第30話 【ダイバ14】
今日はやたらと茉莉と目が合う気がする。
気のせいじゃない、と思う。
今日は夏にしては涼しい一日で、風がよく吹いている。それも、そよそよと心地のいい風が。
だからといってそれが冷房を使わなくていい理由にはならないと俺は思うけど、瀬田西高校の先生方には通じないらしい。
今日はずっと、俺の左側にある窓の隙間から優しい風が絶えず教室に入り込んでいる。
「ねえ、ダイバ?」
右隣から、茉莉の声がする。
「どうした?」
「ここの問題の答え、教えて。この問題わたしが答えなきゃいけないんだけど、よくわからなくて」
今は数学の授業中。
茉莉が指差した問題は、俺にとっては簡単なものだった。
「ああ、ここは線分abを1:2に外分する点を求めればいいんだけど、aが(−5)でbが(2)だから……答えは(−12)だな」
「え、すごいな。さすがダイバだね」
さすが、と褒められると嬉しくなる。
「ま、まあな。数学は得意だから」
だんだん俺は嬉しさよりも少しだけ恥ずかしくなって、思わず窓の外に目を向ける。
「ありがとう」
茉莉の声が聞こえて、俺は右手を軽く上げて答える。
しばらくして、茉莉は武田先生に褒められていた。理由はもちろん、スパッと正答したから。
それを見ていた俺はなんだかすごくいいことをしたような気分になって、隣の席で密かに笑っていた。
昼休みになって、俺たちの教室はいつものように賑やかになる。
そしてクラスのみんなはわいわい騒ぎながら、外に出て行ってしまった。
「え? お、おい。みんなどこ行くんだよ?」
俺は眠そうな顔をしている伊田川の肩を掴んで問いただす。
伊田川は肩を掴んでいる俺の手をゆっくりと離すと、「やれやれ……」と言いながら首を横に振った。
「おい、伊田川? 何隠してんだよ?」
「あ、
伊田川に詰め寄ろうとしたとき、快斗が俺と伊田川の間に割り込んでくる。そして伊田川の手を握ると、そのまま教室を出てどこかへ行ってしまった。
「みんな行っちゃったね……」
教室に残ったのは、俺だけではなかった。
「茉莉……」
「……ダイバはなんか聞いてる?」
窓の外に広がる景色を眺めながら、茉莉はため息と共に言う。
「いや、俺は何も」
「そっか」
茉莉は、俺の返答を聞いて大きく息を吸い込む。いっぱい吸い込んだ分の息を吐ききると、自分の頬を軽く叩いた。
そして振り返り、とびきりの笑顔で俺に言うんだ。
「こうなったら二人でお昼楽しもうか!」
俺は考える。いくら考えても、何も思い浮かばないけど。
「……そうだな」
今、この二年三組にいるのは、俺と茉莉だけ。どんな意図があろうと、誰が何を企んでいようと、答えが出ないなら今を楽しんだ方が絶対にいい。
「お昼、食べよ!」
茉莉は横に並んでいる俺たちの机を、向かい合わせになるように動かした。
俺は茉莉の正面に座り、カバンの中から弁当を取り出す。
ここで俺の脳みそは、しばらくの間、考えることを放棄した。
「あ、そういえばダイバがお弁当持ってくるって珍しいね」
「ああ、母さんの仕事が昨日と今日休みになったんだよ。とにかく暇でしょうがないから久しぶりに弁当作ってあげるって言ってくれてさ」
「それで今日は弁当ってわけね」
「そう。おかげで購買にいく口実がなくなっちゃったな」
「何それ、弁当が美味しくないってこと?」
「いや、めちゃくちゃうまい。本当は毎日作ってほしい」
「じゃあいいじゃん。なんでそんな言い方するの」
「いや、購買のカスタードコロネが目ん玉飛び出るくらいうまいんだよ。だから、母さんの弁当を食べて、デザートとしてコロネを食べたい。茉莉は食べたことないか?」
「一回だけ。去年サーちゃんと購買に行って食べたよ」
「美味くなかったか?」
「すっごく美味しかった」
「だろ?」
「ふふ。なんでダイバが嬉しそうなの?」
「だって、俺が好きなものを誰かが同じように好きって言ってくれたら、なんか嬉しくないか?」
「うーん。わかるようなわからないような……。ていうか、それだけ好きなら、お弁当作ってもらった日もカスタードコロネ買いに行けばいいじゃん」
「それは面倒なんだよなあ。しかも、弁当が手元にあるのにわざわざ購買に行くのはちょっと浮気してるみたいでなんかな」
「何それ。本当ダイバって変」
「そうか? そんなに変か?」
「うん。すごく変」
「はいはい。どうせ俺は変人ですよ!」
