第31話 【ダイバ15】と【シノ8】

「この卵焼きって、茉莉のお母さんが作ったのか?」

 口の中に残っている卵焼きを全て飲み込んだあと、俺は茉莉に尋ねる。

「わたしだよ。この卵焼きだけはわたしが作ってるんだ」

「そうなのか。すごいな。めちゃくちゃうまいよ」

 茉莉の作った卵焼きは本当に美味しかった。

 そして、なぜか懐かしい気持ちになる。

「誰かに教わったりしたのか?」

「小さいとき、おばあちゃんに教わったんだ。ダイバはわたしの卵焼きを美味しいって言ってくれたけど、おばあちゃんの卵焼きはこの百倍は美味しかったんだよ」

 茉莉はそう言うと、少しだけ遠い目をする。

「あ、悪いな。去年のことを思い出させちゃったか」

 俺は頭を下げる。茉莉のおばあさんは、去年の四月に亡くなったんだ。

「ううん。気にしないで。去年は落ち込んでたけど、さすがに今はもう大丈夫だから」

 茉莉は優しく微笑んだ。

「それにね、今はおばあちゃんから教わった卵焼きのレシピを、しっかり受け継ぎたいって思えるようになったの」

「そうか。……にしても、これの百倍って凄まじいな。今でも十分うまいぞ?」

 俺は茉莉をどうにか褒めたくて、茉莉の弁当の中に一つだけ残っている卵焼きを指差した。

「ありがとう。でもね、本当に百倍くらいなの。下手したら千倍? とにかく、一度でいいからダイバにも食べさせてあげたかったな、なんて思っちゃうくらい」

「うーん、そこまで言うってのは相当だな」

「……そういえば今思ったんだけど、ダイバの家の卵焼きって甘くないやつなんだね」

 茉莉が俺の弁当箱の中の卵焼きに目を向ける。

「ああ、母さんがしょっぱい卵焼きの方が好きでな。実は俺も、どちらかと言うとしょっぱいやつの方が好きなんだよ」

「へえ〜」

「あ、別に甘いのが嫌いってわけじゃないぞ? 茉莉の卵焼きなら毎日食べたいくらい……」

 そこまで口にして、俺は動きを止める。

「毎日……?」

「あ、いや、今のは……。えっと、その……忘れてくれ」

「何を?」

 茉莉が身を乗り出して、ニヤけた顔を近づける。

 長い髪が揺れて、いい香りが俺の鼻腔をくすぐった。

「毎日ってところ」

「えー? それは困るなー。わたし記憶力いいからなー」

「……記憶力がいいなら、一つでも多く数学の公式を覚えればいいのに」

 わざとらしい棒読みをする茉莉に仕返しのつもりで俺は言う。

「それはそれ。これはこれ。だよ」

「うわ、都合のいい頭だなあ」

「だって、数学の公式はつまらないんだもん。わたしが忘れないのは、嬉しかったこととか、楽しかったことだけなの」

「てことは、俺の発言は嬉しかった……ってことか?」

 俺の問いに、茉莉は「しまった!」という表情を浮かべる。

「い、今のは言葉のアヤだから……。忘れて」

 椅子に座った茉莉に、俺は身を乗り出して顔を近づける。

「残念ながら、俺も記憶力いいぞ」

「あ……バカ」

 茉莉が赤面しながら、俺のことを見つめる。


 風が、止んだ。そんな気がした。



 *******



 朝から吹いていた心地の良い風は、どうやら私が保健室のベッドで寝ている間に、止んでしまったようだった。

 風が吹いて、私の目の届かないところへ飛んでいってくれたらいいのに。

 私の隣にいるヤスに対して、そんなことを思う。

「で、体調はどうよ?」

「……おかげさまで」

「そうか。ならよかったな」

 保健室を出て、私は先生の言いつけ通り真っ直ぐ下駄箱に向かった。それがまずかった。どうやら今日の私は素直すぎたみたいだ。

 下駄箱にはヤスがいた。私がそれに気づいたとき、ヤスも同じように私を見つけていた。

