第33話 【ダイバ16】

 茉莉の顔がすぐそばにある。

 茉莉の瞳は、よく見ると綺麗な茶色をしているということを、俺は初めて知った。陽にあたって、きらきらと輝いている。

 昼ご飯が冷めていく。昼休みの時間が減っていく。そんなことはお構いなしに、俺と茉莉は無言で見つめ合っている。

 何か喋らなきゃ。そんなことを頭の片隅に思い浮かべながらも、心はずっと、茉莉の方を向いたまま。

「……ダイバ」

 瞳は俺を捉えたまま、口が微かに動いて、俺の名前を呼ぶ。

「茉莉……」

 確かめ合っているみたいだった。お互いの気持ちだとか、今から何をするのかとか、これからの未来だとか。

 これが青春じゃないのだとしたら、俺が生まれてきてから学んだことや、感じたこと、それら全てが嘘になる。そう思えてしまうくらい、今この瞬間は青春だった。

 少し微笑み、茉莉がゆっくりと目を閉じる。

 茉莉は待ち望んでいるんだ。何を、と聞くのは野暮だろう。


「……ごめん」


 ——時間が止まった。

 耳を疑った。ここまできて、茉莉がそんなことを言うはずがない。

 教室中を見渡して、すぐに安堵した。今の「ごめん」は快斗が言ったものだった。

 ドアが申し訳なさそうにゆっくりと動いて、快斗が教室に入ってくる。

 快斗に悟られまい、と俺は何事もなかったように、激しい青春の渦から抜け出した。

「お、快斗か。どうした?」

 快斗に向けた俺の視界の隅に弁当を食べているフリをしている茉莉が映る。

「どうした? って……ここはみんなの教室なんだから、俺が入ってくるのは当たり前じゃないか」

 快斗は笑いながらそう答えた。

「まあ、そりゃそうか。そうだよな」

 そんな当たり前のことを忘れていたのが少し恥ずかしくなって、俺は快斗と同じように笑った。

「あ、俺、ちょっと体調が悪いから早退するね。もう先生には言ってあるけど、恵太に何か聞かれたらそう伝えてくれないかな?」

 そう言う快斗は、どこも体調が悪いようには見えなかった。

「そうか。風邪?」

「うーん、どうだろう。熱はなかったんだけどね。ちょっと体がダルくて、頭も痛いから、もしかしたらそうかも」

「なるほどな。お大事に」

 俺は手を上げて快斗に声をかけ、いつも通りを装う。

「快斗くん、お大事にね。夏だけど夜はあったかくして寝た方がいいよ」

「……うん」

 茉莉の声を聞いた瞬間、快斗はとても悲しそうな表情を浮かべる。が、すぐに、ぎこちない笑顔をこちらに向けた。

「二人とも……ごめん。ありがとう」

 弱々しい声を上げ、快斗は来た時と同じように、優しくドアを動かした。ゆっくりとドアが閉じられる。

「ごめん。って、なんだ?」

「……なんだろうね?」

 少しの間、俺たちは優しく閉じられたドアを二人で眺めていた。

「……あ、お昼食べなきゃ」

 静かな教室に、茉莉の声が響いた。

「そうだな」

 俺はそう答えて、箸を握る。

「ねえ。卵焼き……食べたい?」

 茉莉も俺と同じように箸を持って、卵焼きを挟んだ。

「ん? さっき一個貰ったし、大丈夫だぞ」

「そうじゃなくて……明日の卵焼き」

 そう言うと、茉莉は顔を真っ赤にしながら、自分の口の中に勢いよく卵焼きを放り込んだ。

「あ……そういうことか」

 茉莉は遠回しに「明日も一緒に食べよう」と言おうとしている。そう思った俺は、すぐに頷いた。

「本当?」

「まあ、うまかったしな」

「やった。じゃあ……がんばるね?」

「うむ。余を満足させてみよ」

「何それ。変なの」

 茉莉はクスクスと笑う。自分の言葉で誰かが笑ってくれることが、なぜかいつもより嬉しく感じた。

「……その唐揚げもうまそうだな」

 俺はなんだか気分がよくなって、もっと茉莉と話をしていたくなって、茉莉の弁当中でも一番立派な唐揚げを指差した。

「ダメだよ。この子はうちの主力選手だもん」

「いいだろ? 我が弁当箱チームのシャケ選手とトレードで頼む」

「シャケは朝食べたので却下します!」

「俺も朝シャケだったんだよ。だからさ……な?」

「ダメ〜! シャケがかわいそうだよ? 美味しく食べてあげないと。ほら、一年生のときに国語の授業で教わったでしょ? 『イノチはイノチを食べています……』って」

 言われて、俺は去年の思い出を脳内でほじくり返す。

「そんなこと、習ったか?」

 茉莉の言った言葉は俺の思い出の中には残っていないようで、いくら考えても何も浮かんでこなかった。

「もう。去年習ったときはこの詩のこと褒めてたじゃん」

「ええ? てか、習ったのいつだっけ?」

「去年の五月とかそのくらい。……ほら、その、いちごミルクを奢ってくれたときだよ……?」

 茉莉が上目で、何かを俺に訴えかける。けれど、残念ながら、俺が茉莉にいちごミルクを奢った覚えはなかった。

「悪い、それも覚えてない……」

 俺は頭を下げる。

 覚えていないと言ってしまうと、茉莉を落胆させてしまうような気がした。それでも、嘘をつくのは嫌だったんだ。

「何それ……? 酷くない?」

「俺、ノート見せてもらったお礼として何回か購買のものを茉莉に買ったけど、いちごミルクは奢ってないと思う」

「なんで忘れちゃうかな……」

 茉莉は大きくため息をついた。

「もし、俺が忘れてるだけなら、それは本当にごめん。でも、覚えてないんだ」

「ダイバが奢ってくれたことを忘れたらがなくなっちゃうじゃん……」

 がっくりとうなだれ、茉莉は唐揚げを頬張った。

「悪い。茉莉、許してくれ」

 心の中では、どうして茉莉がここまで落ち込んだり怒ったりしているのかわからなかったが、今は誠意を見せなければいけない気がして、俺は箸を置いて頭を下げた。

「……でも、今こうして二人きりになれてるし、まあいっか。許す」

 茉莉は少しの間何かを考えていたが、俺の顔を見て、ふっ、と口角を上げた。

「ありがたき幸せ」

 うやうやしく頭を下げる。ここで茉莉はやっと、いつものように「何それ」と笑ってくれた。

「あ! ダイバまずいよ。お昼休みが終わっちゃう!」

 茉莉の焦った声。

 俺はその声に流されるように弁当をかきこみながら、茉莉が笑顔でいてくれてよかったと安堵した。

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