第40話 【シノの過去3】

『おおさわ君』が『ダイバ』になってから、私は家に帰りたくないと泣くようになった。

 なぜ帰りたくないのか、その部分だけはうまく思い出せないけれど、幼稚園にずっといたいという気持ちだけは日を追うごとに大きくなっていった。

「帰りたくない!」

 その日も、私は泣きじゃくっていた。駄々をこねて友達を困らせていた。

 ようたろう君はどこか遠いところからここに通っているらしい。だから、本当はずっと一緒にいたかったけど、お迎えのバスが来たらようたろう君とは離れ離れ。

 かいと君の家はこの幼稚園の近くにある。帰る時間になると、大抵はかいと君のお母さんが迎えに来ていて、たまにお父さんがスーツ姿のままやってくる。たしかこの前は、かいと君のおばあちゃんが迎えに来ていた。

 羨ましい。かいと君の家族とのやりとりを見て、私は素直にそう思った。

『クゥちゃん。また今度遊ぼうよ。この前はダメだったけど、おばあちゃんの家、ぼくのお友達ならいつでも来ていいって言ってたよ!』

 かいと君が言う。泣いている私のために、少しだけ帰る時間を遅くしてくれているんだ。

「……ううん、お父さんがダメって言ってたから。本当は行きたいけど」

 ようたろう君がダイバと呼ばれてすぐ、今まで以上に仲良しになった私とかいと君とようたろう君の三人は、かいと君のおばあちゃんの家に遊びに行く計画を立てた。

 計画と言っても、私たち三人は自分の親にお願いをするだけ。「遊びに行ってもいい?」なんていい子のふりをして。

 そうしたら私たちの親は連絡網をすぐに取り出し、かいと君やようたろう君の家に電話をかける。

 ようたろう君の家は、ようたろう君に粗相がないように厳重注意をしつつもOKを出した。かいと君の家はお願いをしたその日に、何事もなくすぐにOKが出たみたい。

 そして、私の家。

 たしか、一回はOKが出たんだ。お母さんがかいと君やようたろう君の家の人と話している時、電話機の前で何度も頭を下げていた覚えがある。

 どうして最終的にOKが出なかったのか、私は必死に思い出そうとする。


(——夢が覚めてしまう前に。早く、早く)


 焦る気持ちの一方で、体がガタガタと震える。に会ってから、何度も感じた根源的な恐怖が私を襲う。


『夏希。その子の家に行って、何をするんだ?』


 知らない男の人の声。……私の、お父さん?


「……遊ぶの」


『だから、遊ぶのは知ってんだよ。俺はな、何をするんだ? って聞いてんだよ。なあ!』


 圧力。心をグッと鷲掴みにされる。少しでも間違った答えをしようものなら、怒鳴られるような恐怖。


(……怖い。怖い。怖い。)


『——クゥちゃん。おれ、明日からなるべくクゥちゃんと一緒にいられるように、母ちゃんにお願いしてみる』

 震えていた私の肩を、ようたろう君の小さな手が優しく掴んだ。

『だからさ、泣かないで』

 ああ、きっと、私は幼稚園にいたいんじゃない。

 ようたろう君のそばにいたいんだ。


 場面が変わる。


『クゥちゃん、ぼくね、今日お母さんのお迎えが遅いから、たくさん一緒にいられるよ!』

 かいと君が嬉しそうに言う。

 当然、私も嬉しくなって笑顔でそれに答える。

「え、ほんと? やったー! あなたは?」

 私はようたろう君の方を見る。

 どうしてもようたろう君のことを『ダイバ』とは呼びたくなかった。でも、私だけようたろう君と呼ぶのはなんだか恥ずかしくて、ずっとあなたって呼んでいたんだ。

『大丈夫! おれも今日はたくさん一緒にいられるぞ!』

 胸を張ってようたろう君が大きな声で言う。

 嬉しくなって、その場でぴょこぴょこと跳ねる。

『よかったね、クゥちゃん』

 そんな私たちのやりとりを眺めて、瑞穂先生は私の頭をゆっくりと撫でてくれた。

『何して遊ぼうか?』

 かいと君が言う。かいと君はおもちゃとサッカーボールを抱えている。

『……サッカーだろ!』

 ようたろう君はかいと君の手からボールを取ると、部屋の外へ駆け出していった。

『ようたろうくん! お部屋の中を走り回っちゃいけません!』

『あ、瑞穂先生ごめんなさい!』

 広場でようたろう君がペコリと頭を下げる。

『ちょっとやんちゃだけど、素直なところがようたろう君のいいところだね』

 瑞穂先生は私に小さくウインクをしてくれた。

「ようたろう君はいいところがいっぱいあるから」

『……ようたろう君のこと、好き?』

「……うん」

『よし! なら外に出てサッカーしておいで! ほら、二人とも待ってるよ!』

 瑞穂先生が優しく私の背中を押した。

 下駄箱に行って、靴を手に取る。マジックテープをベリベリと剥がす。

 早くようたろう君と遊びたい。その一心だった。

『お、夏希。そこにいたのか。今日は俺が迎えに来た。帰るぞ』

 靴を履き終えた私の頭上から、男の人の声がする。

 私の心臓はいつもの倍くらいの速度で動き始めた。

『どうした? 帰るぞ。早く支度しなさい』

 私は顔を上げられずに、じっとしていた。

『おい!』

 声が鋭くなる。

 その時だった。

『クゥちゃん、何してるのー? 早くサッカーしようよ』

 ようたろう君の声を聞いた瞬間、が私の体を動かしたような気がした。

 ようたろう君の元へ、走り出す。

『おい! 夏希!』

 後ろから男の人の声が聞こえる。けれど私はそれに構わず走り続ける。

 広場に出て、ようたろう君の手を引く。

『クゥちゃんどうしたの?』

 かいと君の声が聞こえる。

 それに答える余裕は今の私にはない。

『……あいつから逃げたいのか?』

 ようたろう君が下駄箱の方を指差す。私は前だけを見て素早く頷いた。

『……わかった』

 ようたろう君の手が一瞬離れて、すぐに私の手を掴んだ。

『ダイバくん! どこに行くの?』

 かいと君の声。

 よく見ると、ようたろう君は右手で私の手を、左手でかいと君の手を掴んでいた。

『この街のどこか! クゥちゃんが笑顔でいられる場所!』

 ようたろう君は元気に答える。

 勢いを落とすことなく、私たちは幼稚園の大きな門を飛び出す。

 瑞穂先生の声が遠くから聞こえるけれど、ようたろう君も私も、決して振り向くことはなかった。

 瑞穂先生や、あの人に怒られる。そんなことは微塵も気にならないほどにようたろう君の決断と行動は豪快で、自由で、愉快だった。

 私は笑う。楽しくて、楽しくて、楽しくて仕方がない。このまま、三人でどこか遠くへ。

 風が私たちの小さな背中を押してくれる。翼が生えたみたいに、私たちはこの街を走り続けた。

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