第64話 【ダイバ29】と【快斗12】
キレイだった。とても。
ただそれだけなんだけど、それでも俺の大事な気持ちには変わりなかったんだ。
「ダイバ、こっちこっち! 見て! オワンクラゲって言うんだってさ! 可愛くない?」
周りよりも少しばかり暗く設定された『海月の園』という空間で、妖しく光を反射させる大きな水槽。その光の中をゆったりと泳ぐ海月に夢中な茉莉は、俺にそう言うと元気に手招きをした。
「オワンクラゲ?」
「そう。見てほら、本当にお椀みたいな形をしてるでしょ?」
茉莉の指先が、ふわふわと水中を漂うクラゲを追いかける。当のオワンクラゲはそんなことなんて気にも留めていないという風に優雅に水槽の中を漂い続けている。
「なんかね、刺激を与えると発光するんだって。光らないかな〜?」
茉莉の横にオワンクラゲの生態について書かれた看板がある。茉莉の発言はそこから来たものだとすぐにわかって、俺はクラゲから目を離して解説を読み始める。
「へえ〜。クラゲの中だと生命力が強いのか。『オワンクラゲはセレンテラジンという発光の素になる物質を自分で生成できません。なので、当館では餌にセレンテラジンを混ぜて与えています。そうするとオワンクラゲは綺麗に発光することができるのです』……へえ、すごいな」
読んだだけでオワンクラゲにとても詳しくなったような感覚。どうせ帰る頃には内容なんて綺麗さっぱり忘れてしまうだろうけど、こういう看板には読むだけで人を満足させる何かがある気がする。
「ねえねえダイバ! こっちのはミズクラゲって言うんだって!」
少し離れたところから、先ほどと同じように茉莉が手招きしていた。
俺は看板とオワンクラゲに名残惜しさを感じつつも、楽しそうな茉莉の元へ向かう。
「すごい数いるな」
「ね! みんなふわふわ泳いでるよ」
「こいつらの泳ぎ方かわいいな」
「……見てて飽きないよね」
「な。それに、なんか癒されるよな」
「わかる。なんか癒されるよね」
口数も少なく、見つめ合うこともない。でも、どこかで茉莉と繋がっているような感覚。
茉莉がアザラシの泳ぐ姿に興味を示すまで、俺たちはしばらくの間クラゲと同じような気持ちで、『海月の園』を漂っていたんだ。
*******
「キレイだね」
今日出会ったばかりの時を思うと、自分でも驚くほど自然な、敬語のない会話。
俺の隣にいるシノさんとは、話せば話すほど砕けた関係になった。まるで、俺たちがずっと昔からそうだったように。
「そうね」
俺とシノさんは今、二人きりで『熱帯魚の楽園』というエリアを回っている。
「今ごろ綾子たちは、うまくやってるかな?」
シノさんの声。友達として、百井さんの恋路の行く末が気になっているんだろう。
「大丈夫だと思う。あの二人、むしろ俺たちが邪魔なくらい仲良いから」
「あ、乾くんもそう思ってた?」
「うん。俺も二人の会話を生で聞いたのは今日が初めてなんだけど、めちゃくちゃ仲良いじゃんって思ったからさ」
「そうよね。私も全く同じこと思ってた」
シノさんが笑う。
「なんとなくだけどさ、二人も薄々気づいてるんじゃないかな?」
「何に?」
「恵太と百井さん、付き合うことになりそうだってさ。というかあの二人の仲はもう、ほとんど付き合ってるようなもんだけど」
普段なら、ダイバと恵太以外にこんなにはっきりと自分の考えを語ることは滅多にない。それなのになぜか、シノさんにはさらりと言える。
シノさんなら、少しくらい変な発言をしてしまっても許してもらえるような気がしたんだ。
「たしかに。私ね、恵太くんみたいないい人と出会えて本当によかったね、って思ってるの」
「本当に百井さんを大切な友達だって思ってるんだね」
「それもあるんだけど、その、綾子ってものすごい美人でしょ?」
眉間にシワを寄せて難しい表情を浮かべたあと、シノさんはそう言った。
「そうだね」
「だからさ、
