われたこと、好きな子と一緒にいられない俺自身の不甲斐なさ、それらが俺をヤケにさせる。

「……また余計なこと言っていい?」

 シノさんが項垂れている俺の顔を覗き込んでくる。

「いいよ。正直、俺もシノさんに対して余計なことを言ってる気がするから」

「そうやってまりさんのことを真剣に想って悩んでる乾くんは、素敵だと思うな」

 俺の乾いた笑いを遮るように、シノさんは真っ直ぐに言葉を重ねる。

「……え?」

「特に、まりさんのことを『好きだ』ってハッキリ言った瞬間の乾くんの表情かお、すごく素敵だった」

 茉莉ちゃんのことが好きだって口に出した瞬間、どこか満たされていた。そんな俺の心の中が全て見透かされていたような笑顔だった。

「恋って苦しいし、辛いし、どうしようもない瞬間があるけど、それでも大切なものなんだよね。どこか、自分で自分を言い聞かせている部分もあるんだろうけど……」

 あれだけ賑やかな水族館の中に、シノさんの言葉を遮るものはなかった。

「まりさんや綾子みたいに誰かに想ってもらえたら、きっと世界一恵まれているんだと思う。乾くんや恵太くんみたいに誰かを想えるのなら、それは世界で一番幸せなことなんだと思う」

「シノさん……」

「私も誰かをそうやって想いたい。想ってもらいたい。その相手が……」

 心臓が、ドクドクと脈打つ。人生の風向きがガラリと変わるような、胸の高鳴りだった。

だったら、いいな」

 そう言って、シノさんは少し照れくさそうにはにかんだ。

「だから乾くんも、がんばれ」

「う、うん」

 なぜか俺まで照れてしまって、ぎこちなく答える。

 水族館の妖しい光が俺たちを照らす。歪んだ光の筋が、水と一緒に揺れる。

 今この瞬間の心地よさを覚えておきたくて、俺は目を閉じた。

(俺の隣には、茉莉ちゃんがいて欲しい。)

 歪んだ光も、揺れる水槽も、何も見えなくなって。後に残ったのは、純粋な想いだけだった。

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