第34話 【快斗7】
——カッコ悪い。
恵太に言われたその言葉は、茉莉ちゃんを諦めたばかりの俺に追い討ちをかけた。
「なんでそんな酷いことを言うんだよ」
周りに人がいるからどうかも確認せずに、俺は風の吹いていない街並みに文句を垂れる。
俺の帰り道に落ちていた石を、思い切り蹴飛ばす。
無抵抗な石は、俺の靴にも、道路の
——俺にも悪いところはあったかもしれない。それでも、あんなことを言われるのはあんまりじゃないか。
心の中で、今日あった出来事を整理する。
——でも、ヤケクソになっていた部分はあったのかもしれない。そうさ。本当なら俺だって、茉莉ちゃんと二人きりでお昼ご飯を食べてみたいんだよ。
本当なら、本当なら。整理するつもりが、次第に心のダムが決壊していくのが自分でもわかる。
——俺だって本当は、まだ茉莉ちゃんのことが大好きなんだ。二人がキスしようとしたタイミングで教室に入ってきた俺を、俺なんかを心配してくれた優しい茉莉ちゃんが。
視界が滲んだ。腕で拭う。
——俺、また嘘をついた。昨日は仮病を使って、今日もまた。そんな俺をみんなが知ったらどう思うのかな? きっと、みんな俺のことをカッコ悪いと言う。もしかしたら恵太には、呆れられるかもな。
拭っても拭っても滲んだままの視界そのままに、帰り道を一人歩く。
——お母さんはなんて言うんだろう。心配してくれるのかな? それとも、仮病がバレて怒られたりして。いや、そもそも泣き腫らした目で帰るのはまずいかな。
足を止めて携帯を取り出す。
怒られるにせよ、心配されるにせよ、真っ直ぐ家には帰りたくなくなってしまった。
——おばあちゃんに会いに行こう。
携帯の中の電話帳を開いて、祖母と表記された箇所に触れる。少し間があって、俺の携帯は音を出しながら振動し始めた。
『はい? どうしたの快斗』
おばあちゃんの声。いつもと変わらないその声に、心の底からホッとする。
「あ、ごめん。今大丈夫?」
『大丈夫。大丈夫。今日は暇してたから』
「ならよかった。今から家に行ってもいい?」
『いいけど。……あんた学校はどうしたの? まだお昼だよ?』
嘘をつくか、本当のことを言うか。俺はかなり悩んだ。
「ごめん。俺、ちょっと相談したいことがあるんだ」
悩んで悩んで、悩んだ末に、俺は本当のことを言おうと決心した。
——本当は、こんな嘘ばかりつくような自分が大嫌いなんだ。
『わかった。今は深くは聞かないから。気をつけて来な。ばあばの家はわかるだろ?』
「わかるよそのくらい。俺ももう高校生なんだよ」
そう言い切ったあと、心臓は少しだけ大きく鼓動した。今の俺は、本当に高校生だと言い切れる自信がない。
『そう。そりゃそうだね。どのくらいでうちに着く? 一時間くらい?』
「いや、今もう駅に向かってるし、そんなにはかからないと思う」
『わかった。それじゃあ待ってるからね』
プツン、と会話が途切れた。
不思議なことに、あれほど溢れていた涙はいつのまにか止まっていた。
大きくはないけど、隅々まで手入れされた庭。ピカピカに磨かれた青い車。俺よりも少し背の高い塀に囲まれたそれら全てが、俺のおじいちゃんとおばあちゃんの思い出であり、宝物なのだろう。
インターホンを押す前にそんなことを考えた。
少し背伸びして覗いたおばあちゃんの家は昔とさほど変わりはなくて、今でも俺を子供扱いしているような懐かしさを覚えた。
久留島の街並みは、大きくは変わっていない。あの幼稚園に通っていたときからずっと。
そして俺もこの街と同じように、十二年前と何も変わっていなかった。
ヤケクソでダイバと茉莉ちゃんを無理やり二人にして、恵太に怒られて。十二年前と同じようにその場から逃げ出したんだ。許されたくて、「ごめん」だなんて卑怯な言葉まで使って。
インターホンに伸びる人差し指が勢いを失う。視線は、均一にならされている道路に向けられる。
俺は一体、何がしたいんだろう。そんなこと考えると、もう一度自分が嫌いになる。
「あんた家の前で何してんの?」
おばあちゃんの声がした。顔を上げると、笑顔と困惑が混じった表情をしたおばあちゃんが俺の目の前に立っていた。
「相談したいことがあるんだろ? ほら、外は暑いからさっさと中に入りな」
そう言うとおばあちゃんは俺に向かって乱暴な仕草で手招きをする。きっと、できるだけ外にはいたくないのだろう。
「うん」
俺は小さな声でそれに応えた。
ふかふかなソファーに座り、一息つく。
「それで? 何に悩んでるのかな?」
よく冷えたオレンジジュースがコップの半分くらいまで減ったとき、おばあちゃんは俺にそう問いかけてきた。
単刀直入。
気を使うでもなく、無神経なわけでもない。残り半分のオレンジジュースを飲まなくても満足してしまうような。
俺にとっておばあちゃんは、やはり特別だった。