「そうだったんだ。まあ、百井さんって女優さんだって言われても全然驚かないくらい綺麗だもんね」
「そう。……私なんかと違ってね」
一瞬、シノさんの表情に影がちらついた。
「……もしかして」
普段なら、自分の考えをはっきりと語ることは少ない。それでも。
「……いや、俺はシノさんも綺麗だと思うよ」
「……え?」
俺の、勇気を振り絞った末にこぼれたその言葉に、シノさんは大きく目を見開く。そして信じられない、とでも言いたげな表情のまま小さな声で「ありがとう」と呟いた。
しばらくの間、俺はどこを見つめていればいいのか迷って、水槽のふちの黒い壁に視線を置いていた。
「……熱帯魚、見ようか」
ものすごく長く感じた沈黙を破ったのは、シノさんの声だった。
「あ。う、うん」
俺は少しぎこちない動きでそれに応じて、近くにあった水槽に目をやる。
「この魚、綺麗だね」
目に映った魚は小さくて、金色をしていて、泳ぐ姿はとてもかわいらしかった。けど、今の『綺麗』は心の底からの感想じゃない。
「綺麗だね。……あ、もしかしたらこの子、友達の家で飼ってた熱帯魚かも」
「あ、この金色の魚って飼えるんだ」
「案外飼えるのかもね。ここにいる子も、友達が飼ってた子も、とってもかわいかったな」
シノさんの手が、そっと水槽に触れる。金色の魚はシノさんの指先に興味があるのか、口をパクパクさせながらゆっくりとシノさんの手を追いかけていた。
「ふふふ。……この子、かわいい」
そう言って笑うシノさんの横顔は、とてもキレイだった。
「ん? 乾くん、どうしたの?」
俺の視線に気づいたシノさんは、笑顔のままこちらを向いた。
「……その、シノさんって熱帯魚好きなんだな〜ってさ」
当たり障りのない言葉を並べて、最後には控えめな笑い声をあげる。そうやってシノさんの横顔を見つめていたことをごまかした。
「うん。好き」
それまで落ち着いた印象だったシノさんは、どこか無邪気な様子でそう言った。その口から飛び出た『好き』が、俺への言葉じゃないことに少しだけ嫉妬してしまうような、素敵な笑顔だった。
「……あ、乾くん。ヒレアシ動物って何?」
シノさんの視線が、俺の後ろの遠くの方に行ってしまった。
つられるように俺も振り向いて、シノさんの言葉の真意を探る。
「……ああ、ヒレアシ動物か。アザラシとかアシカとかそういう動物を表す言葉だよ。い……」
(行ってみる?)
そう言いかけて、やめた。俺の心が、そちらに行くと後悔するぞ、と言っているような気がしたんだ。
「アザラシ? 見たいな。行こうよ」
シノさんは熱帯魚から目を離してゆっくりと『ヒレアシ動物たちの楽園』というエリアに向かって歩き出した。
(行きたくない。)
理由はない。ただの、勘だった。そんなだから、言えるはずのないその言葉を必死に飲み込んで、どんどん進んでいくシノさんの後を追いかける。
(嫌だ。嫌だ。嫌だ。)
心がザワつく。悪寒がする。理由はわからないままだ。
「それにしても、乾くんって本当に頭がいいのね」
シノさんがくるりと振り返り、俺のことを褒めてくれているような気がする。
「ダイバ! 上見て!」
心臓が、止まってしまったような気がした。
「お。やっとアザラシ見れたな」
「かわいいね」
「かわいいよな。俺、生まれ変わったらアザラシになろうかな」
「ダイバがアザラシになったらずっとダラダラしてそうだけど」
「あ、言ったな? 俺は世界初のスリムアザラシを目指すぞ」
思わず自分の耳を疑う。
水族館で聞こえるはずのない二つの声。片方は小さい頃からよく聞いていて、もう片方は大好きな人の。
シノさんが何かを言っているけど、耳に入ってこない。
アザラシや人が気持ちよく泳ぐ水の中で、俺だけが溺れてしまったんだ。
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