第37話 【快斗9】と【ダイバ18】と【12年前④】

 窓の外には緑。テーブルの上には一切手のつけられていないオレンジジュース。

 視界の隅には、さっきまでダイバが座っていたソファーが映る。

 今の俺の視界には、緑やオレンジはただの色、ソファーはただの家具としか映らなかった。それ以上の意味を考えることを、俺の脳みそが拒んだんだ。

 ——情けない姿を見られた。いや、見せてしまった。今度は俺がダイバを助けるって決めたはずなのに。

 ぐしゃぐしゃになった顔をティッシュで綺麗にしながら、俺はため息をつく。吐いた息で離れたティッシュが、吸った空気にひかれるように口の周りにへばり付いた。

「何ティッシュで遊んでるの? ダイバくん、帰っちゃったよ」

 おばあちゃんの声がする。ティッシュ越しの白い視界でも、俺に対して呆れているのがよくわかる声だった。

「しっかり謝ったのは偉いけれど、あの謝り方はよくないよ」

「……どこがダメだった?」

 本当なら自分で考えなければいけないことだと思う。でも今の俺は、どれだけ頑張ってもおばあちゃんの指摘に対する正解を絞り出せる気がしなかった。

「あんなに鼻水垂らして涙流してダイバくんを困らせて、それでいて自分が許せない、だなんてちょっと自分勝手すぎるかな。まあ鼻水とかは仕方ない部分もあるだろうけど、あんな顔されたら話したいことも話せなくなるね」

 ティッシュを丸めてゴミ箱に捨てる。

「……そうか。そうだよね」

「それに、謝った後に何か話す予定じゃなかったの? 結局あんたが謝って終わりになっちゃったじゃないの」

「……そうだね」

「快斗。あんた明日は必ず学校に行くのよ? 明日は金曜日だし、行かなかったら土日を挟んでしまうでしょ? そうなると学校に行きたくなくなるから」

「……うん」

 俺は頷く。おばあちゃんの言う通りだ。

「頑張りなよ。茉莉ちゃん、だっけ? 好きなんでしょう?」

「うん」

「なら、明日は学校行かなくちゃね」

 おばあちゃんはそう言うと、俺の背中を叩いた。

 俺はまた泣きそうになる。それは別に、背中を叩かれたからじゃない。

 窓の外に視線を移す。

 今、風は吹いていないのだろうか? 窓の外の綺麗な緑の葉っぱは、さっきとは違って微動だにせず、ただただじっとしていた。



 *******



 久留島の街は、俺にとってはなんの関わりもない、ただの街。そのはずだった。

 一人で歩いてみてわかった。俺はこの街が大好きだ。その理由は自分でもよくわからないけど、とにかく大好きだった。


 快斗のおばあちゃんの家を後にして、一人になった俺は考える。

(どうして俺の中には、小学校以前の記憶が無いのだろう?)

 快斗の泣き顔と、打ちひしがれている姿で忘れていた頭の痛みが再び俺を襲った。ズキ、と後頭部の辺りが痛む。

 俺は五歳の頃、快斗に連れられて快斗のおばあちゃんの家に遊びに行ったという。俺は快斗の、幼稚園でできた友達。

 幼稚園。俺は幼稚園に通っていたのか? それすらわからない。思い出そうとすると、何かが俺の邪魔をする。


 ——人は、嫌な思い出は忘れるんだよ。それでいいんだよ。


 渋い声が頭の中で響いている。


 ——僕は、いぬ……いと。……え? 前にどこかで会ったこと? ……じゃないか。……引っ越してきたばかりだから、……の友達は君だけ。よろしくね——。


 これは俺が覚えている快斗との思い出の中で一番古いもの。

 記憶が混濁する。

 俺が知る限り、快斗との初めての会話の内容は、これで合っているはずなんだ。


 ——よう……。あた……はそのお……、すきだよ。


 舌足らずで幼い女の子の声。この声の主は一体誰なのか。

 快斗の言うことが正しいのなら、この子も幼稚園でできた友達なのだろうか?