「俺、今日友達にカッコ悪いって言われたんだ」
「……それが勉強をサボった理由?」
おばあちゃんは呆れることも、怒ることもせずに静かに話を聞いてくれる。
「その言葉にとどめを刺されたって感じ。最近嫌なことばかり起きてて、それで」
「なるほど。その嫌なことってのは?」
嫌なこと。それは俺の恋愛に関すること。どう話せばいいか、俺はうまい言葉が出てこなくて、黙ってしまった。
「なんだい。ここまできて恥ずかしがってないの。早く言いなさい」
「……失恋したんだ」
俺の言葉に反応するように、残ったオレンジジュースに浮いている氷が、カラン、と音を立てた。
「へえ。失恋ねえ……」
おばあちゃんは頷きながら、俺の目を見る。おばあちゃんの目は「話の続きを」と言っているようだった。
「俺、去年からずっと好きな子がいたんだ。茉莉って言うんだけど。でもその、茉莉って子の好きな人は俺の幼馴染だったんだ」
「ああ、えーと、なんだっけ。ダイバだとかなんとかって呼ばれてる子かい? ほら、あんたが五歳くらいの時にうちに遊びに来たことがある」
「そう。ダイバはあだ名なんだけどね」
「なんでそんな変なあだ名になったんだろうねえ。不思議」
「ああ、ダイバの話はまた今度するよ。
それでさ、俺の好きな子とダイバは今いい感じなんだよ。二人は付き合ってはないけど、もうほとんど付き合ってるようなものでさ」
俺はそこでオレンジジュースに手を伸ばす。
放課後、昼休み、教室に二人きりでいる場面が頭に浮かんでしまって、喉がカラカラに乾いてしまった。
「そう。それは辛いね」
悲しそうな表情を浮かべながら、おばあちゃんは俺のコップにオレンジ色の液体を注いだ。
「……しかもこの前、放課後に忘れ物を取りに行ったら、教室で二人きりで勉強しててさ。それを見てたら俺、なんか苦しくなっちゃってさ」
「はあ……なんで教室なんかで二人きりになるのかねえ」
おばあちゃんは「やれやれ」と言った様子で、額に手をあててため息をつく。
「なんだか、二人だけの世界があるような気がしてさ。それまで俺はダイバの幼馴染で、茉莉ちゃんとは仲の良い友達だったのに。急に俺だけ仲間外れにされたような……気がして」
自分の心の底に澱んでいた言葉が、するすると吐き出される。
おばあちゃんに話していて、自分で気づいた。恵太がなんで俺をカッコ悪いと言ったのか。
「失恋はわかったけど、どうしてカッコ悪いなんて言われたの? もしかしてその女の子に?」
「いや、カッコ悪いって言ったのは男なんだ。ダイバとは別の友達。
今日、俺はダイバと茉莉ちゃんを二人きりにさせたんだ。昼休みに二人以外のみんなをトランプに誘ってさ。そしたら友達が言ったんだ。それは応援じゃなくて嫌がらせだ、って」
「あんた、無理やり二人きりにさせたんじゃないだろうね?」
おばあちゃんの目がギラリと光ったような気がした。
オレンジジュースに伸ばしていた手を止める。
「……うん」
「……はあ。あんたもまだまだお子様だね」
おばあちゃんは、呆れた、と言わんばかりに椅子にもたれかかった。
今なら、お子様と言われても、カッコ悪いと言われても、不思議なことにすんなりと受け入れられた。
「そのトランプに誘わなかったってことは、二人には何も言わずにってこと?」
俺は黙って頷いた。声を出すと、涙も一緒に溢れてしまうような気がしたから。
「お馬鹿だねえ。あんた勉強はできるのに、そういうところがお馬鹿なんだよ。そういうのはね、余計なお世話って言うんだ。
その、あんたにカッコ悪いって言った子はあんたの恋愛事情は知ってるの?」
「……俺から直接話したことはないけど、知ってはいたみたいなんだ」
「ならカッコ悪いって言うのも頷けるねえ。最初は、私のかわいい孫になんてこと言うんだ、と思っていたけど今のあんたは確かにカッコ悪い」
「やっぱりそうかな?」
「……本当は自分でもわかってるんだろ?」
「……おばあちゃんに話していたら、なんとなくだけど」
「その子が好きなら好き。その子に素敵な相手がいようと、それでいいじゃない。ヤケになって変なことをしても、虚しいだけよ。ましてや、あんたの個人的な理由で周りの友達を巻き込んじゃいけないよ」
優しいっていうのはこういうことなんじゃないか、そう考えたとき、心の中の何かがガラリと変わったような気がした。
燻っていた火が勢いを取り戻したような、無くしていた歯車が見つかったような。形容し難い正の感情が俺を支配していた。
「また風が吹いてきたねえ……」
おばあちゃんが窓の外に広がる小さな庭を眺めながら、ぽつりと呟く。
俺も庭に目を向ける。綺麗な緑の葉っぱがこちらに向かって手を振るように、優しく揺れていた。
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