第65話 【シノ15】と【ダイバ30】
胸が苦しくなる。どうしてかな。
「……あれ? 快斗? それに、シノさん?」
トンネル状になった水槽を気持ちよさそうに泳ぐアザラシは、瞬く間に視界の外に消えていってしまった。
「快斗くん、どうしてここにいるの?」
彼の横に立っている長くて綺麗な髪をした女の子が、私の横にいた乾くんに声をかける。
先ほどまでいた熱帯魚のエリアとは違って、トンネルの上の部分からは日の光が差し込んでいる。アザラシが泳ぐたび、小さな子の喜ぶ声やカップルの感嘆の声が聞こえる幸せなこの空間で、何も言えずに立ち尽くしているのは私だけだった。
「あ、もしかして、快斗くんの彼女さん?」
髪の長い子の無駄に元気な声。
「……え?」
乾くんは間の抜けた声をあげる。その元気な声が、乾くんの耳には一切届いていないかのような反応だった。
私は少し遅れて、必死に横に首を振った。
「……俺は、恵太たちと遊ぶためにここに来たんだ」
小さな声。乾くんは中身が空っぽの、表面を覆う皮膚一枚だけになったみたいだった。
私は彼に目を向ける。彼は悲しそうな、ばつが悪そうな、うまく表現できない表情でこちらを見つめていた。
そんな彼の様子に、視界にセットで映る髪の長い子の煩わしさも相まって、私は嫌な気持ちになる。
仲のいい会話に、楽しい場所で楽しそうな二人。
(——もしかして、デート?)
そんな言葉が脳裏をよぎって、体の芯の部分が冷える。
「あなたが言ってた用事って、これ?」
私は剥き出しになってしまった感情を隠すこともなく、彼の目を見つめる。
彼が私を助けてくれたあの日。一緒に回鍋肉を食べた時に、彼は確かに用事があると言った。その時私が感じた嫌な予感は、残念なことに的中してしまった。
「え? ダイバはこの人と知り合いなの?」
元気な声が聞こえる。
「あ、ああ。そうだぞ」
彼の当たり障りのない返答。
「知り合い、というか、もうほとんど赤の他人みたいなものだけどね」
私は私自身の感情に振り回されたみたいで、自分でも驚くほど冷たい言葉を投げかける。
「……なんか嫌な言い方」
綺麗な髪がさらりと動いた。
「茉莉?」
彼に『まり』と呼ばれたその子の視線は、しっかりと私のことを捉えている。
その子が嫌な気持ちになるのはわかる。だって今のは明らかに、私の言い過ぎだった。棘のある言葉で彼を傷つけようとしてしまったんだ。
(わかってる。わかってるの。でも……)
「行こ? 乾くん」
私は乾くんの手を引いてその場を離れようとする。
私が悪いのはわかってる。それでも、もうこれ以上この場にいたくなかった。
「……あ、うん」
子供のような反応と動きで、乾くんは私の後ろをついてくる。
後ろの方で彼の声が聞こえる。声が聞こえるだけで、彼が何を言っているのかまではわからないけど、私の心をイラつかせるのにはそれだけで十分だった。
「最低……」
彼に聞こえるようにそう言って、再び視界に映り込んだアザラシを無視して、私はその場を後にした。
*******
——最低。
シノさんに言われたその声は、俺が思っている以上に俺のことを傷つけた。
「何、あの人。すっごく嫌な感じ」
シノさんの最後の言葉が茉莉にも聞こえていたのかどうかはわからない。けど、茉莉はシノさんに対してかなり怒っている様子だった。
「せっかく楽しい気分だったのにな」
怒った後は、肩を落として悲しそうな声をあげた。
「茉莉……」
そんな茉莉になんて声をかければいいか。考えても答えはすぐには出なくて、茉莉の名前を口に出す。
「何?」
茉莉は悲しそうな顔をしたまま、俺のことを見つめる。
茉莉に悲しい思いをさせてしまったことが申し訳ない気持ちでいっぱいになって、俺は必死に考えを巡らせる。
——あなたが言っていた用事って、これ?
恐らくシノさんは、あの日の俺たちの『大輔』でのやりとりのことを言っているんだろう。どうして二十七日に遊べないのかを問われた時に、行けない理由を下手にごまかしてしまったことを。
「ごめんな」
「ううん。ダイバはなにも悪くないと思う。悪いのはあの女の人! 急にあんな嫌な言い方してさ!」
喋る内に怒りが復活してきたのか、茉莉の声が段々と大きくなる。
「わたしはダイバとあの人の間に何があったのかは知らないし、知りたくもない。だけど一つだけ確認させて」
そう言う茉莉の目は、どこまでも真剣で、怒りや悲しみに満ちていた。俺が茉莉に対する誠実さを少しでも欠けば、その瞳に込められた感情がそっくりそのまま俺を襲ってくるような気がした。
「あの人とは、ただの知り合いなんだよね?」
茉莉は縋るような声で、でもはっきりと思っていることを口に出して俺の目を見つめる。
「知り合い……だ」
これまでの茉莉やシノさんとの思い出が俺のダメなところを浮き彫りにしていく。自分で自分が嫌になる。
「本当に?」
シノさんは俺の脳内に浮かんだ舌足らずな女の子じゃないはずなのに、『ただの知り合い』と言おうとすると、あの和歌を聞いた時のような奇妙な感覚がそれを邪魔する。
「ねえ、答えてよ……」
悲しそうな声でそう言って、茉莉の指先がそっと俺の手のひらに触れる。それを振り払うことも、受け入れることも今の俺にはできなくて、ただただ小さな温もりを感じているだけだった。
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