「じゃあなんだってんだよ?」

 俺の目の前には住宅街の中の交差点。その交差点の右手の曲がり角から、怒鳴り声というには小さいけど、楽しいお話というにはあまりにも無粋な音が聞こえる。


 ——やめて!


 悲痛な声。

 今の声が俺の脳内で再生されたものなのか、現実世界のものなのか、判断する前に俺は走り出していた。

 なんとなく、感じていたんだ。この曲がり角の先に、がいる——と。



 *******



 もう一度だけ。もう少しだけでいいから。

 そんな願いを叶えてくれたのかもしれない。

 目を覚ますと私はまた、あの幼稚園にいた。

 ようたろう君の温もりを思い出す。小さい体は、大きくなった私の体よりも鼓動が早かった。一生懸命生きているんだ、と思わされる。

 周りの景色は前と変わらない。滑り台、バネが付いたゾウとパンダの乗り物。そして、一際目立つお城。その下にクゥちゃんはいた。

 クゥちゃんは黙々と、一人で泥団子を作っていた。今回はそばにかいと君はいない。

 かいと君とようたろう君はどこか、とあたりを見回してみる。

『ヘイ! パス!』

『おおさわ君ありがとう!』

 お城から少し離れた場所で大勢の園児たちとサッカーをしているようだった。

『いけ、かいと! 決めろ!』

 かいと君の蹴ったボールは、そのまま誰の手に触れることもなくフェンスとフェンスの繋ぎ目あたりに直撃した。ガシャン、と緑色のフェンスが揺れる。

『やったー! ゴールだ! やったよおおさわ君!』

『ばか、かいと違うよ。ゴールはこの線からこの線までって決めたじゃん! だから今のはダメ』

 かいと君が決めたゴール、フェンスの前を守っていた子が、面白くなさそうな顔でかいと君に言った。

『えっ、今の入ってなかった?』

『入ってたよな?』

『ぼくもそう思う!』

 かいと君と同じチームの子は、当然かいと君の味方だ。

『おおさわ君もそう思うよね?』

 かいと君がようたろう君の意見を仰ぐ。

『うーん』

 ようたろう君が唸る。腕を組もうとしているけど、うまく組めていないのがとても可愛く思えた。

『入ってなかったと思うぞ』

 ようたろう君は考えたあと、きっぱりとそう言い切った。

『えー? ウソだー! 入ってたよ絶対』

『入ってたよ!』

 チームメイトは口々にようたろう君を責める。

『それでも俺は、入ってなかったように見えたんだ』

『えー?』

 ようたろう君の意見と態度に、他の子は困惑している様子だった。

『おおさわ君、僕の味方じゃないの?』

 かいと君はようたろう君に詰め寄る。

『味方だぞ。でも嘘は嫌だ。俺は嘘つきになりたくない』

 ようたろう君は譲らない。

『嘘つき……ひどいや』

 かいと君は、嘘つき、という言葉に過剰とも言えるくらいの反応を示した。

『もういい。俺、今日はサッカーやめる』

 ようたろう君はチラリとこちらの方を見ると、そう言った。

『え、おおさわ君どこ行くの?』

『どっか!』

『サッカーやろうよ』

『ごめん、今日はいいや』

 ようたろう君は呼び止める声を適当にあしらいつつ、こちらの方に歩いてやってくる。

 その姿に、私の胸はなぜかドキドキしている。

 クゥちゃんはようたろう君がこちらに歩いてくることに気づいているようだったけど、知らないふり。

 でも、口元は少しだけ緩んでいる。嬉しそうな顔で、知らないふりを続けている。


「ううん。知らないふりをしていたのは……だ」


 はっきりと声に出す。この声は、誰にも届いていないだろうけど。

 かいと君が一緒に遊んでくれなくて、拗ねていた私にようたろう君は優しい笑顔で声をかけてくれた。

 それがたまらなく嬉しかったことを、今、はっきりと思い出したんだ。

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