第29話 【12年前④】と【シノ7】
『ようたろう君』
クゥちゃんがスモックの裾をぎゅっと握る。
お城から部屋に戻ったときから、クゥちゃんの顔は引きつったまま。恥ずかしいだとか、泣きそうだとか、怖いだとか。色々な感情をまとめたような。
『あ、クゥちゃん』
ようたろう君が振り返る。両手には、道具箱から取り出したであろうでんぷんのりがたっぷり付いていた。のりで名札を直そうとしていたのだろう。
ようたろう君が名札を直すのを手伝っていたかいと君は、どこか緊張した面持ちでクゥちゃんのことを見つめていた。
『どうしたの?』
『……ごめんね』
裾を握ったまま下を向いていたクゥちゃんは、絞り出すように声を出した。
『え?』
周りにいた子が聞き返す。
『ようたろう君。ごめんなさい』
ごめんなさいと言う声が、震える。
ダムが決壊したようにクゥちゃんは泣き出してしまった。
『名札壊してごめんなさい』
『おれもごめんね。クゥちゃんの宝物壊しちゃって』
ようたろう君の瞳も、クゥちゃんの涙につられるようにうるうると濡れ出した。
『ほんとにごめんなさい。乱暴しちゃって、ほんとにごめんなさい!』
泣きじゃくるクゥちゃんに、私も泣きそうになる。
ようたろう君は涙を必死に堪えながら、でんぷんのりでベタベタになった手をズボンで拭いたあと……クゥちゃんを抱きしめた。
『え?』
私は泣くことも忘れるくらい、びっくりしてしまった。
ようたろう君の、少し早い心臓の鼓動が伝わってくる。
『いいよ! だから、おれのことも、いいよって言って』
『……うん。いいよ』
みんながいる部屋の中だということも忘れて、私とようたろう君はしばらくの間、強く抱きしめあっていた。
*******
目が覚める。
無機質な白が私の目に飛び込んでくる。
「……あ! シノっ!」
綾子の声がする。
少し遅れて、今私の目の映っているものが、久留島高校の保健室の天井だと気付いた。
「シノ、大丈夫……?」
綾子が私の手を握る。どうやら私は保健室で眠っていたみたいだ。
「綾子……」
「びっくりしたよ。授業が始まってもなかなかシノが戻ってこなくてさ。心配になって見に行ったらトイレで倒れてるんだもん」
「そうだったんだ……」
私はどこか魂が抜けてしまったような気持ちで、綾子の言葉に答えていた。
本音を言うなら、もう少しだけ、今の夢を見ていたかった。
「シノ……?」
最後にクゥちゃんを抱きしめてくれたようたろう君の温もりがまだ残っているような気がして、私は手を握ったり開いたり、自分の胸やお腹を触ってみる。
「うーん……」
「なんか違和感ある? もしかして、どっか打って痛めたとか?」
当然私が今さっき見ていた夢の内容なんか少しも知らない綾子は、私の言動を心配してくれる。
「いや、特に違和感も、痛みもないわ。ごめんね綾子。心配かけて」
「ううん。いいんだよっ! それよりも本当によかった。シノの目が覚めて」
綾子の言葉で、ミキヤに踏み荒らされた私の心がゆっくりほぐされていく。
まだまださっきの夢に対する名残惜しさはあるけれど、綾子の優しさが、私が夢の中に逃げることを止めてくれている。そんな気がした。
「……あ、
保険室の先生が、ベッドの周りに垂れているカーテンを勢いよく開ける。
「先生、ついさっき目を覚ましたんです」
「そう。ちょっと立ってみて。無理はしないでね。フラッとしたらすぐにベッドに座ること」
先生は真面目な顔で言う。
「あ、はい」
私は背筋をシャンと伸ばして、立ち上がる。特にフラつくことも、視界が歪むこともなかった。
「うん。とりあえず問題は無さそうね。それじゃあもう一度ベッドの上に座って。
それで、あなたが倒れた時の状況を話してくれる? 誰もあなたが倒れた瞬間を見てないから、ちょっと聞きたくてね」
「えっと……」
「立ちくらみとか、貧血で倒れる子はたまにいるんだけどね。特に女の子に多いんだけど。あなたは貧血だったりする?」
「いえ。貧血ではないと思います。今まで言われたこともないし」
「そう。低血糖とかは?」
「それも……ないと思います。朝元気が出ないとか、そういうのも今まで体験したことがないです」
「うーん。だとしたら、何かしら? ストレス……かな? 特にあなたたちの歳は多感な時期だからね」
ストレス、と聞いて真っ先にミキヤの顔が浮かぶ。もしも先生の言う通りストレスが原因なら、間違いなくミキヤが元凶だ。
「ま、多かれ少なかれ、誰でもストレスは抱えてるもんだからね……。
とりあえず今日のところは大丈夫そうね。でも、もしまた同じようなことがあったらすぐに病院に行くこと。今度学校で倒れたらもう病院に直行だから。いい?」
先生は私に向かって人差し指を向ける。
私のことを心配してくれているのだろうけど、その先生の妙な圧に、私はどう反応していいのかわからなかった。
「篠原さん。いいわね?」
「……はい」
私は頭を下げる。
「それじゃあ、今日はもうそのまま帰りなさい。顧問の先生には話してあるから」
「え? あ、あの、今何時ですか?」
帰っていい。その言葉に、私は慌てて保健室にある時計を見る。
「あとちょっとで十六時よ。今日の授業は全部終わり」
「うそ……」
私は心にぽっかりと穴が開いてしまったような気がして、しばらくの間、時計の秒針を目で追っていた。
「よく寝たってことね。ほら、もう帰りなさい。保健室に長居は無用よ」
先生はからかうように笑ったあと、ベッドの周りのカーテンを全てに開けて、立ち上がるように促した。
「とりあえず荷物は百井さんに持ってきてもらったから、教室には戻らずにそのまま下駄箱に行って帰れるからね。今日出た課題も、担任の先生と話して提出は先延ばしできるようにしておくから」
先生の言葉のあと、綾子が私の横にカバンをそっと置いてくれる。
「シノの荷物はこれで全部だよね? なんか忘れてるものがあったら言って! 私取りに行くから!」
「えっと……」
私はカバンを開いて中身を確認する。教科書も、ノートも、部活で使うラケットも、ざっと見た限りでは全て揃っている。多分大丈夫だろう。
「大丈夫だと思う。ありがとう綾子」
「いやいや。全然いいんだよ」
「大丈夫そう? それじゃあ、今日は寄り道せずに帰ること! 百井さんは部活頑張ってね!」
そう言うと先生は私と綾子の背中に軽く触れて、少しだけ押した。
「はーい。それじゃあシノ、また明日ねっ! なんかあったら連絡してよ?」
綾子は元気に保健室を飛び出していった。
「相変わらず百井さんは元気ね〜……」
「私はいつも、綾子から元気をいっぱいもらってるんです」
「そう。ああいう友達は大切になさい」
遠い目をしながら先生は言う。
「はい。それじゃあ、ありがとうございました。失礼します」
「もう二度と来るなよ〜」
「ふふ。刑務所みたいなのやめてくださいよ」
先生はふざけて敬礼をする。私は笑いながら頭を下げて、保健室を後にした。
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