「オブラートに包んでほしい?」
「……せっかくなら」
「すごく個性的」
「なんか幼稚園の先生みたいなオブラートの包み方だなあ」
「なんで幼稚園の先生なの?」
「いや、なんとなく」
「変なの」
「そこは個性的だね、だろ」
「今のは本当に変だったし」
「ああ、そうかよ。ほら、昼食べるんだろ? さっさと食べようぜ」
「そうだね。いただきまーす!」
茉莉が綺麗な緑色のブロッコリーを頬張った。
俺は小さく「いただきます」と呟いたあと、弁当に入っている茹でたアスパラガスを口に入れる。アスパラガス特有の青臭さと甘み、遅れてやってくる苦み、かかっているマヨネーズ、それら全ての組み合わせがなんとも言えない。
口に食べ物が入っていたらうまく喋れない。そんな当たり前のことが、俺と茉莉の会話を止める。
「……やっぱり卵焼きって、誰のお弁当にも入ってるよね」
ブロッコリーの次は何を食べるか迷っていた茉莉は、視線を少しずつ俺の方に移動させ、俺の弁当の中にある黄色を見る。
「まあな」
答えながら、俺はアスパラガスを飲み込む。
「もーらいっ!」
一瞬だった。茉莉の右手が伸びたと思った瞬間、ピンク色の箸が俺の弁当の中の卵焼きを奪っていった。
「あ!」
少し遅れて俺は茉莉の方へ身を乗り出す。
「ん〜、ダイバの家の卵焼きすっごく美味しい〜」
わざとらしく頬に手を当てて、茉莉は俺の卵焼きを味わっている。
「くそ……やりやがったな。楽しみにしてたのに」
俺は少し笑いながらも、悪役じみた演技で悔しがる。
「こうなったら俺もやり返してやる!」
「いや〜、泥棒〜。わたしの卵焼きちゃんはあげないよ?」
「あ、弁当箱に蓋するのはズルいぞ! 取れないだろ!」
「な〜に〜? そんなにわたしの卵焼き食べたいの〜?」
意地の悪い笑みで茉莉は言う。
「食べたい」
「……じゃあ、今からわたしの言うこと、聞いて?」
「言うこと?」
「目、閉じて」
「目?」
「そう。わたしがいいよって言うまで閉じてて。そしたらあげる」
茉莉の言うことは、思っていたよりも簡単だった。
ゆっくりとまぶたを閉じる。
「見えてる?」
「いや、何も」
「口開けて?」
俺は何の疑問も持たずに口を開ける。
そして黒く塗りつぶされたように真っ暗な視界の中で、唐突に、ある言葉が思い浮かんだ。……これは、「あーん」というやつじゃないか? と。
茉莉が俺の口に卵焼きを運んでくれる。それを考えると、なんだか急に恥ずかしくなる。
「はい、もうちょっとだけ開けて。あ〜」
「あ〜」
恥ずかしいと思いつつも、俺は茉莉の声に従うように口をさらに大きく広げる。
俺の口内は、恥ずかしいけれど、茉莉の卵焼きを待っていた。でもその卵焼きは、待てど暮らせど、一向にやってこない。
おかしい。俺はゆっくりとまぶたを開ける。目の前には、笑い声をあげるのを必死に堪えている茉莉がいた。
「あ! ダメじゃん勝手に開けちゃ!」
「くそ……騙したな?」
「え? 何を期待してたの? わたしは口を開けて、としか言ってないのに」
茉莉の顔を見て、俺は思う。きっと茉莉はわかっている。俺の反応を見て楽しんでいるんだ。
「期待するだろ。この状況でそんなこと言われたら……」
俺の言葉に、茉莉の顔が真っ赤に染まる。
「……ごめん。えっと、その」
茉莉は俺とは目を合わさず、次の言葉を探しているようだった。
「……して欲しい?」
上目で、ぽつりと。ただそれだけ。
「……せっかくなら」
俺は教室の天井に規則正しく並んでいる蛍光灯に目を向け、少し間を開けて答えた。
「はい、ダイバ」
口を開ける。少し冷たくて、柔らかい感触が歯にあたる。
舌の上に卵焼きが乗り、俺は口を閉じる。甘くて、とても美味しい。
「どうかな……?」
茉莉はどこか緊張した面持ちで、卵焼きを咀嚼している俺を見つめている。
「……うまい」
俺はふざけることも、余計なおしゃべりもせず、一言だけ茉莉に伝えた。
俺がふざけなかったのは、別に気を遣ったとか、「あーん」してもらったからだとか、そんなんじゃない。
「本当? よかった〜」
俺は昔どこかで、これとまったく同じ味の卵焼きを食べたことがある。
そよそよと気持ちのいい風が吹く教室の中で、ホッと胸を撫で下ろす茉莉の笑顔に答えながら、俺はそんなことを思っていた。
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