 いつも一緒にいるはずのミキヤがどこにもいなかったのは不幸中の幸いだったけれど、それでも今日は一人で帰路につきたかった。

「貧血か?」

 ちょっとした沈黙を経て、静かに発せられたヤスの一言目は、絞りきった雑巾からぽたぽた垂れる汚水のようなものだった。

「貧血なんかじゃないわ」

 ため息と一緒に言葉を吐き出す。

「原因はよくわからない感じ?」

「まあ、そうね。先生は心因性の何かって言ってたけど、よくわからなかったな」

「原因がわからないんじゃあ、どうしようもないよな」

「また倒れたら、その時はその時よ」

「縁起でもないことを言うな。心配するだろ」

「ヤス君が?」

「俺もそうだし……みんなも。それに、ミキヤもな」

 ヤスの口から飛び出たミキヤという言葉に、私は思わず眉をひそめる。

「……ぶっちゃけシノってさ、ミキヤのこと、どう思ってる?」

 私の表情が見えていないのか、呑気な口調でヤスは言う。

 今の私にとって、この質問が世界で一番難しい質問かもしれない。

 はっきり言ってミキヤのことは嫌いだ。でもそれをミキヤの友達であるヤスにストレートに伝えられるほど、私は強くない。

「あー、俺がお前にこんなこと言うのは違うのかもしれないけどさ、ミキヤはああ見えて本気なんだぜ?」

「本気?」

「ああ。あいつはカルく見えるけど、悪いやつじゃねえんだ。だから、頼む。あいつの想いに応えてやってくれよ」

 何それ? 軽く頭を下げるヤスに私は心の中で少し憤る。

(相手のことを本気で想っていたら、その想いが相手にとって迷惑だったとしても、応えなきゃいけないの?)

 口をぎゅっと閉じる。少しでも油断したら、ヤスに酷いことを言ってしまいそうだった。

「それは、違うと思う」

 私はなるべく冷静に、ゆっくりと口を開いた。

「だ、だよな。すまん。俺がシノにお願いするのは、さすがにズルだよな」

 私が違うと思ったのはそこじゃない。

 たしかにヤスがミキヤの想いを代弁するのはズルいとは思うけど、私はそれに怒ったりなんかしない。きっと、ヤスはヤスなりにミキヤのことを思ったのだろうから。

「私ね、ミキヤ君のことは、好きでもなんでもないの」

 深呼吸をして、ゆっくりと、私はヤスに言う。

「え、でもシノお前……」

「——勘違いしている人もいると思うけど、私は、ミキヤ君のことは好きじゃない。私のミキヤ君に対する態度も、照れ隠しなんかじゃないの」

「……今のクラスが始まったとき、ミキヤのことカッコいいって言ってたじゃん」

「顔はね。でも、私にとって大切なのは中身なの」

「なんだよ? まるでミキヤの中身がダメみたいな言い方じゃねえかよ」

「ダメとは言ってない。ミキヤ君の中身が私とは合わないだけ」

「だからそれはさっき言っただろ? あいつは悪いやつじゃねえって」

 ヤスの声が大きくなる。

「いい人だとか、悪い人だとか、そういう問題じゃないの」

「じゃあなんだってんだよ?」

「っ!」

 ヤスの大きな手が私の肩を掴んだ。


 ——どうして俺の言うことが聞けないんだ!!


 瞬間、私の脳内で大きな怒鳴り声が再生された。

 壊れていたはずの、壊れたままでなければいけないはずのビデオが再生されたような。

 また、彼と久留島駅で会った時と同じ、根源的な恐怖が私を襲う。

 全身がガタガタと震え出す。口からは声にならない声が漏れる。

「おい、何してんだお前!」

 遠のく意識の中で、私の鼓膜を揺らした聞き覚えのある声。


 ——なつきに乱暴するな!


 そうだ。この声の主は……ようたろう君だ。

 私は恐怖に慄きながらも、彼に身を委ねるように意識を失った。

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