第35話 【快斗8】
おばあちゃんの家が心地よくて、俺はしばらくの間、綺麗に整頓されたリビングでくつろいでいた。
携帯を触ることも、学校のことも、勉強をすることも、バイトのシフトも。俺の日々を埋めるそのほとんどを忘れてふかふかなソファーに身を預けていた。
「なんだか溶けてるみたいだね」
そんな俺を見て、おばあちゃんは優しく笑った。今日だけは、俺がどれだけダラダラしていても許してくれるらしい。
「……うん」
返事も適当に、体はソファーにどんどん沈んでゆく。
時刻は十五時二十分。太陽も俺と同じように少しずつ沈んでいるのがわかってくる時間だ。
『ピンポーン!』
インターホンが鳴った。驚いたせいで体が変な動きをする。
家にお邪魔している時に、自分とは別のお客さんが来るのはなんだか恥ずかしい。ソファーに寝転がっていた体勢を直した俺は、心をどこかに遠ざけるように、おばあちゃんの家のインターホンはこんな音なんだ、みたいなどうでもいいことを考えていた。
「快斗! ダイバくんが来たよ!」
玄関からおばあちゃんの大きな声がした。
——ダイバ? どういうこと?
俺は首を傾げながらもソファーから立ち上がる。
何かの間違いじゃないか、と思いながらも玄関に向かって歩く。
「おばあちゃん、ダイバってどういう……」
寝転がったときについてしまった寝癖を梳かしていた手がピタリと止まる。俺の目の前には、本当にダイバが立っていた。
「よう。元気か?」
ダイバはどこか恥ずかしげに右手をあげて笑った。
「ダイバ……。どうしてここに?」
「崎山先生に頼まれたんだよ。国語の課題を渡してくれってさ」
そう言うと、ダイバはため息と共にカバンから一枚の紙を取り出した。
「……それでわざわざここまで来てくれたのか。ありがとう」
学校を休んだり早退したあとに友達の顔を見ると、恥ずかしいような、何かのイベントが始まる前のような、不思議な感覚になるのはなぜだろう? 俺は今、その不思議な感覚に溺れながらダイバと会話をしていた。
「いや、いいんだよ。困ったときはお互い様だからな」
からからと、何事もなかったようにダイバは笑う。きっと、こんな性格だから茉莉ちゃんはダイバに惚れたんだろう。
「でもびっくりしたよ。快斗のおばあちゃんが久留島に住んでるなんてさ」
「え?」
ダイバの発言に、俺とダイバのやり取りを優しく見守っていたおばあちゃんが驚く。
「あれ? あなた、ダイバくんだよね?」
「ええ。そうですけど……それがどうかしましたか?」
ダイバはダイバで、おばあちゃんの態度を見て、狐につままれたような顔をしている。
「ダイバってあだ名の子って二人いるの?」
おばあちゃんは俺の方を向いた。
「いや、ダイバなんてあだ名で呼ばれてるのは世界広しと言えども俺だけだと思いますよ」
「ダイバの言う通りだよ。世界でダイバだけってのはさすがに言い過ぎだけど、少なくとも俺の周りでは一人だけだよ」
「そう」
俺とダイバの声に、おばあちゃんはどこか納得のいっていない様子だった。
「えっと、ダイバくんは私の家に遊びに来たこと、覚えてない?」
おばあちゃんはダイバを見て、そう言った。
「……いや、覚えてないですね。何歳くらいの時ですか?」
「たしか快斗が五歳くらいだったかな。快斗が、幼稚園でできた友達だよって紹介してくれたのよ」
「え?」
今度はダイバが驚く番だった。
大きく目を見開き、その目は俺を捉える。そして次の瞬間、吹き出したように笑った。
「ははは。それはないですよ。俺、快斗と出会ったのは小学生のときですもん。五歳のときなら、俺は……えっと、あれ?」
言葉の勢いが徐々に失われていく。ダイバの瞳は遥か彼方、ここではないどこかを見ているようだった。
「……俺、小学生になる前は、何をしていたんだっけ……?」
空洞。今のダイバを一言で表すならそんな言葉がぴったりと当てはまるだろう。
俺は悩んだ。今なら、今の俺ならきっと、ダイバが忘れた過去をうまく伝えられる。
——でもそれは、ダイバを苦しめることになってしまうんじゃないか。
誰かに対して、本当に優しくするのはとても難しい。今日の昼に俺が茉莉ちゃんたちにしてしまったように、優しさを履き違えてしまうことがある。
——僕はやさしいひとになりたい! 友達や、クゥちゃんを守れるようなやさしくて強いひと!
不意に、十二年前の俺の言葉を思い出す。
頭を抱えるダイバにおばあちゃんが声をかけた。
「とりあえず中に入んな。オレンジジュースでも飲んで落ち着きなさい。快斗、荷物持ってあげな」
俺はおばあちゃんに言われた通り、ダイバのカバンを持って、ダイバをリビングへと連れていった。
「大丈夫……?」
「……わからん」
ソファーに座っても、ダイバはずっと空洞のままだった。
「……俺とお前が出会ったのは、小学生の頃だよな……?」
弱々しく今にも消えてしまいそうな声と、何かに縋るような視線を俺に向ける。
「それは……」
「俺さ、最近変なんだよ。なんでかわからないけど詠んだこともないような和歌を知ってて、会ったこともないはずの女の子に懐かしくなって……。おかしくなったのかな」
ダイバはうわごとのように呟く。俺に伝える気は一切なく、ただただ行き場を失った言葉が俺の元に届いているだけ。
ダイバが喋ったことを整理する。
和歌はきっと、ヒデさんに教えてもらった歌のことだろう。俺もこの前の授業で崎山先生が詠んだとき、懐かしく思っていた。
そして、女の子は……。
「ダイバ、この前恵太と久留島に行ったんだよな? 女の子ってもしかして……」
くしゃくしゃになった髪はそのままに、ダイバは目だけを動かしてこちらを見る。
「……久留島で会った人だよ」
「その人ってもしかして……」
(クゥちゃん……なのか? いやありえない。でも、もしもその子がクゥちゃんだとしたら——。)
全身に鳥肌が立つ。
ダイバは、全てを忘れてしまったわけじゃなかった。
俺の勝手な考え——あるいはただの願望——だけど、ダイバはダイバでずっと苦しんでいたんじゃないか、と思う。これは、ダイバに苦しんで欲しいという意味じゃない。
ダイバは俺と違って全てを忘れて呑気に暮らしている、と心の隅で思っていた浅はかな俺に対する憤りと、俺とクゥちゃんを忘れないでいてくれたことへの嬉しさが入り混じっているんだ。
「——ダイバ。俺はダイバに謝らなきゃいけないことがある。まずはそれからだ」
十二年前、逃げ出した俺と違って、俺たちを守ろうとしてくれたやつが今俺の目の前で苦しんでいる。
今度は俺の番。
恵太の言う通り、俺も恵太とダイバの友達でいたかったんだ。
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